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奴隷商人
値を付ける前の沈黙(アル=カーヒラ)
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港の喧騒を背に、砂塵が舞う路地の奥へ踏み込む。
そこで、建物は唐突に姿を現した。
――ハサンの館。
それは、金銀の装飾や精緻なアラベスクで権勢を誇示するマムルーク貴族の邸宅とは、あまりにもかけ離れていた。切り出されたままの石積みが剥き出しになった外壁は、むしろ威圧的ですらある。飾り気のない小さな窓は、砂風と部外者の視線を拒むように、硬く沈黙を守っていた。
だが、その質素さは貧しさの露呈ではない。
不要な贅肉を徹底的に削ぎ落とし、機能だけを突き詰めた末に残った、実務の骨格だった。
ここは客をもてなす場ではない。
権威に酔いしれるための空間でもない。
国家を流れる物流、人材、そして目に見えぬ情報を、静かに仕分け、正確に差配するための――巨大な心臓部。
国家という巨大な身体に、絶え間なく血を送り続けるための器官だった。
重厚な木門をくぐり抜けた瞬間、背後の怒号や車輪の軋みは、幻だったかのように遠のいた。
高い石壁に囲まれた中庭には、ひんやりとした静謐が澱み、熱を帯びた肌を心地よく撫でる。
そこに、一人の男が待っていた。
ハサンの家宰である。
家宰は無駄のない動作で一礼すると、極めて短い指示をいくつか口にした。
「これとこれは倉庫へ。少年たちは三階、高級奴隷は奥へ」
その一言で、使用人たちは静かな水流のように散っていった。誰も怒鳴らず、誰も立ち止まらない。積み荷は吸い込まれるように倉庫へ消え、人間という名の「商品」たちは、その価値に応じた区画へと淀みなく分流されていく。
広々とした中庭には、検収を待つ香料の木箱が、定規で測ったかのように整然と積み上げられていた。
鼻腔を突くのは、乾いたパピルスの匂い。そして、どこからか微かに漂う墨の香り。
外の世界が「叫びと軋音」に満ちているならば、ここを支配しているのは「記録の音」だった。
回廊を行き来するサンダルの乾いた足音。
そして、最重要区画である二階の書記室から漏れてくる、葦ペンが紙を擦る規則正しい音――カリ、カリ、という微かな摩擦音こそが、この国の明日の相場を決定づけている。
居住区とは厚い石壁で厳格に遮断されたその奥底に、ハサンの権力の源泉は眠っていた。
棚を埋め尽くす無数の覚書。
各地の徴税記録。
ナイルの最新の水位。
異国の商船が運んできた密やかな動向。
それらは声高に主張することはない。ただ「そこにある」という事実だけで、世界の巨大なうねりを雄弁に物語っていた。
窓の向こうには、ナイルの青い帯が横たわり、砂塵の彼方に城塞の輪郭が霞んでいる。
ハサンはこの死角のような静寂の中から、喧騒に満ちたアル=カーヒラの鼓動を、誰よりも正確に測り続けているのだ。
「ご主人様がお待ちです」
家宰に促され、重い扉が開かれる。
応接の間に足を踏み入れたラウロが、最初に受けた印象は、圧倒的な質量だった。
そこにいた男は、まず身体そのものが“大きい”。
くるくると巻いた見事な虎髭。意思の強そうな太い眉。豪快な笑みを湛える大きな口。
身に纏っているのは決して最高級の絹ではない。だが、その肉体そのものが場を支配し、空間を圧迫していた。
ハサン・イブン・アブドゥッラー
マムルーク朝に仕える国家商人。
軍事・官僚機構向けに少年奴隷を選別・調達する立場にあり、「ハサンが買った人材なら問題ない」と言われるほどの信頼を得ている。
若い頃は自らもマムルークとして訓練と実戦を経験した。前線を退いた後は、その経験と人を見る眼を買われ、調達と育成の現場に身を置く。
彼にとって少年奴隷は単なる商品ではない。“これから戦士になる人間”であり、値を付けることは、その未来に責任を負う行為だ。
豪快で涙もろく、冗談と酒を好む一方で、価値査定は異様なほど正確。
無駄な残酷を嫌い、壊れた人材を出すことを何よりも恥とする。値切りは敬意の欠如だと考え、安く買うことを誇らない。
