horízōn ~はるかとおく~ :咎人之王

つみ²

文字の大きさ
47 / 58
奴隷商人

価値の精算:高品質な香辛料

しおりを挟む
ピエロ・アルベルティの領分に「店」という言葉は相応しくない。

表通りに面した石造りの威容――その二階から三階は、外光を拒絶し、静まり返った巨大な「倉」であった。一階は冷ややかな応接の間、そして地下は、底の知れない闇が口を開けている。

扉の前に立つと、巨躯の門番が静かに視線を投げかけてきた。
習慣として荷の嵩を測ろうとした男の瞳は、しかしラウロの貌を認めた瞬間に、抵抗を失って滑り落ちた。男の顔に値札がついているわけではない。だが、この街において「名前」は、いかなる重い鍵をも回す旋律となる。

通された応接室。壁一面を覆う布が、訪れる者の視神経を刺した。
それは単なる織物ではない。指が沈み込むほど柔らかな手触りでありながら、瞳が痛むほどに濃厚な色彩。この邸宅に積み上がる金貨は、すべてこの布の「色」から絞りだされたものだと、一目で理解させられた。

主、ピエロ・アルベルティは立っていた。
決して座って客を待つことはない。立って迎える者は、歓迎の体裁を整えながら、その実、空間の主導権を最初から握り潰しているのだ。

「今年もきっちり納めてくれたな」

挨拶はない。会話は常に、確定した「結果」から始まる。

ラウロは無言で荷を差し出した。
黒胡椒、クローブ、ナツメグ、メース。
一つひとつは香辛料の詰まった木箱に過ぎない。だというのに、伝わる重みは、石を詰め込んでいるかのようだった。漂い出る香気は、あまりに濃く、あまりに重い。

ピエロはその香りを嗅ごうとはしなかった。
嗅覚は情を呼び込む。彼は、商いに情が混じることを何よりも嫌悪していた。
彼は指先で、一粒の胡椒を拾い上げた。
爪の先で無造作に割り、その断面を検分する。それから、欠片を舌の先へ。
それは「味わう」という愉悦からは程遠い動作だった。機械が歯車の噛み合わせを確認するように、ただ質の「判別」のみを行っている。

次いでクローブ、ナツメグ、メース。
均一な所作、迷いのない指運び。静寂の中に、スパイスが砕ける乾いた音だけが響く。

「いい」

短く、それだけを言った。
代金の話が出る前に「いい」と口にする者は、既にその品を買い取っている。
「良し悪し」を値踏みの道具にする者は、安く叩こうとする俗物だ。だが、ピエロにその必要はない。彼には、値切る必要など微塵もない高潔な――あるいは、あまりに血腥い――売り先があるからだ。

「助かる。外交の場が少しは明るくなってくれれば良いがな」

ピエロの唇に笑みはない。冗談を言っているようにも見えなかった。
香辛料を嚥下するのは、人の舌ではなく、その「場」そのものだ。

香りが場を華やがせ、高揚させる。場が明るくなればなるほど、人々の警戒は薄れ、胸襟は開かれやすくなる。彼はその力学を、骨の髄まで理解していた。

隣で、ロドヴィコが僅かに呼気を吐き出した。
彼には、この芳醇な香りの裏側に潜む「戦場の臭い」が届いたのだろう。

ピエロが帳面を閉じた。
その乾いた音が、商談の終結を告げる合図だ。
ここでは誰も「また来年」とは口にしない。明日が、来年が、当然のように訪れると信じるほど、彼らは初心ではなかった。

ラウロが腰を浮かしたとき、ピエロの声が低く落とされた。

「没薬も乳香も扱うのだったな。彼らは、今回の聖年の準備に余念がないようだ。"イルヴェッキオ"が絡んでるとも聞く。注意したまえ」

ラウロはただ一度、頷いた。
それ以上の説明は不要だった。"イルヴェッキオ"という言葉だけで意志が通じるのが、この街の掟だ。
重厚な扉を背にすると、外気の冷たさが心地よかった。

ロドヴィコが、押し殺した声で呟く。

「イルヴェッキオ…爺さん、て……誰なんで?」

ラウロは足を止めず、街の雑踏へと溶け込みながら答えた。

「知らないなら…知らなくて良い。知れば…変な勘繰りに夜眠れなくなるぞ」

ロドヴィコは笑えなかった。
ただ深く、噛みしめるように頷いた。
それは、彼がよく知る戦場の鉄則と、まったく同じ意味を持っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

生残の秀吉

Dr. CUTE
歴史・時代
秀吉が本能寺の変の知らせを受ける。秀吉は身の危険を感じ、急ぎ光秀を討つことを決意する。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

処理中です...