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物の名前をど忘れしてしまい 「あれ」 「それ」 「これ」 で、その場を取り繕う。
そんな場面が三十半ばあたりから徐々に増え始め、四十台でさらに増え、五十の声を聞いた今は、はっきりと 「ど忘れすることが増えたな」 と自覚するようになった。
それは、しかし病的なものではなく、いわゆる年齢的なものであって、深刻な問題になることはなかったし、ときには苦笑まじりの冗談にさえしてきた。
ただ。今日の出来事は、楽観主義の勇一も悩まざるをえなかった。
なにしろ、よく知っているはずの医師の顔を、まったく別の顔と取り違えていたのだから。
黒髪でストレートのロングヘア。一重まぶたの切れ長な目。平べったい鼻。薄く青白い唇。
それが、田畑クリニック院長・田畑亜紀子だったのだ。
しかし勇一が何度思い返してみても、これまで見てきた田畑院長の顔は、二重まぶたの大きな目、筋の通った高い鼻、健康的で艶のある(そして、一度話し始めたら止まらない)赤い唇の女性なのだ。
あの場は彼女の勘ぐった推測を利用して 「ああ、もう一つの病院と間違えちゃいましたよ」 ということにしておいたが、もちろん嘘だ。
勇一のかかりつけ病院は田畑クリニックしかない。
いったい俺は、誰の顔と田畑院長の顔を入れ替えてしまったのだろう。
これは 『程度の甚だしい勘違い』 ですむ問題だろうか。
ひょっとして、認知症や健忘症といった病気の可能性もあるんじゃないか。近ごろ耳にする、若年性のアルツハイマーというやつだ。
背中にぞくりとしたものを感じて、思わず肩をすくめる。
それから勇一は、自分の名前、年齢、誕生日、血液型、妻の名前、二人の娘の名前と、順を追って記憶の確認をしながら、とくに道に迷うこともなく(当たり前だと思いつつもどこかホッとして)築十二年になる我が家の玄関を開けた。
※
「ただいま」
勇一がリビングをのぞいて声をかけると、掃除機をかけようとしていたらしい由紀子が驚いた顔で夫を見た。
「おかえりなさい。…え、もう行ってきたの?」
「ああ」
「ずいぶんと早かったわねえ。まだ十一時前よ?」
「そうだな」
「待たされすぎて、順番が来る前に帰ってきちゃったとかじゃなくて?」
「いや、ちゃんと診察してもらってきた」
「あら、そう?」
それにしては、ずいぶん不機嫌そうな顔している。
診察が早く終わるのは喜ばしいはずなのに、まるで二時間待たされたあげく無駄話をたっぷりと聞かされたときのような仏頂面だ。
「なあに、その顔。血液検査の結果が悪かったの?」
思いつくのはそれぐらいだが、勇一は首を振った。
「いや、コレステロールの数値は改善されているらしい。この調子なら薬を減らせるかもしれないって言われたよ」
「あら、よかったじゃない。あなた、頑張ってたものねえ。食事制限をしたり、運動を始めたりして」
「ああ」
「じゃあ、なんなのその仏頂面は」
「…そんな顔してるか?」
「してるわ」
勇一はそうかとうなずき、目をふせる。
そして、しばらく考えたのちに口をひらいた。
「お前、田畑クリニックの院長は知ってるよな」
「田畑先生? ええ。女の先生でしょ。知ってるってほどでもないけど」
「どんな顔をしてたか、覚えてるか」
「顔?」
由紀子は質問の意図がわからずに勇一を見たが、何とも深刻そうな雰囲気を察して考え始めた。
「どんな顔っていわれてもねえ…… 私、ほとんど病院に行かないし」
「何か思い出せるだろ。目はどうだったとか、鼻はどうだったとか」
「どっちもあったわ」
「ばか。そうじゃない。形だよ。二重だったとか、鼻が高かったとか」
「どうだったかしら。……よく覚えてないわ。私、一度か二度ぐらいしか田畑先生に診てもらってないのよ。それに、診察中に顔なんてまじまじと見ないし」
そういうものだろうか。
きっと、そういうものだろう。
勇一も、たとえば総合病院で一度二度診てもらった程度の医師の顔など覚えていない。
いたって健康体の妻にとって、田畑院長はそれと同じような存在なのだ。
「先生の顔がどうかしたの? それが不機嫌の理由?」
「……何て言うかな。思ってた顔と違ったんだよ」
