飛んで火に入る火取蟲

白樫 猫

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花を貪る胡蝶は蜘蛛の網にかかる

≪番外編1≫

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和弘はアトリエに駆け込んだ。
その隅に置いてある小さな椅子に腰かけると、テーブルに肘をつき頭を抱え込む。

今日、両親とすみれの合同葬儀だった。

事故の連絡を受け、前日に海外から急いで帰国し、すぐさま通夜・葬儀告別式と参列し、目まぐるしく時間が過ぎていく中、どうして‥こんな事になってしまったのか分からず、兄・豊成に問い詰めても、返事は返ってこなかった。

豊成は、ただ淡々と喪主として遺族の代表と、さらに会社としての代表を務める為、絵描きで海外をふらついている弟に構ってる暇など無かったのだ。
先程、遺骨になった3人を自宅に連れて帰ってきた。
豊成の線香を手向ける手が、僅かに震えているのを見た時、和弘は胸が締め付けられる思いで、目を逸らす事しか出来なかった。

兄は、すみれを愛していた。

知っていたのだ、兄がすみれを愛すだろうと‥知っていたのだ、すみれが自分の事を好きだという事を、ただ和弘はそれを利用しただけ。
だが今の和弘は無力だった。
悲しみ蹲る兄の背を、ひたすら見続ける事しか出来ないのだから。
アトリエに逃げ込んだ和弘は、この小さな世界で自分の気持ちを押し殺して生きていくしかないのだから。
兄の悲しみを拭う事すらできず、逃げてきた自分の罪を、何と呼べばいいのだろう。

兄を愛してしまった自分の罪を――。



葬儀の翌日、和弘はまたアトリエに籠っていた。
すると、ノックの音が聞こえ、ドアが開くと、そこには豊成が立っていた。

「‥兄さん‥」

暗く顔色の悪い豊成は、追い詰められているような表情をして、和弘を見据えていた。

「‥和弘、少しいいか‥」

その声が、自分の記憶の中にある、どの声色とも違い、低く鋭さを感じ、嫌な予感がした。

「‥うん」

和弘は喉の奥が締め付けられるような感じを振り払い、何とか返事をすると、豊成はアトリエに足を踏み入れた。
昨日の喪服とは違い、今日は薄いブルーのシャツに濃紺のスラックスを履き、リラックスした格好で、いつもなら髪をセットしているが、今日は風呂上がりの様にサラリとしていた。
漆黒の艶のある前髪が、その下にある大きな瞳に掛かり、男らしくない顔立ちを隠していた。

「‥悪かったな、お前の相手が出来なくて‥」

手近なスツールを引き寄せ、テーブルを挟んで和弘の正面に座った豊成が、気落ちした声で謝罪した。

「‥いや、兄さんこそ、大変だったな‥。俺も、何も手伝えなくて‥悪かった‥」

後から駆け付けた次男など、取るに足らない存在で、挨拶から何からすべて豊成が行い、和弘は隣で頭を下げるだけしか出来なかった。

「それでも‥お前が傍に居てくれて‥助かったよ‥」

何と言って励ませばいいのか、何と言って慰めればいいのか、まったく思いつかず、和弘はジッと豊成を見続けていた。

「‥颯馬が‥颯馬だけでも、生きていてくれて‥良かった‥‥っ‥‥」

豊成はそう口にして、言葉が詰まり右手で目を覆った。
和弘は立ち上がり、豊成の傍に近づくと、躊躇いがちに肩に手を置いた。
それでも言葉が出る事は無かった。
肩を擦る様に手を動かし、豊成が落ち着くのを待つ。
暫くすると、涙を拭い、傍に立っている和弘を見上げた。
赤く染まった瞳が水分を含み、それを見ていられずに、和弘は目を逸らした。

