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奴隷商人
停泊
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昼過ぎ、桟橋に落ちる影は濃かった。
アルヴィーゼに任せていた船体の修理と点検は、報告によれば既に粗方の目処が立っているという。
ラウロは、巨躯を横たえるキャラックと、その傍らに控えるキャラベルの巨大な影に飲み込まれながら、船長と短く言葉を交わした。
「板の継ぎ目、喫水線の高さ、竜骨の歪み。帆と索具の摩耗もな。バラストは次の航海を想定して配分してある」
船長が吐き出す言葉の一つひとつを、ラウロは頭の中の図面に落とし込んでいく。それは情報の確認というより、「互いに背中を預けられる状態である」という事実を共有するための儀式に近かった。
「いつでもいけるぜ、旦那。詳しい話は出立前でいいな」
「ああ。それで問題ない」
交わした言葉はそれだけだ。信頼の重みを知る者同士、それ以上の修飾語は蛇足でしかなかった。
準備が一段落すると、ラウロは船長室へは戻らず、そのまま陸へと上がった。
波止場の縁に腰を下ろし、ただ行き交う人々を眺める。
重い荷を肩に担ぐ若者。
銀色に光る魚籠を抱え、威勢よく歩く女。
石畳を跳ね回る子供たちの、甲高い笑い声。
そのどれもが、ラウロの天秤に載る「商談の対象」ではない。
価値という名の数字に換算される前の、剥き出しの、ただの「生活」がそこにあった。
陽はゆっくりと城壁の向こうへ落ち、
港の色は一刻ごとに鈍く沈んでいった。
陽が沈み、夕闇が街を侵食すると、港の喧騒は潮騒に取って代わられた。
水面に揺れる船影は、羽を休めた大鳥のように静まり返っている。嵐の前の静けさとは違う。ただ、時が動くのを止めたような、不思議な空白だった。
その暗い海を見つめるラウロの脳裏に、カッファの冷たい空気の中で出会った、あの銀髪赤眼の少女の姿が浮かび上がった。
――戻ったら、決めなければならない。
届いた便りでは、彼女は順調に回復し、商館の面々とも打ち解けつつあるという。サムエルが孫娘のように可愛がっているという一文に、ラウロは少しだけ眉を寄せたが、それは決定的な不都合ではなかった。
問題は、彼女がこれまでラウロが扱ってきたどの「分野」にも属さない存在だということだ。
「よりマシな明日へ、橋渡しをするだけだ」
そう自分に言い聞かせ、数多の人間の人生を金に換え、あるべき場所へと流してきた。今さら何を躊躇う必要があるのか。
だが、彼女はどうだ。
村を焼かれ、親友を失い、蹂躙され、尊厳を削られた。
「よりマシな明日」へ送ろうにも、その行き先がこの世界のどこにも思い当たらない。
……行き先が、ない。
その事実だけが、夜の海よりも重く胸に沈んだ。
ラウロが知る限りの冷酷な現実において、彼女を「商品」として、あるいは「象徴」や「愛玩物」としてしか見ない連中の手から逃す術があるだろうか。
いっそ、商館の奥に囲い、雇い入れてしまうか。
投資の回収には一生かかるだろうが、帳簿の上でなら、いくらでも理由は捏造できる。
――あの時は、決断を先送りにした。
――皆の優しさに、甘えただけだ。
「マスター」
不意に、背後から静かな声がした。
護衛のトゥマニだ。彼は主人の背中に漂う迷いを見逃すほど、疎い男ではなかった。
「悩んでいるのか」
「ああ……。あの白い、小さい子のことでな」
トゥマニは一瞬だけ首を傾げ、それから深い夜の海へ視線を投げた。
「……マスターは、既に答えを持っているはずだ」
「買い被りだよ。そんな万能な人間じゃない」
ラウロは自嘲気味に、苦い笑みを漏らした。
「絶望的な世界で、無様に足掻くことしか知らない。……愚か者だよ」
トゥマニはその言葉を否定しなかった。ラウロが自分を貶める時、それは他者への責任感に押し潰されそうになっている時だと知っていたからだ。
「出過ぎたことを言いますが」
トゥマニは静かに、しかし断固とした口調で続けた。
「あなたは以前、こう言いました。
自分の秤で測りきれないものに出会った時こそ、その出会いに賭け、時間をかけて正面から向き合うのだと」
ラウロは沈黙した。寄せ返す波の音が、妙に耳に響く。
「あなたが迷い、決断するまで守り通す。それが私の務めです。商館の皆も、同じ思いでしょう。どうか、それを忘れないでください」
「……ふふ。ありがとう、トゥマニ」
ラウロは肺の中の重い空気を吐き出すように、ゆっくりと息をついた。
商売に追われ、一人で全てを背負い込む癖がつきすぎていたのかもしれない。