それを聞いて、由紀子は思わずといったように吹き出した。
「そりゃ、人様の顔ですもの。あなたの好みにあわせた顔になるわけないじゃない」
「いや、そういう意味じゃ――」
説明しようとして、勇一は口を閉ざした。
自分の記憶の中の田畑院長の顔と、実際の院長の顔がまるで違っていた。
結局、言葉にすればそれだけのことなのだ。
おそらく話したところで「ただの勘違いでしょ」 と言われておしまいだろう。
あのときに感じた薄ら寒い感覚を伝えることはできない。
「……そうだな。顔なんて変わって当たり前か」
勇一はあきらめて、笑ってみせた。
「しわが増えたり、皮膚がたるんだりね。ほんと嫌になるわ」
「お前は、あんまり変わらん気がするけどな」
「うーん。それはお世辞なのか、ただの観察力不足なのか、判断に迷うところね。はい、これ」
言いながら、由紀子は勇一に掃除機のホースを差し出してきた。
「なんだ?」
「さっき電話があって、玲子が今日帰ってくるんですって。連休がとれたから泊まってくって言ってたわ」
「そうか。…で、それとこの掃除機と何の関係があるんだ?」
「私はあの子の部屋の掃除をして寝られるようにしないといけないの。だから、あなたはここをお願いってこと」
「俺が?」
「せっかく診察が早く終わったんだもの。時間は有意義に使わなきゃだわ。どうせやることないんでしょ」
最後の一言はたとえ正しいとしても余計だと思いつつ、勇一はしぶしぶ掃除機のホースを受け取った。
由紀子が二階へのぼっていくのを確認してから、鼻歌まじりに掃除機をかけ始める。
なにしろ、愛娘が(そうとは口にしないが)久しぶりに帰ってくるのだ。嬉しくないわけがない。
すっかり気分の良くなった勇一は、院長の顔を取り違えたことは単なる勘違い、些末な問題として、頭の隅へおしやることにした。
※
「お姉ちゃん、帰ってくるんだって?」
高校から帰ってきた次女の玲奈が、玄関に入ってくるなり言う。
「おかえり。なんだ、もう知ってたのか」
「メールがきたからね。…って、お父さんじゃん」
どうやら母親が出迎えたのだと思ったらしく、玲奈は意外な相手に目を丸くした。
「仕事はどうしたの? やっぱクビになっちゃった?」
「なにがやっぱだ。今日は水曜日だろ」
「あ、そか」
勇一はこの辺りでは比較的大きな製造工場の工場長を任されており、水曜が定休日になっている。
意気揚々と生産数を伸ばしてきた時代は休日出勤も当たり前だったが、それも過去のこと。今はきっちりと定休をもらいつつ、年々増え続ける赤字を横目にして、定年までもってくれと祈る日々だ。
「で、玄関でなにしてるの?」
「大掃除だよ。玲子が帰ってくるとなったら母さんが張り切ってな。俺も手伝わされてるんだ。朝からずっとだぞ」
リビングから現れた由紀子は、
「私はリビングと玲子の部屋を片付けるぐらいのつもりだったんだけどね。どっちが張り切ってるんだか」
などと余計なことは言わず、娘を 「おかえり」 とシンプルに出迎え 「あんたもたまには部屋を片付けなさい」 と、玲奈にとっては余計なことをつけ加えた。
もっとも玲奈は 「はいはーい」 とヘリウムのような返事をして、さっさと二階の部屋へあがっていってしまったけれど…。
「玲子は何時ごろ来るんだ?」
「夕飯には間にあうように帰るって言ってたから、そろそでしょ」
「車か」
「電車よ。あの子、車なんて持ってないじゃない」
「じゃあ、駅まで迎えに行ったほうがいいかな」
「徒歩五分。必要なし」
「そうか?」
「…掃除終わったんでしょ。だったら落ち着いて、ちょっと休んでいてくださいな。心配しなくても、ちゃんと帰ってきますから」
「俺はべつに…」
言葉を最後まで聞かず、由紀子はキッチンへと戻っていった。夫の見苦しい言いわけよりも、夕食の準備のほうがはるかに重要なのだ。
インタホンが鳴ったのは、一時間ほど経ってからだった。
勇一はリビングのソファに座ったまま動かない。玄関で出迎えてやりたい気持ちは山々だが、妻と玲奈にからかわれるのは癪にさわる。
どうせこの部屋に来るのだから、どっしりと構えていて 「ただいま」 と言われたら、ぶっきらぼうに 「おう」 とか言えばいい。
それはそれで、二人に笑われそうだが。