国家の名を背負ってはいるが、それを免罪符にはしない。
「国を仮に背負っても、値を付ける覚悟から逃げたら商人じゃない」
その矜持を、決して手放さない男。
ハサンは椅子に深く腰掛けたまま、入ってきたラウロを一瞥し、にやりと口角を上げた。
「来たか。……今年も、随分と良い顔ぶれのようだな」
笑みは残っていたが、空気から温度だけが消えた。
それは部下を褒める言葉ではなかった。
単なる状態確認でもない。
――お前は、預けられた人間を、壊さずに磨いたか。
その奥底に潜む問いを、ラウロは鋭く感じ取った。
彼は何も言わず、ただ深く一礼する。
この館において、言葉は石壁に跳ね返る空虚な響きに過ぎない。
積み荷の質と、生きて辿り着いた人間たちの姿こそが、唯一にして絶対の回答だ。
値切りも、言い訳も、神の名を騙る慈悲も、ここには存在しない。
あるのは、冷徹な覚悟と、正確な記録。
そして、次に誰かへと渡されるべき未来だけ。
それらすべてを、ハサンという男は――
笑いながら、その太い腕で引き受ける。
「連れてこい」
その短い一言で、空気が切り替わった。
家宰が無言で合図を送る。
少年奴隷、技能奴隷、高級奴隷。
それぞれの列が、定められた順序で動き出す。
ここから先は、言葉ではない。
値を付けるための、沈黙の時間だ。
-
「……まずは、坊主どもだな」
ハサンは椅子から腰を上げず、ただ顎だけで合図を送った。
家宰が短く手を打つと、少年たちが一列に並ばされる。年嵩の者から、まだ幼さの残る者まで。だが、誰一人として泣き喚く者はいない。その静寂こそが、彼らがすでに「第一の篩」を通り抜けた証だった。
ハサンが立ち上がり、一人ひとりの前に立つ。
その手つきは、荒々しくもなければ、慈悲深くもない。顎に触れて歯並びを確かめ、肩の肉付きを測る。
「……悪くない。力はまだ要らん」
少年の肩から手を離し、その視線を覗き込む。
「逃げる目じゃない。だが、噛みつくほどでもない」
次の少年。
背は低いが、視線が落ちない。
「良い目をしている……」
それだけ言って、名も聞かない。
ハサンが見ているのは、強さではない。忠誠でもない。――壊れにくさだ。
怒りを溜め込む器があるか。
恐怖に呑まれて、内側から腐らないか。
命令を待てるか――そして、来なかった時に勝手に動かないか。
それは、膨大な数を扱ってきた経験の果てにしか辿り着けない、残酷なまでに正確な審美眼だった。
一巡すると、ハサンは満足そうに息を吐いた。
「よし。
……ラウロ、お前、教えた通りに"順序"を守ってるな。
良い子だ」
視線を巡らせる。
「ちゃんと最初に姿勢を教えている。良い。
次に呼吸だな。これも良い。
それでいて、言葉も急がせてない。非常に良い」
ちらりと少年たちを見る。
「命令語は、最低限か。
思考は、母語のままなのだろう?」
ラウロは無言で一礼し、肯定した。
「ああ。それでいい。無理に奪うな。
言葉を奪われた人間はな、いずれ剣で喋り出す」
それは熟練の商人による助言であり、同時にある種の予言でもあった。
ハサンは指を一本立て、付け加える。
「さらに言うなら――
"待て"を、もう少し長く教えるのもいい。
待てる奴は裏切らん。焦る奴は、いつか必ずやらかす」
それは才能の選別ではない。
未来に耐えられるかどうかを測る作業だった。
次に呼ばれたのは、技能奴隷たちだった。
彼らの静寂は、少年たちのそれよりも深く、重い。視線を落としすぎず、かといって相手を値踏みもしない絶妙な距離感。それがすでに、高度な洗練の証だった。
ハサンは帳面を一瞥し、直接問いかける。
「数字は?」
「言葉は?」
ハサンの問いに、答えは淀みなく返る。筆算、単位換算、時間の読み替え。ラテン語、ギリシア語、スラヴ語。言語の発音は完璧でなくとも、意味を取り違えていないようだった。
最後に、自らの能力でもって貢献できることへの意気込みと自負が添えられた。
ハサンは笑わない。
ただ、静かに頷く。
「……素晴らしい。よく保ったな」
それは最大級の賛辞だった。
「この者達は戦士ではない。だが必要な存在だ」
誰に言うでもなく、続ける。
「どんな戦士も、一人では立たん。
戦士を立たせる者がいてこそ、戦士は立つ。
