おまえは だれだ

ツチフル

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『番号札4番のかた、お入りいください』

 院長のアナウンスが流れると、それまでボンヤリと座っていた老人がもそりと立ち上がった。受付の横をへこへこと通り過ぎ、診察室の扉をスライドさせて奥へと入っていく。
 勇一は受付で渡された自分の番号札を見て首をかしげる。
 5番。勇一の診察はあの老人のあとだ。
 次に、待合室の正面にあるテレビで時刻を確認する。
 九時二十分。
 つまり、診察が始まってから二十分で三人の診察が終わっている計算だ。
 普通の町医者ならごく平均的な数字だろうけれど――
「……今日はやけに早くないか?」
 勇一は読み始めてまだ数ページの本を閉じてつぶやいた。
 
                        ※

 かかりつけの医者を選ぶときに、最もウェイトがおかれる条件は?
 医師の腕前。その人柄。医療設備の充実度。周りの評判。
 いや。
 結局のところ、距離だろう。
 よほどの藪医者でないかぎり、多くの場合 「いかに近いところにあるか」 が、最も大きなウェイトをしめる。
 勇一もご多分に漏れず、医療設備は充実しているが車で十分かかる 『戸波医院』でも、腕が良いと評判だけど隣町にある 『松崎内科・小児科医院』でもなく、徒歩四分で行ける 『田畑クリニック』 をかかりつけにしていた。
 今年で開業七年目になる田畑クリニックは、二つのことで有名だった。
 ひとつは、この辺りには珍しく院長が女性であること。
 田畑亜紀子。四十八歳。既婚。子供なし。くせのあるブラウンのショートヘアと、フランス人形のような大きな瞳が特徴で、若かりし頃は多くの異性から熱心なアプローチを受けていたらしい。…とは、本人談。実際、そうであったろうと納得できる顔立ちではある。
 もうひとつは、とんでもなく話好きということ。
 普通の町医者なら一人あたりの診察時間は十分未満、長くても十分を越えるかどうかといったところだが、田畑院長の診察時間は一人あたり十五分、下手をすると二十分を越えることさえある。
 よほど丁寧に診察をしているのかといえば、そんなことはない。診察時間そのものは町医者の平均か、あるいはそれより短いくらいだ。
 長いのは、そこから始まるコミュニケーションという名の無駄話である。
 最新の医療機器や新薬の開発状況といった、素人われわれでは理解がおいつかない専門分野から始まり、趣味の登山、開発したダイエット法、料理の失敗談、旦那の愚痴、親類縁者との不仲、苦かったり甘かったりする思い出話など、話題は多岐におよぶ。
 勇一たち患者一同は、適当に相づちを打ちつつも、どうにかして話を打ち切ることのできる魔法の言葉を考えているのだが、下手なことを言うとそれをきっかけにさらに話題が膨らみかねないため、うかつに口をはさめず、結局、彼女の気が済むまで話を聞かされることになるのだ。
 苦情。もちろん、ある。
 ただ、その苦情が彼女の新たな 『話題の種』 となるため、効果はない。
 我慢の限界に達した者は病院をかえることになるのだが、それでも大きな患者数減とならないのは、近くに別の病院が存在しないためだ。
 このように 『距離』 というのは―― とくに移動手段の限られたお年寄りには―― 病院選びの大きな条件となる。
「今日はずいぶんと早いねえ」
 隣に腰を掛けていた女性が、独り言よりも少し大きな声でつぶやく。いつもここで会っているような、初めて見るようなお年寄りだ。
 勇一は少し迷ってから答えた。
「そうですね。いつもなら、まだ一人目が終わるかどうかですよ」
「先生が替わりなすったかね」
「まさか」
 勇一は笑ってから、そういえば以前、研修医がここへ見学に来たときも模範的なスピードで患者を診ていたなと思い出す。
 ひょっとしたら、今日も研修医が来ているのかもしれない。だとすれば、迅速な診察にも納得できる。
 ……うん?
 ということは、普段の自分が無駄口を叩き過ぎているという自覚はあるのか。
 研修医を常駐させれば、彼女は理想的な町医者になれるかもしれない。何しろ腕は悪くないのだから。
 診察室のドアがスライドして、番号札4番の老人がへこへこと戻ってきた。
 六分と少し。理想的なペースだ。
 勇一は読まずじまいに終わった本をバッグにしまい、居住まいをただしてアナウンスをまつ。
『番号札5番のかた、お入り下さい』
 順番がきた。「今日は一日がかりね」 と妻にからかわれてきたのに、この分だと十時前に帰宅できてしまいそうだ。もちろん、いいことなのだけど。
 勇一は隣の老女に会釈をして席を立った。
 受付の前を通り、診察室のドアを軽くノックしてスライドさせる。
「失礼します」
 診察室は全体的に白っぽい、いかにも診察室らしい小部屋で、入ってすぐ目の前に置かれている患者用の丸イスと、院長の座る背もたれつきのイスだけが事務的な灰色をしていた。
「どうぞ」
 白衣を着た田畑院長はカルテをチェックしているらしく、こちらに背を向けたまま手しぐさで腰を掛けるようにうながす。
 勇一はバッグを手荷物用の台に置き、軽く頭を下げてから腰をおろした。
「先月の血液検査の結果が出てますよ」
 背中を向けたまま、院長が言う。
「ああ、はい」
 人は五十を過ぎると身体のあちこちに不具合が目立ち始めるようになるもので、勇一も昨年の健康診断でついにコレステロール値がひっかかてしまったのだ。以来、薬を服用しながら二ヶ月に一度の血液検査と、月に一度の診察を受けている。
