horízōn ~はるかとおく~ :咎人之王

つみ²

文字の大きさ
33 / 58
奴隷商人

潮が静かになる夜(メッシーナ)

しおりを挟む
イオニア海の群青色が、メッシーナ海峡の複雑な潮流に揉まれて白く泡立つ。カンディアを発って数週間、船乗り達の鼻を打ったのは、潮の香りを追い越してきた「陸の匂い」だった。それは、焦げた薪の煙と、シチリアの乾いた土、そしてこの季節特有の、熟しきった無花果の甘ったるい香りが混じり合ったものだ。

「帆を絞れ!」

アルヴィーゼの怒号と、滑車が悲鳴を上げるキリキリという音が、波の音を掻き消す。わがガレー船の大きなラテン帆が風を逃すと、船体は慣性に任せて、あの有名な「鎌」の形をした天然の良港へと滑り込んでいった。

船首に立つと、左手にサン・サルバトーレの修道院が鎮座する半島の先端が見える。その細長い砂州が、荒ぶる海峡の波から港を完璧に守っているのだ。
視界が開けるにつれ、私は息を呑んだ。港内は、まさに「世界の交差点」だった。

アラゴン王国の赤と金の縞模様が翻る重厚なナオ船(大型帆船)。
ヴェネツィアやジェノヴァから来た、無数の脚を持つ百足のようなガレー船。
そして、地元シチリアの小舟が、まるで水面に散らばる木の葉のようにそれらの間を縫っている。

マストの群れは、まるで冬を待つ枯れた林のように密集し、荷揚げを待つ男たちの怒鳴り声が、石造りの岸壁に反響してこちらまで響いてくる。

正面には、メッシーナの街が山の斜面に沿って、幾重もの層をなしてせり上がっている。
ひときわ高く聳えるのは大聖堂の尖塔。ノルマン時代の無骨さと、ゴシックの繊細さが混じり合ったその姿は、この島を支配してきた数々の王たちの歴史を物語っている。

そのすぐそばには、カタルーニャ商人たちの守護神、サンティッシマ・アンヌンツィアータ・デイ・カタラーニ教会の円蓋が見える。ビザンティン風のレンガ造りの美しさは、カンディアで見慣れた教会の姿を思い出させる。

岸壁が近づく。
石造りの倉庫や商館が並ぶ通りには、色とりどりの洗濯物が干され、窓からは夕食の準備を始める煙が立ち上っている。街は活気に満ちていた。
だが、同時に港特有の、腐った魚と溜まった汚水の鼻をつく臭いもまた、ここが「生きた」都市であることを容赦なく突きつけてくる。

ドスン、と船体が防舷材を介して岸壁に触れる。
乾いた石に綱が投げられ、揺れない大地へと足を踏み出す準備を整えた。




メッシーナの港に夜の帳が下りる頃、潮の匂いは、潮騒よりも騒がしい人の声に、ゆっくりと上書きされていく。
だが、ラウロが借り受けた石倉の奥底には、その喧騒すら届かない。