戦士が纏う光の一部は、彼らそのものだ」
一拍。
「だが、命令されすぎても駄目だ。
それでは、物事が見えていない。
自分が、そこに参加していない」
「自由すぎても駄目だ。
自分のものにし過ぎるのも困る。
秩序を壊すことは求められていない」
視線を巡らせる。
「皆、丁度良いところで踏みとどまっている。言う事なしだ」
ハサンは彼らを見渡し、わずかに目を細めた。
「あえて言うなら……」
ラウロが身構える。
「“黙る訓練”を、少し増やすのも手だな」
意外な言葉だった。
「賢い奴はな、往々にして喋りすぎて身を滅ぼす。
黙れる知性は、国家では高く引き上げられる。
これは、この者達の為でもあるのだがな」
ハサンは言葉を用いる時は、時と場所を選べと、暗に奴隷に目配せをした。
最後に控えていたのは、高級奴隷の女たちだった。
彼女たちは視線を上げない。だが、そこには怯えではなく、研ぎ澄まされた「空気」があった。
ハサンは距離を保ち、沈黙のまま圧を高めていく。視線を向け、留め、這わせる。
彼が見ているのは容貌ではない。
立ち姿。
呼吸の質。
そして、圧に対するしなやかさ。
「ふむ……悪くないな。感情が漏れすぎていない。だが、死んでもいない」
一人の女性の前で足を止め、独り言ちる。
「ほう……あの方の眼鏡に適うかもな」
「ラウロ。女を『飾り』として売る者は二流だ。だが『道具』として売る者は三流だ。お前は今のところ、線を踏み越えていない。可愛い奴だ」
検分が終わると、ハサンはそれまでの緊張を切り裂くように、腹の底から豪快に笑った。
「うわははははは! いいぞ、ラウロ! 今年は当たりだ!」
家宰に指示を飛ばし、彼らに上等な飯と水を振る舞うよう命じる。「ここに来て良かった」と一息つかせることも、彼にとっては商いの一部だった。
-
窓の外は、すでに燃えるような夕刻の色に染まっていた。
ハサンは椅子に戻り、水の入った杯を指先で弄ぶ。話題は先日訪れたジェノヴァの商人の話へと移った。
「……全く、話にならんかった」
「基準がない。信条もない。“売れればいい”だけだ」
杯を揺らす。
「説明もしない。
壊れた奴を“運が悪かった”で済ませる」
「安くするから、そっちで何とかしろ、だとよ」
目が冷える。
「俺がこの“商品”に対して、
そういう商売をせんことも知らずにな」
静かに吐き捨てる。
「ああいう商人は、国にとって一番の害だ」
ハサンの目が、冷徹な色を帯びる。彼は単に「モノ」を売っているのではない。人生と、その先の秩序を売っているのだ。
「今日は泊まれ。アル=カーヒラに入るのは明日でいいだろう」
「それより、飲もう」
人懐っこい顔で笑うハサンに、ラウロが意地悪く返す。
「その言葉は迂闊過ぎないか?イスラムは、禁酒だろう?」
ハサンは、杯を見下ろした。
「お前の国の言葉で分かる言い方をしただけだ」
ハサンは分が悪そうに述べる。
「もちろん、飲酒は禁じられている。それについて、議論の余地はない…」
杯を持ち上げはしない。
ただ、そこに在ることを確かめるように、指先で縁をなぞる。
「戒律というものはな、人が都合よく曲げるためにあるんじゃない。
本来は、自分と神との間に結ばれた約束だ」
一拍。
「だから俺は、これを“許されている”とは思わん。
逃げ道も、抜け道も、正当化も、用意しない」
ようやく、彼は杯を掲げた。
「もし、飲酒することになるなら、
俺は破っているという自覚ごと、飲む。
罰があるなら、神に直接受ける。
人に言い訳して軽くするつもりはない」
低く、静かな声で続ける。
「我が神は、違反を見逃す方でもない。
だが同時に、言い訳と偽善を好む方でもないと、俺は信じている」
そして、ラウロを見る。
「これは人には勧めん。
正しいとも言わん。
ただ――俺なりの向き合い方だ」
最後に、わずかに口角を上げる。
「逃げるための酒は飲まん。
飲むとしたら、背負ったものを、神の前で一度並べ直すために飲む。それだけだ」
ナイルの水面が、赤から黒へと溶けていく。
二人の商人は、静かに杯を重ねた。値を付け、未来を渡し、そして今夜だけは、神と己の間にある重荷を分かち合うように。