「お前が‥アトリエの鍵を、すみれに渡してくれたから‥すみれは‥暇さえあれば、絵を描いて‥本当に楽しそうだった‥‥」

豊成が隣に立て掛けてあるイーゼルを見ながら話し出したので、和弘は再び椅子に戻り腰かけた。

「‥急な事故だったんだ‥旅行に行くと言って‥そのまま‥‥すみれも、急に自分が死ぬなんて、予想すらしていなかった‥‥」

そう言うと豊成はおもむろに立ち上がり、棚に並んでいたスケッチブックを数冊取り出した。
それは、和弘は見たことが無いので、おそらく、すみれの書いたものなんだろう。

「‥見てみろ」

そう言って豊成がテーブルの上に置いたスケッチブックを、和弘は躊躇いもなく一番上にあるものから手に取ると広げて見た。

「‥‥‥っ‥‥」

ハッと息を呑んだ。
そこには、いくつもの自分の顔が描かれていた。
笑った顔、ちょっと怒った顔、美味しいものを食べた顔‥どれも和弘の顔。

「‥なっ‥んで‥」

何冊もあるスケッチブックは、すべて和弘の絵で埋まっていた。
最後の一冊を見終えると、和弘は豊成の顔を見れず、ずっと俯いていた。

「‥すみれのモノを勝手に見てしまって‥申し訳ない気持ちも‥勿論あった‥。だけど‥これは無いだろ?‥どうして、お前が‥‥」

そう言いながら、スケッチブックと一緒に置かれていたノートを、和弘の前に放り投げた。
豊成は何も言わない。
和弘は、もう見たくなかった‥ノートを開きたくなかった。
このまま、すぐにでも兄の前から消えてしまいたかった。
ジッとノートを睨みつけ開かない事に、豊成が再び「見ろよ‥」と、冷たい声を吐き出した。
その声に逆らう事など出来るはずもない和弘は、震える指でノートを捲った。
それは、すみれの大学時代の日記だった。
1日に数行しか書いていない日もあれば、1ページ近く思いのたけを綴った日もある。
和弘が1ページ目から読み進めていくのを、豊成はジッと我慢強くそれを眺めていた。
豊成が、和弘に何が言いたいのかすぐに分った。
すみれと和弘は同じ芸術大学の油絵専攻で学び、入学後すぐに意気投合し仲良くなった友人だった。
すみれの日記には、わりと早い段階で和弘の事が書いてあり、好意を持っていると書かれていた。
そして、和弘の家のアトリエに行った時に、兄の豊成と出会ったとも。
兄の豊成に好意を寄せられるが、自分は和弘が好きで迷っている。
和弘が自分を振り向いてくれない‥と、18歳のすみれは悩みをノートに綴っていた。
19歳になった頃、和弘に振られ、豊成さんと付き合うように勧められたと書いてあり、本当は、和弘が好きだけど、豊成も嫌いではないから、付き合う事にするとも書いてある。
そして、すみれが20歳の時、豊成が大学卒業後すぐにプロポーズをしてきたと書かれていた。
実際、その時、和弘はすみれに相談された。
すみれの日記には、和弘に相談したら、笑顔でおめでとうと言われた‥止めてくれるとは思ってはいなかったが、悲しい‥辛い‥自分には魅力が無いのだろうか‥とも書かれていた。
その事は、和弘も良く覚えている。
結婚なんて、あまりにも早いと感じ、思わず笑顔が引き攣ってしまった。
ようやく口から絞り出した答えが、おめでとうだった。
そして、プロポーズを受けようと思う‥と書かれていたのが、最後の一行だった。

これは、和弘への想いを綴った、すみれからのメッセージだと思った。
さらに、豊成は一冊のスケッチブックを出してきた。
もう何も躊躇う事などなく開く。
中には、豊成の笑顔のスケッチや颯馬のスケッチなど、微笑ましいものばかりで、最後のページを開いて愕然とする。
豊成と颯馬‥そしてすみれの隣に自分が居るのだ。
満面の笑みで和弘が笑っている顔があった。

「‥すみれは、結局‥最後まで、お前の事が好きだったんだ‥俺は、そうとも知らず‥自分は世界で一番の幸せ者だと‥ずっと思っていた。すみれに、結婚を強要していたなんて、思いもしなかったからな‥お前は知っていたのか?‥すみれの気持ちを‥知っていて‥黙っていたのか?」

今にも泣きそうな声で、豊成が和弘を追い詰める。
何といえば正解なんて、和弘には分かる筈もない。

「‥俺には‥ずっと‥すみれ以外の、好きな人が居ましたから‥‥」

喉の奥がへばり付くような違和感を感じながら、ようやく口にした和弘の言葉を、豊成はジッと黙って聞いていた。

「‥何故、結婚しない?‥何故‥それを放って海外へ逃げた!」
「‥兄さんには、関係ない事です」
「‥っ‥俺は‥お前に、裏切られたのか‥?」
「‥そんな事、する筈無いじゃないか!」
「もう‥分からない‥信じていた‥すみれが‥俺をずっと‥騙していたなんて‥‥っ‥」
「だっ‥騙していたなんて、そんな筈ない!‥すみれは、兄さんを愛していた筈です‥」
「‥っ‥‥お前の次にだろ!!」

