horízōn ~はるかとおく~ :咎人之王

つみ²

文字の大きさ
46 / 58
奴隷商人

価値の精算:ムスク(麝香)

しおりを挟む
マエストロ・ジローラモ。

香の工房は、迷宮のような路地の最奥に、へばりつくようにして建っていた。

地図に記される場所ではない。ただ、運命に見放された者か、あるいは匂いに魅せられた執念深い者だけが、吸い寄せられるようにして辿り着く。
扉を押し開けた瞬間、ラウロの鼻腔を熱い塊が突き抜けた。

それは甘美でありながら、刃物のような鋭利さを孕んでいる。沈香の重厚な苦み、琥珀が溶け出すような樹脂の粘り、そして焦がした砂糖の微かな名残。それらが火によって煮詰められ、濃密な時間ごと油に封じ込められている。

室内は、深海のような闇に沈んでいた。
唯一の明かり取りである小窓は、厚い布で遮られている。光が足りないのではない。光という余計な刺激が、香の純度を濁らせるのだ。ここは香を支配するための、静謐な揺り籠だった。

マエストロ・ジローラモは、背を向けたまま火の番をしていた。
炉の上で鍋が小さく鳴る。とろりと粘度を帯びた液体が、鍋の肌を撫でる音が暗がりに響いた。

「……来たか」

その声は、歓迎の挨拶ではなかった。正確な調合の途中に差し込まれた、一工程に過ぎない。

ラウロは無言で布包みを解いた。
現れたのは小さな硝子瓶。赤紫の封蝋。それを包む柔らかな布。
ラウロの指先の慎重さが、中身の価値を何よりも饒舌に物語っていた。

ジローラモは手を洗わない。水気が香を殺すことを恐れているのだ。彼は使い古された布で指先を丁寧に拭うと、ようやくラウロの差し出した瓶を手に取った。

封が破られる。
栓が抜かれた瞬間、背後に控えていたトゥマニが無意識に息を止めた。ロドヴィコの眉が跳ね上がり、まるで遠い故郷の記憶を無理やり引き出されたかのように、呆然と口を開けた。

ジローラモは、その芳香を「嗅いだ」。
ほんの一息。肺の奥までは入れない。あまりにも強烈なそれは、深く吸い込めば喉さえも麻痺させるからだ。

沈黙が落ちた。
時間にして数秒。だが、その数秒には数十年分の重みが凝縮されていた。

「……楽園の風のようだ…疲れた者に安らぎを与えるような…」

吐き出されたのは、使い古されたはずの賛辞。しかし、ジローラモの震える声には、紛れもない真実が宿っていた。

ラウロは対価を問わなかった。ジローラモもまた、銀貨の枚数など口にしない。この場所において、香りに値札を貼る行為は、無粋そのものだった。

ジローラモは瓶を閉じ、火の方へ戻る。
鍋の中で揺れる琥珀色の液体には、すでに数種類の樹脂と花の精油が溶け込んでいた。
彼はラウロから受け取ったばかりの瓶を傾け、黒い砂粒のようなムスクの欠片を、その熱の渦へと慎重に落とす。

じゅっ、という音はしなかった。
液体が獲物を飲み込むように、音もなくそれを包み込む。
その瞬間、工房を満たしていた甘い花の香りに、野性の拍動が混じった。
命の熱を帯びた、抗いがたい「生」の匂いだ。

「……これで、この香りは死ななくなった」

ジローラモが低く呟く。
ムスクという「命」を注がれたことで、香水はただの匂いから、人の肌に永遠に刻まれる記憶へと変貌を遂げたのだ。

「君のもたらす出会いは、時を忘れさせてくれる」

ラウロは応じなかった。言葉を返せば、この部屋に張り詰めた繊細な均衡が霧散してしまう。
耐えかねたように、ロドヴィコが声を上げた。

「……これは…商談をしているんだよな…?」

トゥマニが椅子の脚を小さく鳴らした。黙れ、という警告だ。
ジローラモは振り返らずに、低い声で言った。

「商談ではない。確認だ」

「……一体何の…」

「この香りが、世に出ることを許されるかどうかの、だ」

ロドヴィコは押し黙った。戦場で、己の運命を預ける刃の質を確かめる時の、あのヒリつくような緊張感を思い出したのかもしれない。
ラウロが静かに立ち上がる。扉へと向かうその背に、ジローラモの声が降ってきた。

「体験を運ぶ者よ。次はさしずめ香辛料か」

ラウロは足を止めずに頷く。

「ああ。スパイスだ」

一歩外へ出ると、冬の冷たい空気が救いのように肺を満たした。
香の世界は、あまりに温かすぎる。熱を帯びた情念は、ラウロの好みではない。
だが、必要なもの。必要だからこそ、彼はそれを扱う。
その冷徹な理由を、彼は誰にも、自分自身にさえも説明することはなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

生残の秀吉

Dr. CUTE
歴史・時代
秀吉が本能寺の変の知らせを受ける。秀吉は身の危険を感じ、急ぎ光秀を討つことを決意する。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

処理中です...