4 / 9
4
しおりを挟む
いつもより二本も早い電車に乗って会社へ向かったのは、玲子と顔を合わせないようにするためだった。
あまりに早い出勤に由紀子は驚いていたが、急な会議が入ったということにして誤魔化しておいた。
この時間帯は乗客も少ないらしく、勇一は悠々と座席を確保することが出来た。
目を閉じて、電車に揺られる。
脳裏に浮かぶのは、当然のように昨日のことだ。
かかりつけの医師が、別の人間になっていた。
自分の中でだけ。
手塩をかけて育てた長女が、別の人間になっていた。
自分の中でだけ。
入れ替わったのは、この二人だけだ。
今のところ―― と考えて、あわてて打ち消す。これ以上あってたまるか。
それにしても、なぜこの二人なのだろう。
彼女たちに接点はあるだろうか。
年齢もちがう。職業もちがう。背丈も顔立ちも、全然ちがう。
記憶の中の二人を比較するかぎり、だが。
それでも、何かしらの共通点があるはずだった。
たとえばこの現象が脳の障碍によるものだとしても、二人だけが別人に見えるというのはおかしい。
何かの条件があるはずだ。
ほかに考えられるのは――
「あ、工場長?」
仕事場でしか呼ばれない、仕事場では呼ばれ慣れた役職名。
勇一が反射的に顔を上げると、目の前に、スポーツ刈りよりもやや伸びた髪と、体育会系そのものと言うような濃い顔立ちをした青年が吊り輪に手を掛けて立っていた。
部下の佐々木だった。
「おう。おはよう」
「おはようございますっ」
朝から無駄に元気がある。場合によっては頼もしく、場合によってはうっとうしい。
「今日、やたら早くないですか? いつもはこの電車じゃないですよね」
「ああ、ちょっと仕事をやり残していてな」
まさか 「娘と顔を合わせたくなかったんだ」 とも言えないので、適当な言い訳をしてごまかす。
「お前こそ早いな」
「僕はいつもこれですよ。野球の朝練があるんで」
「ああ。そういえば支社の交流試合があるんだったか」
勇一の勤める工場はクラブ活動が盛んで、しばしば支社の交流戦がある。野球、サッカー、テニス、バレー。近ごろ将棋が加わったと聞く。
「今回は優勝できますよ」
「えらい自信だな」
「そりゃそうですよ。だって、今日付けで帰ってくるじゃないですか。広瀬君」
「…そうか。出向が終わったのか。一ヶ月ぶりだな」
「仕事は二流でも野球は一流ですからね。エースとして投げてもらうつもりですよ」
「そうか。…まあ、がんばってくれ」
「はいっ」
逆のほうが俺はありがたいんだがなと思いつつも激励はしておく。
それから先は仕事と雑談に費やされたため、勇一は自分の問題を棚上げにすることができた。
※
勇一の仕事は発注を受けた仕事を整理して、それぞれの製造ラインにまわしたり、新しい機械の導入の検討したり、効率よく進めるためのフローチャートを作成することだ。
もともと製造ラインから始めた叩き上げなので、仕事の流れはよくわかっている。
下からの受けが良いのも、そのおかげだろう。
若い頃はひたすら同じ作業を繰り返す日々に辟易していたものだが、こうして管理をする側になると、自分のしてきた仕事がどういう意味を持っていたのかを理解できるようになり、今さらながら楽しさとやりがいを感じている。
「工場長、広瀬君がもうすぐ着くそうですよ」
「そうか」
電話を受けたらしい事務員に生返事をかえす。
工場長といっても特別な部屋があるわけでもなく、皆と同じ事務所で作業をする。
勇一は新しく入ってきた仕事の納期の短さに目をむき、頭を悩ませているところだった。
今の仕事はまだ納期に余裕があるから、こっちを強引にねじ込むか。しかし、そうなると運転中の機械を止めて別の機械を動かすことになり、流れが滞ってしまう。
支店から作業員のヘルプを頼むこともできるけど、あまり借りは作りたくないし……
上手く折り合いがつくところを模索していると、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは作業服を着た長身の男性だった。五分刈りに太い眉と大きな鼻というインパクトの強い顔立ちで、一度見たら忘れそうにない。
「出向、ご苦労様」
「大変だったでしょ」
その男に、事務員が口々にねぎらいの言葉をかけていく。
出向?