そこで、建物は唐突に姿を現した。
――ハサンの館。
それは、金銀の装飾や精緻なアラベスクで権勢を誇示するマムルーク貴族の邸宅とは、あまりにもかけ離れていた。切り出されたままの石積みが剥き出しになった外壁は、むしろ威圧的ですらある。飾り気のない小さな窓は、砂風と部外者の視線を拒むように、硬く沈黙を守っていた。
だが、その質素さは貧しさの露呈ではない。
不要な贅肉を徹底的に削ぎ落とし、機能だけを突き詰めた末に残った、実務の骨格だった。
ここは客をもてなす場ではない。
権威に酔いしれるための空間でもない。
国家を流れる物流、人材、そして目に見えぬ情報を、静かに仕分け、正確に差配するための――巨大な心臓部。
国家という巨大な身体に、絶え間なく血を送り続けるための器官だった。
重厚な木門をくぐり抜けた瞬間、背後の怒号や車輪の軋みは、幻だったかのように遠のいた。
高い石壁に囲まれた中庭には、ひんやりとした静謐が澱み、熱を帯びた肌を心地よく撫でる。
そこに、一人の男が待っていた。
ハサンの家宰である。
家宰は無駄のない動作で一礼すると、極めて短い指示をいくつか口にした。
「これとこれは倉庫へ。少年たちは三階、高級奴隷は奥へ」
その一言で、使用人たちは静かな水流のように散っていった。誰も怒鳴らず、誰も立ち止まらない。積み荷は吸い込まれるように倉庫へ消え、人間という名の「商品」たちは、その価値に応じた区画へと淀みなく分流されていく。
広々とした中庭には、検収を待つ香料の木箱が、定規で測ったかのように整然と積み上げられていた。
鼻腔を突くのは、乾いたパピルスの匂い。そして、どこからか微かに漂う墨の香り。
外の世界が「叫びと軋音」に満ちているならば、ここを支配しているのは「記録の音」だった。
回廊を行き来するサンダルの乾いた足音。
そして、最重要区画である二階の書記室から漏れてくる、葦ペンが紙を擦る規則正しい音――カリ、カリ、という微かな摩擦音こそが、この国の明日の相場を決定づけている。
居住区とは厚い石壁で厳格に遮断されたその奥底に、ハサンの権力の源泉は眠っていた。
棚を埋め尽くす無数の覚書。
各地の徴税記録。
ナイルの最新の水位。
異国の商船が運んできた密やかな動向。
それらは声高に主張することはない。ただ「そこにある」という事実だけで、世界の巨大なうねりを雄弁に物語っていた。
窓の向こうには、ナイルの青い帯が横たわり、砂塵の彼方に城塞の輪郭が霞んでいる。
ハサンはこの死角のような静寂の中から、喧騒に満ちたアル=カーヒラの鼓動を、誰よりも正確に測り続けているのだ。
「ご主人様がお待ちです」
家宰に促され、重い扉が開かれる。
応接の間に足を踏み入れたラウロが、最初に受けた印象は、圧倒的な質量だった。
そこにいた男は、まず身体そのものが“大きい”。
くるくると巻いた見事な虎髭。意思の強そうな太い眉。豪快な笑みを湛える大きな口。
身に纏っているのは決して最高級の絹ではない。だが、その肉体そのものが場を支配し、空間を圧迫していた。
ハサン・イブン・アブドゥッラー
マムルーク朝に仕える国家商人。
軍事・官僚機構向けに少年奴隷を選別・調達する立場にあり、「ハサンが買った人材なら問題ない」と言われるほどの信頼を得ている。
若い頃は自らもマムルークとして訓練と実戦を経験した。前線を退いた後は、その経験と人を見る眼を買われ、調達と育成の現場に身を置く。
彼にとって少年奴隷は単なる商品ではない。“これから戦士になる人間”であり、値を付けることは、その未来に責任を負う行為だ。
豪快で涙もろく、冗談と酒を好む一方で、価値査定は異様なほど正確。
無駄な残酷を嫌い、壊れた人材を出すことを何よりも恥とする。値切りは敬意の欠如だと考え、安く買うことを誇らない。
国家の名を背負ってはいるが、それを免罪符にはしない。
「国を仮に背負っても、値を付ける覚悟から逃げたら商人じゃない」
その矜持を、決して手放さない男。
ハサンは椅子に深く腰掛けたまま、入ってきたラウロを一瞥し、にやりと口角を上げた。
「来たか。……今年も、随分と良い顔ぶれのようだな」
笑みは残っていたが、空気から温度だけが消えた。