鋭く光を放つ瞳に、和弘は囚われた様に、その瞳から目を逸らす事が出来なかった。

「‥お前が‥俺を、苦しめているんだ」

その姿は、本来の豊成の姿ではなく、今まで見たこともないような乱れた姿に、どれほど豊成が追い詰められているのだと、和弘は思った。

「‥兄さん」
「‥‥それでも‥俺は‥すみれを愛していた‥」

苦しそうな声が、和弘の心の塞いでいた想いの蓋をゆっくりと開いていく。

「俺は‥すみれを愛していたんだ‥」

自分の想いは決して叶うものでは無く‥出来るものなら消してしまいたいもの‥自分が認めた友人なら、一緒に幸せになってくれ、祝福できると思っていたのに‥それなのに、どうして‥今頃、自分の気持ちを確かめるような言葉を、目の前の男は吐くのだと、和弘の瞳に今まで我慢していた、ドロドロとした想いが溢れそうになっていく。

「‥兄さん‥」

そう囁いた声でさえも、喉の奥を詰まらせるような感覚を生み、目の前の兄が呼吸する音さえ、吸い尽くしてしまいそうな程の歪んだ情愛が、和弘の中でまるでタールの様に黒くドロドロと広がっていく。

しっとりと濡れた瞳を和弘に向けた豊成が、次の瞬間に見たモノは、和弘の欲情に満ちた瞳だった。
和弘は瞬間的に立ち上がり、自分の腕の中に収めてしまった豊成を、力いっぱい抱き寄せると、もう二度と離したくないとばかりに、耳元で囁いた。

「‥兄さん‥兄さん‥俺が‥好きなのは、あなたなのに‥」

豊成の身体がビクッと反応し、踠きながら和弘の腕から逃れようとするが、体格の良い和弘の腕から逃れられず揉み合いになると、床に倒れ込み押さえつけられた。
体重を掛けられ、逃げ場のない豊成が、激しく抵抗する。

「止めろ!お前!どうかしてる!!」
「‥兄さん‥俺は‥あなたを、愛してる‥」

両手を掴まれ動きが取れない豊成に、馬乗りになっている和弘が視線を合わせてくる。
鋭い瞳の中に激しい情欲が見え、豊成はゾッと背筋に恐怖が走る。

「和弘!止めろ!!」

豊成の大きな瞳が見開かれ、恐怖の色が深く見えてくる。

「‥俺を、こんな風にしたのは、兄さんですよ‥ずっと、我慢してたのに‥こんな事をしない様に、ずっと堪えていたのに‥」

和弘はそう言うと、豊成の大きな瞳や小ぶりの鼻、そして頬に耳朶‥すべてに口づけをしていく。
チュッと音が出る様にワザと厭らしく口づけをすると、真っ赤な顔をした豊成が、その唇から逃げる様に首を左右に動かす。
豊成の両手を和弘は片手で抑え、空いた片方の手でガッシリと顎と掴むと、開いた唇に自分の唇を押し付ける。
ハッと息を呑んだ豊成の唇から舌を差し込み、口内を舐めまわすと、逃げ惑う豊成の舌を絡めとり吸い上げる。
呼吸が出来ず、混乱している豊成が身体を捩り抵抗するが、和弘はそれを止める事は無かった。

「‥っぁ‥」

その瞬間、豊成は和弘の舌に思いっきり歯を立てた。
思わず離した唇から鮮血がツーッと零れ落ちると、豊成が怒りを込めた瞳で和弘を見上げていた。

「‥放せ!」

口元を拭う和弘の手が鮮血で汚れ、傷が深いのだと分かった。
そして豊成は緩んだ和弘の拘束から逃れ身体を起すと、振り返りもせずにアトリエから去って行った。

口元を押さえ、口内に溢れる鉄錆の味を感じながら、和弘は顔を歪め涙を流す。

「‥兄さん‥っ‥」




豊成が颯馬の主治医の女性と再婚すると和弘が聞いたのは、その日から僅か1か月後の事だった。



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