あいつ、うちから出向してた奴なのか。
広瀬のほかにいたかな。
そう考えた瞬間、背中にぞくりとしたものがはしる。
同時に。
「工場長」
五分刈りの男が勇一の前にやってきて一礼をした。
「ただいま戻りました」
……そうか。
そういうことか。
いくつもの混乱と恐怖が駆けめぐるなかで、勇一は二つの事を理解した。
「ご苦労さん。…広瀬」
ひとつは、この男が広瀬であること。
俺の知っている広瀬は、お前じゃないけれど…
でも、お前が広瀬なんだろう?
「一ヶ月の出向はどうだった?」
「はい。最初はよそ者扱いでしたから、きつかったっすね。でも、すぐに慣れましたよ。みんな良い人たちでしたし」
「…そうか」
もう一つは、これだ。
一ヶ月という共通点。
田畑クリニックには月に一度、診察に行く。院長と顔をあわせるのは、だから月に一度だ。
離れて暮らしている玲子も帰ってくるのは月に一度ぐらいだから、顔をあわせるのも月に一度。
そして、広瀬もまた一ヶ月の間、顔をあわせていなかった。
三人に共通しているのは、会ってから次に顔をあわせるまでの期間。
つまり、こういういことだろう。
一定以上―― 期間は不明だが、少なくとも一ヶ月―― 顔をあわせていない相手が、別人になってしまうのだ。
勇一の中でのみ。
ほかの者たちには―― 田畑院長も、玲子も、広瀬も―― 以前と変わらず、その人として映っているのだった。
とにかく、原因はわかった。
いや、原因はわからないが、きっかけはわかった。
一定期間、顔を合わせていないことだ。
だとすれば、どうなる?
一ヶ月以上、顔をあわせていない知り合いなんて、いったいどれほど――
「工場長」
「え?」
呼びかけられて我に返ると、見知らぬ広瀬が勇一をのぞき込んでいた。
「大丈夫っすか? 顔、真っ青すよ」
「……ああ。いや、大丈夫だ。ちょっと寝不足なだけだよ」
勇一は笑って答えながら、心の中で広瀬に問いかける。
おまえは だれだ。
あまりに早い出勤に由紀子は驚いていたが、急な会議が入ったということにして誤魔化しておいた。
この時間帯は乗客も少ないらしく、勇一は悠々と座席を確保することが出来た。
目を閉じて、電車に揺られる。
脳裏に浮かぶのは、当然のように昨日のことだ。
かかりつけの医師が、別の人間になっていた。
自分の中でだけ。
手塩をかけて育てた長女が、別の人間になっていた。
自分の中でだけ。
入れ替わったのは、この二人だけだ。
今のところ―― と考えて、あわてて打ち消す。これ以上あってたまるか。
それにしても、なぜこの二人なのだろう。
彼女たちに接点はあるだろうか。
年齢もちがう。職業もちがう。背丈も顔立ちも、全然ちがう。
記憶の中の二人を比較するかぎり、だが。
それでも、何かしらの共通点があるはずだった。
たとえばこの現象が脳の障碍によるものだとしても、二人だけが別人に見えるというのはおかしい。
何かの条件があるはずだ。
ほかに考えられるのは――
「あ、工場長?」
仕事場でしか呼ばれない、仕事場では呼ばれ慣れた役職名。
勇一が反射的に顔を上げると、目の前に、スポーツ刈りよりもやや伸びた髪と、体育会系そのものと言うような濃い顔立ちをした青年が吊り輪に手を掛けて立っていた。
部下の佐々木だった。
「おう。おはよう」
「おはようございますっ」
朝から無駄に元気がある。場合によっては頼もしく、場合によってはうっとうしい。
「今日、やたら早くないですか? いつもはこの電車じゃないですよね」
「ああ、ちょっと仕事をやり残していてな」
まさか 「娘と顔を合わせたくなかったんだ」 とも言えないので、適当な言い訳をしてごまかす。
「お前こそ早いな」
「僕はいつもこれですよ。野球の朝練があるんで」
「ああ。そういえば支社の交流試合があるんだったか」
勇一の勤める工場はクラブ活動が盛んで、しばしば支社の交流戦がある。野球、サッカー、テニス、バレー。近ごろ将棋が加わったと聞く。
「今回は優勝できますよ」
「えらい自信だな」
「そりゃそうですよ。だって、今日付けで帰ってくるじゃないですか。広瀬君」
