マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と記憶

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 背の高い、夜を遮るような木が並ぶ。人工的に並べられたそれに、大きな滑り台。それでもそこに自然を感じてしまうのは、コンクリートに囲まれた自分の感覚が致命的に鈍いのか。
 木と木の間に置かれたベンチ、そこに少女はいた。
 ぐったりと、力尽きたようにだらんと投げ出された白い脚。靴は片方なく、紺色のソックスが見るからに冷たそうだった。
 ぼさぼさに乱れた髪は無残に頰にかかり、少女の顔を隠している。
 ぴくりとも動かない。けれど、眠ってはいない。誰も彼女を一瞬でも遠くの世界にやることが出来ない。
 キョウコちゃん
 自分の声が、夜の中、空気よりも少しだけ温度を持って響いた。
「迎えに来たよ。キョウコちゃん」
「……どうして、こんな風なんだろう」
 顔を上げずに発された声は、電話口のそれよりも少しだけしっかりとしていた。
「どうして、こんななんだろう。どうして、こんなになっちゃうんだろう。どうして、上手くいかないんだろう。
 ───どうして、あたしなんだろう」
 頭が上がり、頭上にある水銀灯の灯りをその瞳がぎらりと映した。
「……普通は恨むって言ったよね、キョウコちゃん」
 ニノ コウについて、話した時。少女はそう言った。
 それに対して自分は返した。───折り合いを付けられなかっただけだと。
「でもね、それはキョウコちゃんも同じだよ」
 ぎらぎらとした目がこちらを見る。獣のように、こちらを見据えて、
「───恨むに、決まってるじゃないッ!」
 がりがりに痩せこけた獣が、───ついに、吼えた。
「お母さんが出て行ったのは当たり前でしょ! 当主の婚約者を殺した、って一族中から責められて詰られて! 誰だって逃げたくなるよ!
 お父さんも肩身が狭くなって、心まで窮屈になっていくのは当たり前でしょ! でも私だって、私だって生まれてきただけなのに! お姉ちゃんだってきっと、死にたかったはずないのに! どうしてこんな目に遭うの! 全部あの人がいるからじゃない! けど……! けど、原因はあの人だけど。あの人、なんだけど。───でもあの人は、私を助けてくれた。ユキとは違った方法で、助けてくれた……!」
 あたたかいご飯もふかふかのベッドもおかえりと迎える声もいってらっしゃいと送り出す声もさみしくなったらベッドにもぐりこむ相手も抱きしめる手もなにもかもないけれど、形を変えて、確かに。
「同情だけじゃなくて。気持ちだけじゃなくて。───自分から手をのばしてくれたのは、コウさんとユキだけ」
 は、と、笑みがこぼれた。泣きそうな笑い顔だということは自覚していた。
「だけど、だけど! あたしは、あたしはコウさんが憎い! ユキだって憎いしカブラギだってミキさんだって憎い! みんなみんな大嫌い! 全部持ってる癖に! 幸せな癖に! 何で! なんで! なんであたしだけ不幸なの!」
 喉から血が溢れるような悲鳴。痣だらけの腕を振り回し、少女が吼え続ける。
「誰も、あたしじゃないじゃない! 分かったようなこと言って、やさしくしないで! 何でも持ってる癖に───何にも持ってない気持ちも分からない癖に、関わって、こないでよ!」
「───何にも持ってないなら、分からないよ。持ってて失くした気持ちも」
「は、」
 弾かれたように少女が顔を上げた。───裏切られたような顔だった。
「今なら言えるかな。わたしの恋人の話をしよっか」
 少しだけ、しようか。
「背が高くて、痩せてた。最期に視た時はもっと痩せてて、ほとんど骨と皮みたいな状態だった。赤みがかった茶髪で、眼は灰色だった。でも、至近距離でよく見てみると少しだけ青みがかってるんだ。きれいな色だよ。すごくきれいな色で、世界にはこんなに深くてきれいな色があるんだって、感動した。交換条件で、見たい時はいつでも近くで見ていいっていう約束をしてた。多分相当おかしな二人に見えてただろうけど、あんまり気にならなかったな。
 アクセサリーは、してない。指輪とかしてたらしいけど、全部売っちゃったって。会う前に。腕時計だけしてたけど、それも途中で売っちゃった。ベルト通しに鍵束みたいにじゃらじゃらいろんな形の鍵をぶら下げてて、歩くたびに軽い金属の音がした。真鍮のホイッスルも付いてて、困った時にこれでひとを呼ぶんだって言ってた。多分叫んだ方が早いってその時は思った。煙草を吸うけど、ライターで火を起こすのが下手くそだった。前髪焦がしかけた時からわたしが火を付けるようになった。だからライターはわたしが持つようになった……煙草咥えて何か言いたげにこっちを見てるのを何もせずに見るのが、好きなんだ。だからよくやった。わたしと離れてから、煙草吸わなくなったんだって。ライターがいないからって。……とっくにライター自分で持ってたのに。やろうと思えば自分でも出来たのに。他の人にやってもらうことだって出来たのに。変に律儀で義理堅いひとなんだ。生き難い性格してる。そこが好き。
 コーヒーはブラックのままじゃ飲めなくて、砂糖とミルクをたっぷり入れなきゃ無理。だからカフェオレが多いんだ。だけどチョコレートはビターチョコレートしか食べれない。イチゴもつぶつぶが苦手であんまり食べれないっていうから、一個だけ全部つぶつぶ取ってみたら、見た目のグロさに引いて結局食べれなかった。わたしの苦労どうしてくれるんだって思ったけど楽しかった。歳上の癖にわたしより子供っぽい。けど、変なところやっぱ大人だから振り回されてばっかで何だかいつも悔しい。けどそこも好き。脚が長いからすぐ先を歩いちゃうんだけど、わたしが呼ぶ前に気付いて、名前呼んで振り返ってくれるところが好き。わたしに合わせて歩いてくれるようになったところが好き。声が好き。あったかくて大きな手が好き。その手をのばしてくれるところが好き。手を繋いで歩くのが好き。一緒にいるのが好き。好き。好き、なんだ。本当」