「どうでした?」
 相変わらず背を向けたままの院長に聞く。その後ろ姿からの答えを待ちながら、勇一はふと彼女の髪型が変わっていることに気づいた。
 ブラウンのくせっ毛をアクセントにした見慣れたショートではなく、肩甲骨の下あたりまで伸びる、黒髪のストレートロングになっていたのだ。
 いわゆるイメチェンというやつか。
 伸ばした髪は色を染め直して、くせっ毛はパーマをかけて矯正したのだろう。
 こうしてみると、まるで別人だな。
 髪型ひとつでこうも印象が変わるものかと、勇一は驚く。
 診察時間の短縮も(もちろん、良いことだ)、このイメチェンと関係があるのだろうか。
 そんなことを考えて、思わず笑いそうになる。
「生活スタイル見直しました? 食習慣とか」
「え? あ、私ですか。そうですね…」
 唐突に質問をされ、勇一はあわてて答える。
「肉を減らして、なるべく魚と野菜を食べるようにしてます。それから、卵をひかえるようにしました」
「そう。卵は栄養素もたっぷり含まれているから、一日一個くらいなら良いと思うけど。うん。まあ、ひかえるに越したことはないか」
「あと、豆乳を飲んでます。善玉コレステロールを増やすらしいので」
「運動は?」
「ウォーキングを始めました。一日二十分程度ですけど、それでも体が軽くなった気がします」
「ああ、そう。……うんうん」
 院長はカルテを置くと、イスを回転させてようやく勇一のほうに向き直った。
「コレステロール値はだいぶ改善されてきてますね。なかなかいい感じです。もう少し様子をみて、この調子が続くようなら薬の服用を減らすことも検討しましょうか」
「本当ですか。それは良か――」
 安堵の笑みを浮かべて院長を見た勇一の表情が、そこで固まった。
 ……え?
「じゃあ、血圧を測かりますね。腕をだして」
 院長は血圧計を取り出すと、自分を凝視する勇一の左腕にカフを巻きつけ、ポンプで空気を入れていく。
 左腕がしめつけられていく感覚のなか、勇一は不躾なほどまじまじと彼女を観察する。
 二重まぶたの大きな目が、一重まぶたの切れ長の目に。
 筋の通った高い鼻が、平べったく横に広がる扇鼻に。
 艶のある赤い健康的な唇が、薄くて青白い唇に。
 ――違う。
 まったく違う。
 記憶にある見慣れた田畑院長の顔と、目の前で血圧計を見つめている顔が、まったく結びつかないのだ。
 整形か?
 とっさに思い浮かぶ単語。
 しかし、いくらなんでも変わりすぎだ。
 それに、仮に変われるのだとしても、後者から前者ならともかく、前者から後者への整形を望むとは思えない。
 ということは――
 ああ、臨時で頼んだ知り合いの医師か。
 勇一はいたって現実的な答えを導き出した。 
 髪型を見て別人のようだと驚いたが、何のことはない。
 本当に別人だったわけだ。
「上が122。下が82。下がちょっと高いけど、まあ、許容範囲ね。はい。じゃあ、胸の音を聞かせてください。シャツをめくって」
 言われるままにシャツをめくりあげる。聴診器の冷たい感触が胸に浸透してきた。
「大きく息を吸って。…はいて。もう一度吸って…」
  何度か深呼吸を繰り返したあと、背中を向けさせられて同じことをする。
「…問題なしと。はい、診察は以上です。シャツをしまっていいですよ」
「はい」
 普段なら、ここからいつ終わるともしれないコミュニケーションという名のオシャベリが始まるのだけど、彼女にそんな様子はまるでなく、再びこちらに背を向けて今日の記録をパソコンに打ち込み始めている。
 勇一は慣れない沈黙に妙な居心地の悪さを覚えてしまい、どうにか間をつなごうと(いつもならありえないことだが)話題をさがして、この状況でもっとも自然なトピックを口にした。
「今日は、院長先生はお休みなんですね」
 それまでリズミカルにキーボートを叩いていた手を止めて、女医がこちらを振り返った。
「…はい?」
 返ってきた答えは、Yesの 『はい』 ではなく、Whatの 『はい?』 だった。
「何か急用でもできたんですか?」
「……えっと」
「珍しいですよね。こういうときって普通は休診にすると思うんですけど。代理のお医者さんを頼むなんて」
「いや、あのね」
「え、わりとあるんですか?」
「ないですよ。そんなの」
「ですよね」
「私だって、そんなことしたことないです」
「そうなんですか。そういえば、先生はどこで病院を開いているんですか?」
 女医は細い目をさらに細めて勇一を見つめ、次いで天井を見上げて、それから困ったような、怒ったような、あるいは可笑しくてたまらないといったような表情で 「ああ、そうか」 と勇一を見つめなおした。
「……かかりつけのお医者さんが、ほかにもあるんでしょ」
「え?」
「まあ、セカンドオピニオンも推奨されてるから、それも良いと思います」
 言いながら、女医は机の引き出しをあけて、一枚の用紙を取り出した。
 セカンドオピニオン? ほかのかかりつけ?
 何の話をしてるのだろう。
 戸惑う勇一に、女医は手にした用紙―― 病院を紹介する小さなパンフレット ―― を差し出した。
「ここは田畑クリニックですよ」
 当たり前のことを言い、それから左胸につけられたネームプレートを指でつまみあげて言った。

「院長は私。田畑亜紀子です」
 
 勇一はパンフレットとネームプレートを交互に見つめ、最後に女医の顔を凝視した。 

「……はい?」
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