それは部下を褒める言葉ではなかった。
単なる状態確認でもない。
――お前は、預けられた人間を、壊さずに磨いたか。
その奥底に潜む問いを、ラウロは鋭く感じ取った。
彼は何も言わず、ただ深く一礼する。
この館において、言葉は石壁に跳ね返る空虚な響きに過ぎない。
積み荷の質と、生きて辿り着いた人間たちの姿こそが、唯一にして絶対の回答だ。
値切りも、言い訳も、神の名を騙る慈悲も、ここには存在しない。
あるのは、冷徹な覚悟と、正確な記録。
そして、次に誰かへと渡されるべき未来だけ。
それらすべてを、ハサンという男は――
笑いながら、その太い腕で引き受ける。
「連れてこい」
その短い一言で、空気が切り替わった。
家宰が無言で合図を送る。
少年奴隷、技能奴隷、高級奴隷。
それぞれの列が、定められた順序で動き出す。
ここから先は、言葉ではない。
値を付けるための、沈黙の時間だ。
-
「……まずは、坊主どもだな」
ハサンは椅子から腰を上げず、ただ顎だけで合図を送った。
家宰が短く手を打つと、少年たちが一列に並ばされる。年嵩の者から、まだ幼さの残る者まで。だが、誰一人として泣き喚く者はいない。その静寂こそが、彼らがすでに「第一の篩」を通り抜けた証だった。
ハサンが立ち上がり、一人ひとりの前に立つ。
その手つきは、荒々しくもなければ、慈悲深くもない。顎に触れて歯並びを確かめ、肩の肉付きを測る。
「……悪くない。力はまだ要らん」
少年の肩から手を離し、その視線を覗き込む。
「逃げる目じゃない。だが、噛みつくほどでもない」
次の少年。
背は低いが、視線が落ちない。
「良い目をしている……」
それだけ言って、名も聞かない。
ハサンが見ているのは、強さではない。忠誠でもない。――壊れにくさだ。
怒りを溜め込む器があるか。
恐怖に呑まれて、内側から腐らないか。
命令を待てるか――そして、来なかった時に勝手に動かないか。
それは、膨大な数を扱ってきた経験の果てにしか辿り着けない、残酷なまでに正確な審美眼だった。
一巡すると、ハサンは満足そうに息を吐いた。
「よし。
……ラウロ、お前、教えた通りに"順序"を守ってるな。
良い子だ」
視線を巡らせる。
「ちゃんと最初に姿勢を教えている。良い。
次に呼吸だな。これも良い。
それでいて、言葉も急がせてない。非常に良い」
ちらりと少年たちを見る。
「命令語は、最低限か。
思考は、母語のままなのだろう?」
ラウロは無言で一礼し、肯定した。
「ああ。それでいい。無理に奪うな。
言葉を奪われた人間はな、いずれ剣で喋り出す」
それは熟練の商人による助言であり、同時にある種の予言でもあった。
ハサンは指を一本立て、付け加える。
「さらに言うなら――
"待て"を、もう少し長く教えるのもいい。
待てる奴は裏切らん。焦る奴は、いつか必ずやらかす」
それは才能の選別ではない。
未来に耐えられるかどうかを測る作業だった。
次に呼ばれたのは、技能奴隷たちだった。
彼らの静寂は、少年たちのそれよりも深く、重い。視線を落としすぎず、かといって相手を値踏みもしない絶妙な距離感。それがすでに、高度な洗練の証だった。
ハサンは帳面を一瞥し、直接問いかける。
「数字は?」
「言葉は?」
ハサンの問いに、答えは淀みなく返る。筆算、単位換算、時間の読み替え。ラテン語、ギリシア語、スラヴ語。言語の発音は完璧でなくとも、意味を取り違えていないようだった。
最後に、自らの能力でもって貢献できることへの意気込みと自負が添えられた。
ハサンは笑わない。
ただ、静かに頷く。
「……素晴らしい。よく保ったな」
それは最大級の賛辞だった。
「この者達は戦士ではない。だが必要な存在だ」
誰に言うでもなく、続ける。
「どんな戦士も、一人では立たん。
戦士を立たせる者がいてこそ、戦士は立つ。
戦士が纏う光の一部は、彼らそのものだ」
一拍。
「だが、命令されすぎても駄目だ。
それでは、物事が見えていない。
自分が、そこに参加していない」
「自由すぎても駄目だ。
自分のものにし過ぎるのも困る。
秩序を壊すことは求められていない」
視線を巡らせる。
「皆、丁度良いところで踏みとどまっている。言う事なしだ」
