双甲伝3-SOUKOUDEN3-

野口てんぐ

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第7章 影に蝕まれる谷

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 黒尾が姿を現してから幾夜も経たぬうちに、甲羅谷の空気は一変した。
 かつては陽に照らされ清らかであった水流が、どこか濁りを帯び始め、木々の葉は風に揺れながらも光沢を失っていく。谷全体に、目には見えぬ薄い靄がかかっているようで、呼吸をすれば胸の奥がざらつく感覚に襲われた。

 村の亀たちはその異変に怯えていた。
 子どもを背に乗せた母亀は「今日は川に近づいてはダメ」と声を震わせ、老亀は「かつて闇の一族が放った瘴気に似ておる」と呟いて甲羅を縮めた。静かなはずの谷がざわつき、噂と不安が連鎖して広がっていく。

 ポンとミクも、その変化を肌で感じていた。
 「……これが黒尾の力か」
 ポンが見上げた空は、昼であるのにどこか翳りを帯びていた。
 「父さんが戦った闇の一族の残滓……。でも、これはあの時以上の力を持ってる気がする」
 ミクの言葉に、兄は無言で頷いた。言葉にせずとも、二匹の心には同じ覚悟が芽生えつつあった。

 一方で、クララは兄たちを見て、恐怖と不安を抑えきれなかった。
 「兄さんたちばかり……どうして、また戦わなくちゃならないの」
 夜、灯火の下で甲羅を磨く兄たちに向かい、クララは涙を浮かべて問いかけた。
 「私たち家族はやっと穏やかな日々を取り戻したのに……。また命を懸けるなんて、嫌だよ」
 その声には、妹としての本心と、失うことへの強い恐れがにじんでいた。

 ポンは甲羅刀を置き、クララの前に膝をついた。
 「クララ。俺たちも、本当は戦いたくなんてない。でも……守らなきゃならないものがある」
 「守るために、戦うしかないんだ」
 ミクも隣で静かに言葉を重ねた。その瞳には、かつて家族を失った日の影が宿っている。
 クララは唇を噛みしめ、俯いたまま震える声で「……守るために」と繰り返した。兄たちの決意を理解しながらも、その運命を受け入れることが怖かった。

 そんな夜が続いたある日、谷の外れで異変が起こった。
 川辺の大岩が、黒く染み込むように崩れ落ち、そこから濃密な影が溢れ出したのだ。
 村の亀たちが悲鳴を上げる中、その中心に黒尾が姿を現した。九つの尾が揺らめき、尾の一本一本がまるで生き物のように周囲の闇を吸い上げていた。
 「……谷は、すでに我が影の一部。抗おうとする者は、すべて呑み込む」
 その声は風のように低く響き渡り、亀たちの甲羅の奥まで震わせた。

 ポンとミクは即座に駆け出そうとしたが、黒尾の鋭い眼光が二匹を射抜く。
 「焦るな。我は逃さぬ。影は広がり、いずれ貴様らの足元も崩れる」
 その言葉を残すと、黒尾の姿は再び闇へと溶けて消えた。
 残されたのは、凍り付くような恐怖と、谷全体に広がる絶望の気配だけだった。

 沈黙の中で、クララが兄たちに駆け寄った。
 「お願い……負けないで。私、何もできないけど……ここで待ってるから」
 小さな声で、しかし確かな覚悟を込めて告げる。
 ポンとミクは互いに目を合わせ、強く頷いた。
 戦いを避けることはもうできない。黒尾の脅威は、谷も、仲間も、家族も、すべてを呑み込もうとしている。
 彼らに残された道はただ一つ――闇を断ち切ること。

 夜空には薄雲が広がり、月明かりさえ霞んでいた。
 だが兄弟の心には、確かに燃える光が芽生えていた。
 決戦は近い。影に覆われた谷の運命を賭け、彼らは進むしかないのだ。
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