 彼の話をしよう。
 もうどこにもいない、彼の話を。少しだけ。



「……持ってたけど、全部失くしたんだ」



 たかが永遠。失くしただけ。



「持っていない気持ちと、持っていて失くした気持ちと───どっちが辛いかなんて、そんなこと」
 声は小さくなった。うつむきかけて、駄目だと顔を上げる。唇を舐めた。
「……本当に、いい子だね。キョウコちゃん」
「……なん、で? こんなにあたしは───酷くて、傷付けようとして、」
「ナオミさんのことは恨んでないんだね」
 虚を突かれたような表情でキョウコは黙った。
 一度唇を開き、閉じて、それから言葉を探すように小さく息を吐く。───考えてもみなかった、そんな風に。
 君はいい子だね。私は───いい人では、ないけれど。
 私がどれだけ嘘を吐いて、隠して、欺いて詐欺師のようだと蔑まれてもまだ尚、のうのうと生きているのに比べたら、遥かに。
「いい子だと、思うよ。だって、こんなにも辛いのに───『ナオミさんが産まれてなければ、或いは死んでいれば、自分が当主の婚約者になれたのに』って、言わないんだ。逆に彼女のことを心配すらしてるんだ」
 息を呑んだのは、少女だった。
 おかしな顔で笑おうとするこちらを見て、その瞳に美しい水が浮かび、街灯をきらきらと反射させる。
「キョウコちゃんはナオミさんが心配だって言って、私のところに来たんだもんね。───そんな子を、愛おしく思いはしても、どうして酷いなんて言えるの」
 残酷な答えの出し方を、君は識らなかった。
 識らないということが。どれだけ辛い状況でも、そんな風に考えもしなかったということが、どれほど尊いことなのか。君は分かっていない。
「だって───だって」
ぼろぼろと泣き出しながら震える少女が、自分を守るように腕を抱きしめた。
「だって───ナオミ姉さんは頼りなくて」
「うん」
「騙されやすいし、抜けてるし」
「うん」
「でも」
 腕の痣を透明な水が滑り、癒すようになぞる。