ハサンは彼らを見渡し、わずかに目を細めた。
「あえて言うなら……」
ラウロが身構える。
「“黙る訓練”を、少し増やすのも手だな」
意外な言葉だった。
「賢い奴はな、往々にして喋りすぎて身を滅ぼす。
黙れる知性は、国家では高く引き上げられる。
これは、この者達の為でもあるのだがな」
ハサンは言葉を用いる時は、時と場所を選べと、暗に奴隷に目配せをした。
最後に控えていたのは、高級奴隷の女たちだった。
彼女たちは視線を上げない。だが、そこには怯えではなく、研ぎ澄まされた「空気」があった。
ハサンは距離を保ち、沈黙のまま圧を高めていく。視線を向け、留め、這わせる。
彼が見ているのは容貌ではない。
立ち姿。
呼吸の質。
そして、圧に対するしなやかさ。
「ふむ……悪くないな。感情が漏れすぎていない。だが、死んでもいない」
一人の女性の前で足を止め、独り言ちる。
「ほう……あの方の眼鏡に適うかもな」
「ラウロ。女を『飾り』として売る者は二流だ。だが『道具』として売る者は三流だ。お前は今のところ、線を踏み越えていない。可愛い奴だ」
検分が終わると、ハサンはそれまでの緊張を切り裂くように、腹の底から豪快に笑った。
「うわははははは! いいぞ、ラウロ! 今年は当たりだ!」
家宰に指示を飛ばし、彼らに上等な飯と水を振る舞うよう命じる。「ここに来て良かった」と一息つかせることも、彼にとっては商いの一部だった。
-
窓の外は、すでに燃えるような夕刻の色に染まっていた。
ハサンは椅子に戻り、水の入った杯を指先で弄ぶ。話題は先日訪れたジェノヴァの商人の話へと移った。
「……全く、話にならんかった」
「基準がない。信条もない。“売れればいい”だけだ」
杯を揺らす。
「説明もしない。
壊れた奴を“運が悪かった”で済ませる」
「安くするから、そっちで何とかしろ、だとよ」
目が冷える。
「俺がこの“商品”に対して、
そういう商売をせんことも知らずにな」
静かに吐き捨てる。
「ああいう商人は、国にとって一番の害だ」
ハサンの目が、冷徹な色を帯びる。彼は単に「モノ」を売っているのではない。人生と、その先の秩序を売っているのだ。
「今日は泊まれ。アル=カーヒラに入るのは明日でいいだろう」
「それより、飲もう」
人懐っこい顔で笑うハサンに、ラウロが意地悪く返す。
「その言葉は迂闊過ぎないか?イスラムは、禁酒だろう?」
ハサンは、杯を見下ろした。
「お前の国の言葉で分かる言い方をしただけだ」
ハサンは分が悪そうに述べる。
「もちろん、飲酒は禁じられている。それについて、議論の余地はない…」
杯を持ち上げはしない。
ただ、そこに在ることを確かめるように、指先で縁をなぞる。
「戒律というものはな、人が都合よく曲げるためにあるんじゃない。
本来は、自分と神との間に結ばれた約束だ」
一拍。
「だから俺は、これを“許されている”とは思わん。
逃げ道も、抜け道も、正当化も、用意しない」
ようやく、彼は杯を掲げた。
「もし、飲酒することになるなら、
俺は破っているという自覚ごと、飲む。
罰があるなら、神に直接受ける。
人に言い訳して軽くするつもりはない」
低く、静かな声で続ける。
「我が神は、違反を見逃す方でもない。
だが同時に、言い訳と偽善を好む方でもないと、俺は信じている」
そして、ラウロを見る。
「これは人には勧めん。
正しいとも言わん。
ただ――俺なりの向き合い方だ」
最後に、わずかに口角を上げる。
「逃げるための酒は飲まん。
飲むとしたら、背負ったものを、神の前で一度並べ直すために飲む。それだけだ」
ナイルの水面が、赤から黒へと溶けていく。
二人の商人は、静かに杯を重ねた。値を付け、未来を渡し、そして今夜だけは、神と己の間にある重荷を分かち合うように。
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江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
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