双甲伝3-SOUKOUDEN3-

野口てんぐ

文字の大きさ
3 / 15

第3章 黒尾の囁き

しおりを挟む
 その夜、甲羅谷は深い闇に包まれていた。月は雲に隠れ、星々もわずかな光しか届かない。昼間の賑わいが嘘のように静まり返った谷を、冷たい風だけが駆け抜けていく。

 ポンとミクは眠ることなく、集落の外れに立っていた。谷を見守るように張り出した岩場の上、二人はじっと夜を凝視する。耳を澄ませば、ざわめく木々の奥から低いうなりのような音が響いてきた。

「まただな……」
 ポンが呟くと、ミクは強張った顔で頷いた。
「兄ちゃん……あれ、やっぱり黒尾なんだろう?」
「断言はできん。だが……」
 言葉の先を飲み込む。兄として軽々しく答えることはできなかった。だが心の奥では、すでに確信していた。これはただの影ではない。父が命を賭して封じた“闇”の名残――黒尾が再び目を覚ましつつあるのだ。

 そのときだった。谷に、低く響く声が落ちてきた。
『……忘れたか、ゲンザブロウの息子たちよ……』
 二人は息を呑んだ。声は風に乗って響いてくるのではなく、まるで耳の奥に直接囁きかけてくるようだった。

「今の……聞こえたか?」
「……ああ」
 ポンとミクは互いに目を見合わせ、背筋を冷たいものが走るのを感じた。

 谷の地面を、黒い影が蠢くように広がっていく。尾の形をした闇が伸びたり縮んだりし、土や草を這うたびに枯らしていく。九つの尾を思わせる揺らぎが、一瞬、月明かりのない闇の中で煌めいた。

『……お前たちの甲羅に宿る血……それは我が欲するもの……』
 囁きは甘く、そして禍々しい。まるで心の奥底に潜む恐れを撫で回し、揺さぶるようだった。

 ミクは思わず耳を塞ぎ、苦しげに顔を歪めた。
「やめろ……! 俺たちは、お前なんかに……!」
 その肩をポンが強く掴み、支える。
「惑わされるな、ミク。これは挑発だ。俺たちを揺さぶろうとしている」

 闇の囁きはなおも続いた。
『……父の末路を見よ……息子らよ……やがてお前たちも……』
 その瞬間、地面に走った影がひときわ大きく広がり、獣の咆哮のような響きを谷に轟かせた。

 と、その背後から小さな声がした。
「……兄さん……?」
 振り返ると、そこにはクララが立っていた。まだ幼い顔に怯えの色を浮かべ、眠たげな瞳をこすりながらこちらを見上げている。どうやら不穏な気配に目を覚まし、心配になって追いかけてきたのだろう。

「クララ! ここに来ては駄目だ!」
 ポンは慌てて妹を抱き寄せる。小さな身体は震えていた。
「こわい夢を見たの……兄さんたちが遠くに行っちゃう夢……」
 クララは弱々しい声でそう言い、ポンの甲羅に顔を埋めた。

 ポンはその頭を抱きしめ、静かに答える。
「大丈夫だ。俺たちはどこにも行かない。」
 ミクもまた、妹の肩に手を置いた。
「クララを泣かせるようなことは、絶対にさせない」

 その言葉に応えるように、闇の尾はふっと収縮し、やがて森の奥へと消えていった。囁きも途絶え、谷に再び静寂が訪れる。だが、冷たい余韻だけが胸に残り続けた。

 ポンは夜空を見上げ、強く拳を握りしめる。
「……黒尾は、生きている」
 ミクは黙って頷いた。恐怖を押し殺し、決意の光を瞳に宿しながら。

 クララはまだ不安げに兄たちを見つめていた。その視線を受けながら、ポンとミクは心に誓う。――いずれ必ず、黒尾と対峙する時が来る。その時、二度と家族を失わぬよう、己の甲羅を刃として振るわねばならないのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...