「不幸になっていいひとじゃ、ないのよ」



 あたしみたいに───



「そのことをね。ナオミさんがいなければってことをね。考えもしなければ思いもしないキョウコちゃんだって───不幸になっていいひとじゃ、ないんだよ」
 選んで。
 何かを棄てて、選んで。
「私は、こんなだけど。ともりはもっと頼りになるよ。ミキだって。ディーにも会ってほしいな。マノさんもいい人だし、わたしの愛すべき担任とクラスメイトたちにも会ってみてほしい。うるさいんだけどさ。
 帰って来て、ほしいよ。キョウコちゃん」
 両手を広げる。自分だって漸く、痣の消えた両腕。
 大したことが出来る手じゃない。大好きなものを亡くして、失くして、辛くて、辛くて辛くて辛くて───でも逃げ損ねて、それから宙ぶらりんのまま、捻じ曲がってしまった路の上、流されてなんとなく生きているだけの人間。分かっている。



 だけどこの子はまだ、頑張って手をのばせば、こっちだよって叫べば、まだ声が届いて、手を繋ぐことが出来る距離なんです。



「───嘘、吐いたのに?」
「私だってたくさん吐いてるよ」
「でも、ユキ、は。───大好きなひとに、嫌いだなんて、言ったりしない」
「それはそうかも」
「あたしは言った」
「知ってる」
「それでも───それでも、帰って、いいの?」
「だって、迎えに来たんだよ」
 一歩、一歩。
 脚を引きずって、歩いてきた少女は───こちらがのばした手に、恐る恐る触れた。
 震える冷たい小さな手。
 ぎゅっと握ると───くしゃり、と、少女が顔を歪めた。
「ほんとうは、だいすきなの───これだけは、ほんとうなの」
 その手を引き、そっと抱きしめた。ふは、と、小さく笑う。
「うん。識ってる」
「ユキ」
「うん?」
「……遅くなって、ごめんなさい」
「うん。おかえり、キョウコちゃん」
 うちの子が、笑った。
 涙を湛えて、幸せそうに。
「───ただいま、ユキ」



 深夜の公園を、ひとりの女と、ひとりの青年が歩く。その青年の背中には靴を片一方失くした女子高生がいて、くったりと力尽きたように背負われている。ぶら、ぶら、と軽く脚が揺れて、その白い膝小僧に出来た血の滲みが、時折置かれている街頭で赤黒くこべり付いて見えた。
「ようやく、一段落?」
「うーん、どうなんだろう……どうなんだろう、ね?」
 静かに落とされた青年の言葉に、同じく静かに返す。青年の背中から聞こえる微かな寝息は規則正しく、それだけが今、確かなものだった。
「キョウコちゃんは、保護が必要。それはもう、こっちで出来ることじゃない……チグサさんとも相談して、病院にも行って。でも、そうだね……ある意味では、一段落、なのかな」
 自分の帰る場所が、なかった少女。
 それでも決めた。自分の帰る場所はここだと、自分で決めた。自分で、家族を決めた。───それは第一歩で、それは一段落、だ。
「こんなところで、こんな時間にさ。微妙な年齢の男とか女がわあわあ騒いで、で、纏まったことは、『帰ろう』だけなんだなって思うと、今までのこいつの人生何だったんだろうなって思う」
「そうだね。……おかしいと思う?」
「うん」
ともりはまっすぐ前を向いたままうなずかずに肯定した。
「でも笑わない。……幸せになればいいと思う」
 静か。
 遠くのノイズ。心地よ良い。ともりの声も。それを隣で聞くことも。
「こいつはいつか、自分で家族をつくるだろうね」
ともりが言った。
「自分で決めて、自分で摑んで、自分で棄てて。───選ぶって、そういうことだ」
 運命を決めて。
 伴侶を摑んで。
 それ以外の自分に好意を寄せてくれているひとを棄てて。傷付けるひとを選択して。 
 ───そうだね。
 選ぶって、そういうことだ。




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