毒蝕の剣

谷川裕也

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3 夢見の城

45 遙か赤く

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「噂通り、馬鹿な男だな。同情の念すら浮かばぬよ」

 魔法師団の団長ケミストは、ある男を見下ろしていた。男は全身に傷を負い、立つことができないほど痛めつけられていた。

「なあ、ラッド。お前は見てはいけないものを見た。弱小貴族のドラ息子だからとて、許されると思うなよ」

 床に倒れ伏した男は、ラッドであった。デュランを追って研究施設に忍び込み、研究員を1人ずつ気絶させながらデュランを追った。
 しかし突然、王国の魔法師団のトップであるケミストがラッドの目の前に立ち塞がった。
 ケミストは、この王国で相手にしてはならない者のうちの1人である。常人の数百倍と言われる魔法力で、幼い頃からその才能を遺憾無く発揮していた。指先1つで人間を消炭にできる、と言われた怪物がラッドの目の前に立っている。
 ラッドはほんの一瞬、己の行動を思考に全てまわした。戦うか、逃げるかの2択である。そして、運命はその一瞬で決まったのだ。
 ケミストの指先から魔法が放たれるのと同時に、ラッドは跳躍し天井に張り付く。不可視の魔力がラッドのいた空間を圧縮する。仮にラッドの跳躍が0.1秒でも遅ければ、ラッドは羽虫のごとく潰されていただろう。
 2人が相対しているのは廊下である。ラッドはケミストに狙いを定めさせないよう、壁や天井を活用してケミストに近づこうと試みた。だが、それは何の効果もなかった。
 ケミストが掌を前方へ突き出す。続けて空を引き裂くように大きく腕を振り抜くと、空中のラッドは墜落するように床に叩きつけられた。ケミストは続けて何度も手を振り抜く。その度に、ラッドは床に、壁に、天井に叩きつけられた。

 そうして、ピクリとも動かなくなったラッドを見て、ようやくケミストは攻撃をやめたのだ。
 果たして声は届いているのかわからないが、ケミストはラッドを見下ろし語りかけていた。

「く、そ……」

 ケミストとの実力差は明白だ。空間を活かせぬ不利な場所であったとはいえ、まともにやろうものなら100回戦っても全敗するであろう。
 ラッドは震える指先で回復薬を取り出そうとする。しかし、この絶望的な戦力差は埋めようがない。

「(俺よ、これはどうしようもないな)」

 もう1人のラッドがため息をついている。この状況を覆すには、奇跡にでも頼るほかない。

「さらばだ」

 ケミストが手に魔力を込め始める。やっと掴んだ回復薬を握りしめ、ラッドは目を瞑った。

 しかし、とどめの一撃は、いつまで経ってもやってこない。

「……?」

 不思議に思い、ラッドが顔を上げる。ケミストは、手に魔力を込めたまま、顔だけ後ろを向いて固まっていた。
 
「……まさか」

 ケミストが呟く。その直後に、ズン、と建物が大きく揺れた。
 続いて、轟音と振動が連続で鳴り響く。まるで、王矛象がこの施設内で暴れているように。
 ケミストは血相を変えて走り出した。あっという間に廊下の奥へ消える。ラッドは回復薬を使い、なんとか立ち上がるとケミストの後を追うのだった。
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