「おっかえりー」
真っ先に聞こえたのは、玲奈の声だった。ついで玲子の声。
「ただいまあ。やっぱ電車だと遠いわー。車がほしい」
うん。元気そうだな。リビングでうずうずしながら、そんなことを思う。
「夕飯、食べてないでしょ」
由紀子の声。これは、どうでもいい。
「そりゃそうだよ。久しぶりの家庭料理を食べにきたんだから」
「お風呂に入っちゃう?」
「うーん。あとでいいかな。それよりお腹すいたし」
「じゃあ、あとで私と一緒に入ろうよ」
「オーケー、オーケー。……玲奈、あんた太った?」
「太ってないよ! いきなり失礼だな」
「ほら、早く中へ入りなさい。玲子、リビングでお父さんが待ってるから挨拶してあげてね」
「はーい」
「してあげて」 とはどういうことだ。まるでこっちが懇願しているみたいじゃないか。
内心で由紀子に悪態をつきながら、勇一は全神経をリビングの外に集中させる。
ドアノブのさがる音。
「お父さん、たっだいまー」
「おっ、おう」
ぶっきらぼうな返事をするつもりだったのに、すっとんきょうな声がでてしまった。
かっこわるい。
自分には威厳ある父親を演じるのは無理だなと実感しつつ、勇一は微かな笑みを浮かべてもそりと振り返った。
「おかえ――」
り。
口元まで出かかった最後の言葉は声にならず、一瞬で蒸発した。
「やーもう、電車がすっごい混んでてねー。ずっと立ちっぱなしだったよ」
……なんだ?
「向こうだと電車移動でも不便しないけどさ、帰るとなるとやっぱ車がほしいなあ…って」
なにが。どうなってる。
首筋がこわばる。汗が流れ落ちていく。
ひどく、冷たい。
由紀子と玲奈がリビングに入ってきた。
いったい、どういうことなんだ。これは。
「おーい。お父さん?」
玲子は凍りつく父親をのぞきこんで、茶目っ気たっぷりの笑顔を作った。
「かわいい娘が、おねだりをしていますよー」
「気持ち悪いなあ、もう」
玲奈の呆れ声が遠くに聞こえる。
「…だれだ」
「ん、なに?」
勇一は愛嬌ある笑みを浮かべる女を睨みつけるように凝視すると、低く震える声で繰り返した。
「おまえは だれだ」
目の前にいる 『玲子』 は、勇一の記憶にある長女とは似ても似つかない顔をしていた。
そんな場面が三十半ばあたりから徐々に増え始め、四十台でさらに増え、五十の声を聞いた今は、はっきりと 「ど忘れすることが増えたな」 と自覚するようになった。
それは、しかし病的なものではなく、いわゆる年齢的なものであって、深刻な問題になることはなかったし、ときには苦笑まじりの冗談にさえしてきた。
ただ。今日の出来事は、楽観主義の勇一も悩まざるをえなかった。
なにしろ、よく知っているはずの医師の顔を、まったく別の顔と取り違えていたのだから。
黒髪でストレートのロングヘア。一重まぶたの切れ長な目。平べったい鼻。薄く青白い唇。
それが、田畑クリニック院長・田畑亜紀子だったのだ。
しかし勇一が何度思い返してみても、これまで見てきた田畑院長の顔は、二重まぶたの大きな目、筋の通った高い鼻、健康的で艶のある(そして、一度話し始めたら止まらない)赤い唇の女性なのだ。
あの場は彼女の勘ぐった推測を利用して 「ああ、もう一つの病院と間違えちゃいましたよ」 ということにしておいたが、もちろん嘘だ。
勇一のかかりつけ病院は田畑クリニックしかない。
いったい俺は、誰の顔と田畑院長の顔を入れ替えてしまったのだろう。
これは 『程度の甚だしい勘違い』 ですむ問題だろうか。
ひょっとして、認知症や健忘症といった病気の可能性もあるんじゃないか。近ごろ耳にする、若年性のアルツハイマーというやつだ。
背中にぞくりとしたものを感じて、思わず肩をすくめる。
それから勇一は、自分の名前、年齢、誕生日、血液型、妻の名前、二人の娘の名前と、順を追って記憶の確認をしながら、とくに道に迷うこともなく(当たり前だと思いつつもどこかホッとして)築十二年になる我が家の玄関を開けた。
※
「ただいま」
勇一がリビングをのぞいて声をかけると、掃除機をかけようとしていたらしい由紀子が驚いた顔で夫を見た。
「おかえりなさい。…え、もう行ってきたの?」
「ああ」
「ずいぶんと早かったわねえ。まだ十一時前よ?」
「そうだな」