「…そうか。出向が終わったのか。一ヶ月ぶりだな」
「仕事は二流でも野球は一流ですからね。エースとして投げてもらうつもりですよ」
「そうか。…まあ、がんばってくれ」
「はいっ」
逆のほうが俺はありがたいんだがなと思いつつも激励はしておく。
それから先は仕事と雑談に費やされたため、勇一は自分の問題を棚上げにすることができた。
※
勇一の仕事は発注を受けた仕事を整理して、それぞれの製造ラインにまわしたり、新しい機械の導入の検討したり、効率よく進めるためのフローチャートを作成することだ。
もともと製造ラインから始めた叩き上げなので、仕事の流れはよくわかっている。
下からの受けが良いのも、そのおかげだろう。
若い頃はひたすら同じ作業を繰り返す日々に辟易していたものだが、こうして管理をする側になると、自分のしてきた仕事がどういう意味を持っていたのかを理解できるようになり、今さらながら楽しさとやりがいを感じている。
「工場長、広瀬君がもうすぐ着くそうですよ」
「そうか」
電話を受けたらしい事務員に生返事をかえす。
工場長といっても特別な部屋があるわけでもなく、皆と同じ事務所で作業をする。
勇一は新しく入ってきた仕事の納期の短さに目をむき、頭を悩ませているところだった。
今の仕事はまだ納期に余裕があるから、こっちを強引にねじ込むか。しかし、そうなると運転中の機械を止めて別の機械を動かすことになり、流れが滞ってしまう。
支店から作業員のヘルプを頼むこともできるけど、あまり借りは作りたくないし……
上手く折り合いがつくところを模索していると、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは作業服を着た長身の男性だった。五分刈りに太い眉と大きな鼻というインパクトの強い顔立ちで、一度見たら忘れそうにない。
「出向、ご苦労様」
「大変だったでしょ」
その男に、事務員が口々にねぎらいの言葉をかけていく。
出向?
あいつ、うちから出向してた奴なのか。
広瀬のほかにいたかな。
そう考えた瞬間、背中にぞくりとしたものがはしる。
同時に。
「工場長」
五分刈りの男が勇一の前にやってきて一礼をした。
「ただいま戻りました」
……そうか。
そういうことか。
いくつもの混乱と恐怖が駆けめぐるなかで、勇一は二つの事を理解した。
「ご苦労さん。…広瀬」
ひとつは、この男が広瀬であること。
俺の知っている広瀬は、お前じゃないけれど…
でも、お前が広瀬なんだろう?
「一ヶ月の出向はどうだった?」
「はい。最初はよそ者扱いでしたから、きつかったっすね。でも、すぐに慣れましたよ。みんな良い人たちでしたし」
「…そうか」
もう一つは、これだ。
一ヶ月という共通点。
田畑クリニックには月に一度、診察に行く。院長と顔をあわせるのは、だから月に一度だ。
離れて暮らしている玲子も帰ってくるのは月に一度ぐらいだから、顔をあわせるのも月に一度。
そして、広瀬もまた一ヶ月の間、顔をあわせていなかった。
三人に共通しているのは、会ってから次に顔をあわせるまでの期間。
つまり、こういういことだろう。
一定以上―― 期間は不明だが、少なくとも一ヶ月―― 顔をあわせていない相手が、別人になってしまうのだ。
勇一の中でのみ。
ほかの者たちには―― 田畑院長も、玲子も、広瀬も―― 以前と変わらず、その人として映っているのだった。
とにかく、原因はわかった。
いや、原因はわからないが、きっかけはわかった。
一定期間、顔を合わせていないことだ。
だとすれば、どうなる?
一ヶ月以上、顔をあわせていない知り合いなんて、いったいどれほど――
「工場長」
「え?」
呼びかけられて我に返ると、見知らぬ広瀬が勇一をのぞき込んでいた。
「大丈夫っすか? 顔、真っ青すよ」
「……ああ。いや、大丈夫だ。ちょっと寝不足なだけだよ」
勇一は笑って答えながら、心の中で広瀬に問いかける。
おまえは だれだ。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる