おまえは だれだ

ツチフル

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 いつもより二本も早い電車に乗って会社へ向かったのは、玲子と顔を合わせないようにするためだった。
 あまりに早い出勤に由紀子は驚いていたが、急な会議が入ったということにして誤魔化しておいた。
 この時間帯は乗客も少ないらしく、勇一は悠々と座席を確保することが出来た。
 目を閉じて、電車に揺られる。
 脳裏に浮かぶのは、当然のように昨日のことだ。
 かかりつけの医師が、別の人間になっていた。
 自分の中でだけ。
 手塩をかけて育てた長女が、別の人間になっていた。
 自分の中でだけ。
 入れ替わったのは、この二人だけだ。
 今のところ―― と考えて、あわてて打ち消す。これ以上あってたまるか。
 それにしても、なぜこの二人なのだろう。
 彼女たちに接点はあるだろうか。
 年齢もちがう。職業もちがう。背丈も顔立ちも、全然ちがう。
 記憶の中の二人を比較するかぎり、だが。
 それでも、何かしらの共通点があるはずだった。
 たとえばこの現象が脳の障碍によるものだとしても、二人だけが別人に見えるというのはおかしい。
 何かの条件があるはずだ。
 ほかに考えられるのは――
「あ、工場長?」
 仕事場でしか呼ばれない、仕事場では呼ばれ慣れた役職名。
 勇一が反射的に顔を上げると、目の前に、スポーツ刈りよりもやや伸びた髪と、体育会系そのものと言うような濃い顔立ちをした青年が吊り輪に手を掛けて立っていた。
 部下の佐々木だった。
「おう。おはよう」
「おはようございますっ」
 朝から無駄に元気がある。場合によっては頼もしく、場合によってはうっとうしい。
「今日、やたら早くないですか? いつもはこの電車じゃないですよね」
「ああ、ちょっと仕事をやり残していてな」
 まさか 「娘と顔を合わせたくなかったんだ」 とも言えないので、適当な言い訳をしてごまかす。
「お前こそ早いな」
「僕はいつもこれですよ。野球の朝練があるんで」
「ああ。そういえば支社の交流試合があるんだったか」
 勇一の勤める工場はクラブ活動が盛んで、しばしば支社の交流戦がある。野球、サッカー、テニス、バレー。近ごろ将棋が加わったと聞く。
「今回は優勝できますよ」
「えらい自信だな」
「そりゃそうですよ。だって、今日付けで帰ってくるじゃないですか。広瀬君」
「…そうか。出向が終わったのか。一ヶ月ぶりだな」
「仕事は二流でも野球は一流ですからね。エースとして投げてもらうつもりですよ」
「そうか。…まあ、がんばってくれ」
「はいっ」
 逆のほうが俺はありがたいんだがなと思いつつも激励はしておく。
 それから先は仕事と雑談に費やされたため、勇一は自分の問題を棚上げにすることができた。



 勇一の仕事は発注を受けた仕事を整理して、それぞれの製造ラインにまわしたり、新しい機械の導入の検討したり、効率よく進めるためのフローチャートを作成することだ。
 もともと製造ラインから始めた叩き上げなので、仕事の流れはよくわかっている。
 下からの受けが良いのも、そのおかげだろう。
 若い頃はひたすら同じ作業を繰り返す日々に辟易していたものだが、こうして管理をする側になると、自分のしてきた仕事がどういう意味を持っていたのかを理解できるようになり、今さらながら楽しさとやりがいを感じている。
「工場長、広瀬君がもうすぐ着くそうですよ」
「そうか」
 電話を受けたらしい事務員に生返事をかえす。
 工場長といっても特別な部屋があるわけでもなく、皆と同じ事務所で作業をする。
 勇一は新しく入ってきた仕事の納期の短さに目をむき、頭を悩ませているところだった。
 今の仕事はまだ納期に余裕があるから、こっちを強引にねじ込むか。しかし、そうなると運転中の機械を止めて別の機械を動かすことになり、流れが滞ってしまう。
 支店から作業員のヘルプを頼むこともできるけど、あまり借りは作りたくないし……
 上手く折り合いがつくところを模索していると、扉がノックされた。
「失礼します」
 入ってきたのは作業服を着た長身の男性だった。五分刈りに太い眉と大きな鼻というインパクトの強い顔立ちで、一度見たら忘れそうにない。
「出向、ご苦労様」
「大変だったでしょ」
 その男に、事務員が口々にねぎらいの言葉をかけていく。
 出向?
 あいつ、うちから出向してた奴なのか。
 広瀬のほかにいたかな。
 そう考えた瞬間、背中にぞくりとしたものがはしる。
 同時に。
「工場長」
 五分刈りの男が勇一の前にやってきて一礼をした。
「ただいま戻りました」
 ……そうか。
 そういうことか。
 いくつもの混乱と恐怖が駆けめぐるなかで、勇一は二つの事を理解した。
「ご苦労さん。…広瀬」
 ひとつは、この男が広瀬であること。
 俺の知っている広瀬は、お前じゃないけれど…
 でも、お前が広瀬なんだろう?
「一ヶ月の出向はどうだった?」
「はい。最初はよそ者扱いでしたから、きつかったっすね。でも、すぐに慣れましたよ。みんな良い人たちでしたし」
「…そうか」
 もう一つは、これだ。
 一ヶ月という共通点。
 田畑クリニックには月に一度、診察に行く。院長と顔をあわせるのは、だから月に一度だ。
 離れて暮らしている玲子も帰ってくるのは月に一度ぐらいだから、顔をあわせるのも月に一度。
 そして、広瀬もまた一ヶ月の間、顔をあわせていなかった。
 三人に共通しているのは、会ってから次に顔をあわせるまでの期間。
 つまり、こういういことだろう。
 一定以上―― 期間は不明だが、少なくとも一ヶ月―― 顔をあわせていない相手が、別人になってしまうのだ。
 勇一の中でのみ。
 ほかの者たちには―― 田畑院長も、玲子も、広瀬も―― 以前と変わらず、その人として映っているのだった。
 とにかく、原因はわかった。
 いや、原因はわからないが、きっかけはわかった。
 一定期間、顔を合わせていないことだ。
 だとすれば、どうなる?
 一ヶ月以上、顔をあわせていない知り合いなんて、いったいどれほど――
「工場長」
「え?」
 呼びかけられて我に返ると、見知らぬ広瀬が勇一をのぞき込んでいた。
「大丈夫っすか? 顔、真っ青すよ」
「……ああ。いや、大丈夫だ。ちょっと寝不足なだけだよ」
 勇一は笑って答えながら、心の中で広瀬に問いかける。

 おまえは だれだ。
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