「待たされすぎて、順番が来る前に帰ってきちゃったとかじゃなくて?」
「いや、ちゃんと診察してもらってきた」
「あら、そう?」
それにしては、ずいぶん不機嫌そうな顔している。
診察が早く終わるのは喜ばしいはずなのに、まるで二時間待たされたあげく無駄話をたっぷりと聞かされたときのような仏頂面だ。
「なあに、その顔。血液検査の結果が悪かったの?」
思いつくのはそれぐらいだが、勇一は首を振った。
「いや、コレステロールの数値は改善されているらしい。この調子なら薬を減らせるかもしれないって言われたよ」
「あら、よかったじゃない。あなた、頑張ってたものねえ。食事制限をしたり、運動を始めたりして」
「ああ」
「じゃあ、なんなのその仏頂面は」
「…そんな顔してるか?」
「してるわ」
勇一はそうかとうなずき、目をふせる。
そして、しばらく考えたのちに口をひらいた。
「お前、田畑クリニックの院長は知ってるよな」
「田畑先生? ええ。女の先生でしょ。知ってるってほどでもないけど」
「どんな顔をしてたか、覚えてるか」
「顔?」
由紀子は質問の意図がわからずに勇一を見たが、何とも深刻そうな雰囲気を察して考え始めた。
「どんな顔っていわれてもねえ…… 私、ほとんど病院に行かないし」
「何か思い出せるだろ。目はどうだったとか、鼻はどうだったとか」
「どっちもあったわ」
「ばか。そうじゃない。形だよ。二重だったとか、鼻が高かったとか」
「どうだったかしら。……よく覚えてないわ。私、一度か二度ぐらいしか田畑先生に診てもらってないのよ。それに、診察中に顔なんてまじまじと見ないし」
そういうものだろうか。
きっと、そういうものだろう。
勇一も、たとえば総合病院で一度二度診てもらった程度の医師の顔など覚えていない。
いたって健康体の妻にとって、田畑院長はそれと同じような存在なのだ。
「先生の顔がどうかしたの? それが不機嫌の理由?」
「……何て言うかな。思ってた顔と違ったんだよ」
それを聞いて、由紀子は思わずといったように吹き出した。
「そりゃ、人様の顔ですもの。あなたの好みにあわせた顔になるわけないじゃない」
「いや、そういう意味じゃ――」
説明しようとして、勇一は口を閉ざした。
自分の記憶の中の田畑院長の顔と、実際の院長の顔がまるで違っていた。
結局、言葉にすればそれだけのことなのだ。
おそらく話したところで「ただの勘違いでしょ」 と言われておしまいだろう。
あのときに感じた薄ら寒い感覚を伝えることはできない。
「……そうだな。顔なんて変わって当たり前か」
勇一はあきらめて、笑ってみせた。
「しわが増えたり、皮膚がたるんだりね。ほんと嫌になるわ」
「お前は、あんまり変わらん気がするけどな」
「うーん。それはお世辞なのか、ただの観察力不足なのか、判断に迷うところね。はい、これ」
言いながら、由紀子は勇一に掃除機のホースを差し出してきた。
「なんだ?」
「さっき電話があって、玲子が今日帰ってくるんですって。連休がとれたから泊まってくって言ってたわ」
「そうか。…で、それとこの掃除機と何の関係があるんだ?」
「私はあの子の部屋の掃除をして寝られるようにしないといけないの。だから、あなたはここをお願いってこと」
「俺が?」
「せっかく診察が早く終わったんだもの。時間は有意義に使わなきゃだわ。どうせやることないんでしょ」
最後の一言はたとえ正しいとしても余計だと思いつつ、勇一はしぶしぶ掃除機のホースを受け取った。
由紀子が二階へのぼっていくのを確認してから、鼻歌まじりに掃除機をかけ始める。
なにしろ、愛娘が(そうとは口にしないが)久しぶりに帰ってくるのだ。嬉しくないわけがない。
すっかり気分の良くなった勇一は、院長の顔を取り違えたことは単なる勘違い、些末な問題として、頭の隅へおしやることにした。
※
「お姉ちゃん、帰ってくるんだって?」
高校から帰ってきた次女の玲奈が、玄関に入ってくるなり言う。
「おかえり。なんだ、もう知ってたのか」
「メールがきたからね。…って、お父さんじゃん」
どうやら母親が出迎えたのだと思ったらしく、玲奈は意外な相手に目を丸くした。
「仕事はどうしたの? やっぱクビになっちゃった?」
