七駅フレンド

ツチフル

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 失語症という言葉は聞いたことがあるけれど、失声症という言葉は初耳だった。
 失語症は脳梗塞や脳溢血などで脳の言語野に障碍が起きて、言葉がでてこなくなる症状。
 たとえば、ジャガイモ。
 頭の中ではしっかりとイメージできているのに、その単語がでてこない。
 そのため、ものすごく遠回りな表現で―― 茶色でデコボコした、丸い形の。北海道で有名なやつ。ほら、伯爵だか男爵だかいうといったふうに―― 相手に伝えることになる。
 難しい単語がでてこなくなるというわけではなく、失語する言葉はランダムらしい。
 また、リハビリによる改善は見込めるものの、完治は難しいという。
 これに対して失声症は、脳に障碍があるわけでもなく発声器官に異常があるわけでもないのに、言葉が発せられなくなる症状のことをいう。
 原因はさまざまなことが考えられるが、過度なストレスや過去のトラウマによって引き起こされることが多く、思春期や更年期の女性に多いのも特徴としてあげられる。
 口を大きく開けて声をだそうとしても声帯がまったく震えず、息の漏れる音しかしない。
 機能的には何ひとつ損なわれていないため、周囲からは話せないふりをしていると思われがちだけど、当人は必死だ。
 ただ、必死になればなるほど声はますます喉から遠ざかり、呼吸音だけがむなしく漏れることになる。
 ほかにも、かすれ声程度ならだせる場合や、ある状況下でのみ声がだせなくなる場面失語も失声症に含まれるらしい。
 私がこの失声症と診断されたのは、声を失って三日ほど経ってからだった。
 というのも、声がでなくなる二日前に高熱を出して学校を休んでいたので、始めは喉がまだ荒れているせいだと思っていたからだ。
 ところが次の日も、その次の日も声はでないままだった。
 そこでようやく これはおかしいとなり、母に連れられて病院へ向かった。
 ところが、検査の結果は異常なし。脳も、喉も、発声器官も、いたって正常だったのだ。
 いい加減な―― あるいは普通の町医者だったら―― とりあえず喉の薬をだしてで様子を見てくださいということになっていたかもしれない。
 しかし、私のかかりつけのお医者さんは、良く言えば丁寧、悪く言えば大げさ―― 可能な限りネガティブな可能性を示唆して患者の不安を煽る―― タイプだった。
 あるいは ということで心療内科の紹介状をもらい、改めて診察を受けたところ、めでたく(不幸にも)失声症と診断されたのである。
 病名がわかれば、それに応じた治療が始まる。
 失声症の場合は基本的にカウンセリングをおこない、声がだせなくなった原因―― ストレスやトラウマ―― を解決することで治癒をめざす。
 私の担当カウンセラーは椎橋しいばしさんという、四十代半ばぐらいの女性だった。素朴・質素・簡素といった素系イメージで、穏やかな口調と控えめな笑顔はこちらを安心させてくれる。もともと身についていたものか、カウンセラーになることで身につけたものかは、わからないけれど。
 初診はたわいのない雑談(私はもちろん筆談だ)をしたあとで、これからの方針説明を受けた。
 薬は用いず、会話によるカウンセリングを中心に行うということ。
 問題解消のために、抱えている悩みやストレスは隠さずに話すこと(当然、プライバシーは守られ、家族にも情報は漏らさない)。
 リハビリとして、発声練習も併せて行うこと。
 椎橋さんは穏やかな口調で、声はすぐ戻ってくるよと励ましてくれた。もしかしたら、次にここに来たときは治ってるかもね。と、控えめな笑顔を浮かべて。
 
 もちろん、そんなに都合よくことが運ぶはずもなく、私は今もカウンセリングに通っている。
 週に一度。おおよそ一時間。
 声は相変わらずだせないままだけど、進展がまったくなかったわけでもない。
 少なくとも失声症の原因と思われるストレスは、取り去ることができた。
 つまりそれが、退部届けを提出した理由である。
 
 中学からバスケットボール部に所属していた私は、高校に入ってもごく自然にバスケット部を選んだ。
 実力は、一年生相応のレベル。
 上級生にはとてもかなわず、練習ではボール拾い、試合ではベンチのうしろで応援と、ほかの一年生とやることは一緒だった。
 ところが、ここでハプニングが起きてしまう。
 そのハプニングにより、私は先輩をさしおいてレギュラーに抜擢されることになってしまったのである。
 ハプニングの名は、成長。
 私の身長は高校に入学してからみるみる伸びていき、気がつくと1メートル70センチを越えてしまっていた。
 どんな名監督も、身長だけは鍛えられない。という言葉があるように、私は背が高いというだけで十分な戦力に―― 少し上手い程度の先輩よりも使える戦力に―― なってしまったのだ。
 ポジションは、必然的に背の高い選手がつとめるセンター。
 私のかわりに外れることになったのは、それまで一番背の高かった三年生の先輩だった。
 誰よりもバスケットが好きで練習熱心だった彼女は、まわりの同情する視線をよそに、自分を外した実力至上主義の顧問を表情なく見つめていた。
 そしてここから、わきあいあいとした部の雰囲気が私の中で狂い始めることになる。
 まずは会話。
 上下関係はありながらも冗談を言ったり笑いあったりしていた先輩たちの態度が、素っ気なくなった。
 それは日を追うごとに顕著になり、やがて無視という形をとるようになる。
 もちろん、私に対してだけだ。
 練習の時も私へのパスが激減し、たまに良いプレイをしても無反応。
 顧問が見ているときはまだましなほうで、不在の時は何もさせてもらえないこともあった。
 私のファールは厳しくとられ、私へのファールは甘くとる。
 故意の接触があっても、ホイッスルは鳴らない。
 この頃になると、私に対する無視の輪は三年生だけにとどまらず、二年生に及び、一年にまで浸透してきていた。
 ただ、この状況を解決する方法を私は知っていた。
 レギュラーを辞退すればいい。
 それが最善の判断だと思ったし、実際に辞退を申し出たのだ。
 だけど、顧問は―― 選んだのは自分なのだから当然だけど―― 納得しなかった。理由を聞いてくる。
 私はでも、先輩たちから嫌がらせを受けて孤立していることを打ち明けることができず、自分の実力不足を理由にしてしまった。
 それがいけなかった。
 顧問は笑顔で私の肩を叩き、お前は良いプレイヤーだと励ましだしたのだ。
 大丈夫。心配ない。と。
 レギュラー辞退の話は取り消された。
 
 部活内での孤立は深まり、先輩たちの嫌がらせは続き、気が重くなる毎日が繰り返されるなか――
 ある日、私は原因不明の高熱をだして寝込むことになる。
 処方された解熱剤を飲み、ベッドの中で寒気と頭痛に苛まされながら二日を過ごした。
 そして、ようやく熱が引けた三日目の朝。
 
 私は、声を失っていた。


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