低い天井。湿り気を帯びた粗い石壁。
卓上の油灯は、芯を絞られ、最小限の光を投げかけているに過ぎない。その乏しい灯りの下で、ラウロは一枚の羊皮紙を広げていた。

描かれているのは、ティレニア海。
そこには赤い炭で、病の斑点のようにいくつかの点が打たれている。

「……ピオンビノの封鎖は、終わったらしい」

ラウロが静かに口を開いた。
壁に背を預け、腕を組んでいたミケーレが、肺の底から重い息を吐き出す。

「ああ。噂は聞いた。夏の終わり頃には包囲は解けたってな」

卓を囲むもう一人、老練な航海士アルヴィーゼは、地図を見つめたまま顔を上げずに応じた。

「……終わった“戦”ほど、厄介なものはない」

その言葉を、ラウロは否定も肯定もしなかった。ただ、使い古された帳面を閉じ、じっとランプの火を見つめる。

「ああ。“通れる”と、“安全だ”は別だ」

「戦は終わった。だが――」

ラウロは、一つ、一つと指を折り始めた。

「まず、編成を解かれた艦船がいる。帰る場所を失った船ほど、動きが読めない」

一本目の指が折られる。

「次に、戦時に私掠許可を受けていた船だ。王の名で動いていた連中は、許可が切れた瞬間に“自分の判断”で動き始める。素知らぬ顔でな」

二本目。

「それから水夫だ。戦が終われば、職も終わる。剣を置けと言われても、手癖は残る。網や銛に持ち替えろと言われて、すぐに切り替えられる連中ばかりじゃない」

三本目。ミケーレは無言で頷く。その脳裏には、飢えた狼のような目をした「元兵士」たちの顔が浮かんでいた。
ラウロは最後の指を折った。

「そして――戦時に染み付いた“慣行”だ。臨検、拿捕、理由なき足止め。一度、正義として許された行為は、戦が終わっても消えない。甘い蜜を吸った者なら、尚更だ」

ランプの芯が、ぱちりと小さく爆ぜた。

「市場も、まだ戦時だ。表向きは平和でも、値段は戦争のまま動いている」

「保険料か?」

ミケーレが短く問う。

「ああ。保険料も、それ以外も含めてな。総じて上がっている。北行きは特にだ。護衛なしの船は、理由もなく遅れている。沈んだ話より、“着かない”話の方が多い」

ミケーレは、舌打ちを一つ、喉の奥で殺した。苛立ちが、影となって壁に揺れる。

「嵐を待つにしても、冬に追いつかれたら意味がねえ」

「全くだ」

三人の視線が、地図へと吸い寄せられる。
そこには二つの道があった。
縦に引かれた一本の線。ティレニア海を一直線に北上する、最短の、しかし孤独な航路。
そして、沿岸をなぞるように折れ曲がった不格好な線。寄港地と退避地を数珠つなぎにした、長く、不自由な道。
ミケーレが改めて断じた。

「縦断は、やめた方がいい」

それは感情論ではない。数多の死線を超えてきた経験が吐き出させた、簡潔な否定だった。彼はメッシーナ海峡の北側を、指先で強く叩いた。

「ここから先の治安は最悪だ。誰の目も届かない海に出るってのは、自分から獲物になりに行くようなもんだ」

アルヴィーゼが重々しく頷く。

「縦断航路は、風が揃えば楽だ。だが、秋は違う。北西風が跳ねる。うねりが長くなる」

老船長は傍らのキャラック船の模型を指で押し、その後ろに控える二隻のキャラベル船をそこから離した。

「主船は耐える。だが随伴が離れる」
「――船団が割れる。この治安で、それは致命的だ」

重苦しい沈黙が降りた。
ラウロは、歪な線――沿岸航路の上に人差し指を置いた。

「沿岸航行だと……揺れるな」

「浅い分、岸からの反射波が来る」

アルヴィーゼが即答する。

「夜は特に酷い。座礁船も多い。……が、致し方あるまい」

ミケーレが肩をすくめ、吐き捨てるように言った。

「他の船も同じことを考えてるだろうな。事故も増える。座礁したら――ただの座礁じゃ済まねえ。腐肉の匂いを嗅ぎつけたハイエナどもが、岸から湧いてくる」

「だが、港がある」

アルヴィーゼがその言葉を引き取る。

「逃げ場がある。病人を下ろせる。嵐を待てる。そして何より、情報が拾える」

しばらくの沈黙の後、ラウロが静かに、しかし断固とした口調で結論を口にした。

「岸に寄り過ぎず、外洋に出過ぎず――その距離感だ。時間はかかるが…ここは堅実な策を取ろう」

「……ああ」

「沿岸航行だ。縦断はしない」

ランプの火が大きく揺れ、三人の影が石壁に深く重なった。
石倉の扉の向こう、港の外では、冬を予感させる夜風が、すでに帆布を試すように叩いていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

生残の秀吉

Dr. CUTE
歴史・時代
秀吉が本能寺の変の知らせを受ける。秀吉は身の危険を感じ、急ぎ光秀を討つことを決意する。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

処理中です...