「なにがやっぱだ。今日は水曜日だろ」
「あ、そか」
勇一はこの辺りでは比較的大きな製造工場の工場長を任されており、水曜が定休日になっている。
意気揚々と生産数を伸ばしてきた時代は休日出勤も当たり前だったが、それも過去のこと。今はきっちりと定休をもらいつつ、年々増え続ける赤字を横目にして、定年までもってくれと祈る日々だ。
「で、玄関でなにしてるの?」
「大掃除だよ。玲子が帰ってくるとなったら母さんが張り切ってな。俺も手伝わされてるんだ。朝からずっとだぞ」
リビングから現れた由紀子は、
「私はリビングと玲子の部屋を片付けるぐらいのつもりだったんだけどね。どっちが張り切ってるんだか」
などと余計なことは言わず、娘を 「おかえり」 とシンプルに出迎え 「あんたもたまには部屋を片付けなさい」 と、玲奈にとっては余計なことをつけ加えた。
もっとも玲奈は 「はいはーい」 とヘリウムのような返事をして、さっさと二階の部屋へあがっていってしまったけれど…。
「玲子は何時ごろ来るんだ?」
「夕飯には間にあうように帰るって言ってたから、そろそでしょ」
「車か」
「電車よ。あの子、車なんて持ってないじゃない」
「じゃあ、駅まで迎えに行ったほうがいいかな」
「徒歩五分。必要なし」
「そうか?」
「…掃除終わったんでしょ。だったら落ち着いて、ちょっと休んでいてくださいな。心配しなくても、ちゃんと帰ってきますから」
「俺はべつに…」
言葉を最後まで聞かず、由紀子はキッチンへと戻っていった。夫の見苦しい言いわけよりも、夕食の準備のほうがはるかに重要なのだ。
インタホンが鳴ったのは、一時間ほど経ってからだった。
勇一はリビングのソファに座ったまま動かない。玄関で出迎えてやりたい気持ちは山々だが、妻と玲奈にからかわれるのは癪にさわる。
どうせこの部屋に来るのだから、どっしりと構えていて 「ただいま」 と言われたら、ぶっきらぼうに 「おう」 とか言えばいい。
それはそれで、二人に笑われそうだが。
「おっかえりー」
真っ先に聞こえたのは、玲奈の声だった。ついで玲子の声。
「ただいまあ。やっぱ電車だと遠いわー。車がほしい」
うん。元気そうだな。リビングでうずうずしながら、そんなことを思う。
「夕飯、食べてないでしょ」
由紀子の声。これは、どうでもいい。
「そりゃそうだよ。久しぶりの家庭料理を食べにきたんだから」
「お風呂に入っちゃう?」
「うーん。あとでいいかな。それよりお腹すいたし」
「じゃあ、あとで私と一緒に入ろうよ」
「オーケー、オーケー。……玲奈、あんた太った?」
「太ってないよ! いきなり失礼だな」
「ほら、早く中へ入りなさい。玲子、リビングでお父さんが待ってるから挨拶してあげてね」
「はーい」
「してあげて」 とはどういうことだ。まるでこっちが懇願しているみたいじゃないか。
内心で由紀子に悪態をつきながら、勇一は全神経をリビングの外に集中させる。
ドアノブのさがる音。
「お父さん、たっだいまー」
「おっ、おう」
ぶっきらぼうな返事をするつもりだったのに、すっとんきょうな声がでてしまった。
かっこわるい。
自分には威厳ある父親を演じるのは無理だなと実感しつつ、勇一は微かな笑みを浮かべてもそりと振り返った。
「おかえ――」
り。
口元まで出かかった最後の言葉は声にならず、一瞬で蒸発した。
「やーもう、電車がすっごい混んでてねー。ずっと立ちっぱなしだったよ」
……なんだ?
「向こうだと電車移動でも不便しないけどさ、帰るとなるとやっぱ車がほしいなあ…って」
なにが。どうなってる。
首筋がこわばる。汗が流れ落ちていく。
ひどく、冷たい。
由紀子と玲奈がリビングに入ってきた。
いったい、どういうことなんだ。これは。
「おーい。お父さん?」
玲子は凍りつく父親をのぞきこんで、茶目っ気たっぷりの笑顔を作った。
「かわいい娘が、おねだりをしていますよー」
「気持ち悪いなあ、もう」
玲奈の呆れ声が遠くに聞こえる。
「…だれだ」
「ん、なに?」
勇一は愛嬌ある笑みを浮かべる女を睨みつけるように凝視すると、低く震える声で繰り返した。
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