horízōn ~はるかとおく~ :咎人之王

つみ²

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奴隷商人

帰投

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サルザーナを越え、街道が緩やかな下り坂に差し掛かると、馬たちの足取りが心なしか軽くなった。

進行方向に広がるのは、イタリアの空を深く映したリグリア海。風の中に、乾いた土の匂いとは違う、重く湿った塩の香りが混じり始める。
それはジェノヴァを知る者にとって、言葉よりも確かな「帰郷」の合図だった。

列をなす馬車は二台。
積荷は、火薬の匂いもしなければ、異国の熱を帯びた香辛料でもない。ボローニャの静謐を閉じ込めた紙と書籍、そしてルッカの職人が織り上げた、肌に吸い付くような絹織物。

嵩張るが、賊を惹きつけるほどの危険な輝きはない。重いが、血を流してまで奪い合う類のものでもなかった。
護衛は最小限。その事実は、この旅がすでに「終わりの時間」に入っていることを物語っていた。

ロドヴィコは鞍の上で大きく肩を回し、凝り固まった筋肉をほぐすように深く息を吐いた。

「……やっと終わりだな」

ラウロは一拍置き、手綱を整えてから応じた。

「終わりではない。戻るだけだ」

否定の言葉ではあったが、その声音には、往路の鋭さはなかった。
鞘に収まった剣のように、しなやかな落ち着きを取り戻していた。

ジェノヴァの巨大な城壁が視界を占める頃、一行から声を張り上げる者は消えていた。
聞き慣れた門番の声、石畳を叩く車輪の反響、そして港から流れてくる喧騒。日常の断片が、ひとつ、またひとつと体に馴染んでいく。

港に隣接する馴染みの倉庫。
開け放たれた扉から差し込む光の中で、淡々と作業が進められた。

湿気を嫌う紙と書籍は、専用の防湿区画へ。
絹は光を避け、箱のまま奥底へ。
代わりに、黒海へ向かう船を待つ武具や贈答品が、整然と入れ替わっていく。

最後の木箱が収まったのを見届け、ラウロは手元の帳簿を静かに閉じた。

「これで、君たちの仕事は終わりだ」

「無事に帰ってこれた。上出来だな」

ロドヴィコが短く応じる。それは武功を誇る言葉ではなく、やるべきことを終えた職人の、飾りのない独白だった。

倉庫を一歩出ると、港から吹き込む風が、肌にまとわりつく旅の埃を一気にさらっていった。

ラウロは懐から革袋を取り出し、指先で弄びながら、少し意地悪な笑みを浮かべる。

「支払いは、何がいい?」

「もう、その手は勘弁してくれ、旦那」

ロドヴィコは露骨に顔をしかめた。

「俺一人の金じゃない、皆で分けるんだ。……銀貨で頼む」

「欲のない男だな」

ラウロが低く笑うと、横で控えていたトゥマニも小さく肩をすくめた。
ロドヴィコは苦々しく付け加える。

「俺はあんたみたいに、頭の中で数字をくるくる回せないのさ。分かりやすいのが一番なんだ」

ラウロはそれ以上何も言わず、袋から銀貨の束を取り出した。数え直すこともしない。そのまま、まとまった重みをロドヴィコの掌へと預ける。

「平和な旅をありがとう。
君たちのおかげで、商売がうまくいった」

受け取ったロドヴィコが、その重みに眉を跳ね上げた。

「……旦那。これ、ちょっと多くないですかい」

「これから物の値段が上がるはずだ。皆で分け、使い切る頃にはいつもとトントンになる」

予言のような淡々とした返答に、ロドヴィコは「あ……」と何かに気づいたような顔をした。だが、すぐに困ったように頭を掻く。

「それでも、旦那は商人にしちゃ、金払いが良すぎるというか……」

「そうでもないさ」

ラウロの瞳に、静かな光が宿る。

「来年も平和な旅を続けたい。
ゼロから信頼できる人間を探し、関係を築く手間を考えれば、ずっと安上がりだ」

「……安上がりって言われると、なんかこう、モヤっとしますね」

「言わせたのは君だ」

ラウロは苦笑いしながら、ロドヴィコを真っ直ぐに見つめた。

「ただ、これが『信用』という、貨幣とは違う価値だ。
君達たちはそれを積み重ねる働き方が出来る希少な存在だ。
君たちの誠実な仕事ぶりに見合った支払いができない者は、恥ずべきだと私は思っている。
……心より感謝する。ありがとう」

一瞬、港の喧騒が遠のいた。

「旦那……」

ロドヴィコをはじめ、背後にいた隊員たちの間に、言葉にならない温かな沈黙が広がっていく。

だが、その情愛に満ちた空気を、遠慮も容赦もなく叩き割る声が響いた。

「おー! 帰ってたのか!? ロドヴィコ、久しぶりだなー!」

振り返れば、そこにはミケーレが立っていた。潮風そのもののような屈託のない笑顔。その後ろには、これから宴会にでも繰り出すような陽気な船乗りたちが続いている。

「これからウチの船の連中と飯行くんだけどさ! ロドヴィコも、皆も一緒に来いよ!」

「ちょ、待てミケーレ、俺たちは今――」

「飯代? 気にすんなって! ラウロが払ってくれるからさ!」

「おまえ……!」

ラウロの抗議など風に消えた。

ミケーレは強引にロドヴィコの肩を抱き、隊員たちを波のように押し流していく。
響き渡る笑い声。乱暴に肩を叩き合う音。
ミケーレが連れてきたのは、騒がしくも愛おしい「ジェノヴァという日常」だった。

ラウロは遠ざかる背中を苦笑混じりに眺め、使い込まれた倉庫の扉にそっと手を置いた。

ここまでが、陸の仕事。
ここから先は、また海の仕事が始まる。
だが今はただ、石畳に染み付いた塩の匂いを吸い込む。

帰ってきた。
それだけで、今は十分だった。
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