「昔みたいに、皆で顔を合わせる時間が減ったからな。一人で何とかしようと思い込んでいたらしい。
……まあ、なんとかなるだろう。彼女は生きている。それだけで、今は十分だ」
少しだけ、声に体温が戻った。
「うう……冷えてきたな。何か、暖かいものでも飲もう」
「マスター、砂糖を入れてくれ」
「……本当、甘いの好きだな。いいよ」
夜はさらに深まっていく。
今夜はもう、商談の予定はない。
新しい取引の芽を探す必要もない。
帳簿は既に閉じられ、ペンは置かれた。
今はただ、この何もしない、停泊のための時間を自分に許す。
この静寂が終われば、再び舵を取るだけだ。
それまでは、停泊している。
ジェノヴァの夜は、どこまでも静かに更けていった。
アルヴィーゼに任せていた船体の修理と点検は、報告によれば既に粗方の目処が立っているという。
ラウロは、巨躯を横たえるキャラックと、その傍らに控えるキャラベルの巨大な影に飲み込まれながら、船長と短く言葉を交わした。
「板の継ぎ目、喫水線の高さ、竜骨の歪み。帆と索具の摩耗もな。バラストは次の航海を想定して配分してある」
船長が吐き出す言葉の一つひとつを、ラウロは頭の中の図面に落とし込んでいく。それは情報の確認というより、「互いに背中を預けられる状態である」という事実を共有するための儀式に近かった。
「いつでもいけるぜ、旦那。詳しい話は出立前でいいな」
「ああ。それで問題ない」
交わした言葉はそれだけだ。信頼の重みを知る者同士、それ以上の修飾語は蛇足でしかなかった。
準備が一段落すると、ラウロは船長室へは戻らず、そのまま陸へと上がった。
波止場の縁に腰を下ろし、ただ行き交う人々を眺める。
重い荷を肩に担ぐ若者。
銀色に光る魚籠を抱え、威勢よく歩く女。
石畳を跳ね回る子供たちの、甲高い笑い声。
そのどれもが、ラウロの天秤に載る「商談の対象」ではない。
価値という名の数字に換算される前の、剥き出しの、ただの「生活」がそこにあった。
陽はゆっくりと城壁の向こうへ落ち、
港の色は一刻ごとに鈍く沈んでいった。
陽が沈み、夕闇が街を侵食すると、港の喧騒は潮騒に取って代わられた。
水面に揺れる船影は、羽を休めた大鳥のように静まり返っている。嵐の前の静けさとは違う。ただ、時が動くのを止めたような、不思議な空白だった。
その暗い海を見つめるラウロの脳裏に、カッファの冷たい空気の中で出会った、あの銀髪赤眼の少女の姿が浮かび上がった。
――戻ったら、決めなければならない。
届いた便りでは、彼女は順調に回復し、商館の面々とも打ち解けつつあるという。サムエルが孫娘のように可愛がっているという一文に、ラウロは少しだけ眉を寄せたが、それは決定的な不都合ではなかった。
問題は、彼女がこれまでラウロが扱ってきたどの「分野」にも属さない存在だということだ。
「よりマシな明日へ、橋渡しをするだけだ」
そう自分に言い聞かせ、数多の人間の人生を金に換え、あるべき場所へと流してきた。今さら何を躊躇う必要があるのか。
だが、彼女はどうだ。
村を焼かれ、親友を失い、蹂躙され、尊厳を削られた。
「よりマシな明日」へ送ろうにも、その行き先がこの世界のどこにも思い当たらない。
……行き先が、ない。
その事実だけが、夜の海よりも重く胸に沈んだ。
ラウロが知る限りの冷酷な現実において、彼女を「商品」として、あるいは「象徴」や「愛玩物」としてしか見ない連中の手から逃す術があるだろうか。
いっそ、商館の奥に囲い、雇い入れてしまうか。
投資の回収には一生かかるだろうが、帳簿の上でなら、いくらでも理由は捏造できる。
――あの時は、決断を先送りにした。
――皆の優しさに、甘えただけだ。
「マスター」
不意に、背後から静かな声がした。
護衛のトゥマニだ。彼は主人の背中に漂う迷いを見逃すほど、疎い男ではなかった。
「悩んでいるのか」
「ああ……。あの白い、小さい子のことでな」
トゥマニは一瞬だけ首を傾げ、それから深い夜の海へ視線を投げた。
「……マスターは、既に答えを持っているはずだ」
「買い被りだよ。そんな万能な人間じゃない」
ラウロは自嘲気味に、苦い笑みを漏らした。
「絶望的な世界で、無様に足掻くことしか知らない。……愚か者だよ」
トゥマニはその言葉を否定しなかった。ラウロが自分を貶める時、それは他者への責任感に押し潰されそうになっている時だと知っていたからだ。
「出過ぎたことを言いますが」
トゥマニは静かに、しかし断固とした口調で続けた。
「あなたは以前、こう言いました。
自分の秤で測りきれないものに出会った時こそ、その出会いに賭け、時間をかけて正面から向き合うのだと」
ラウロは沈黙した。寄せ返す波の音が、妙に耳に響く。
「あなたが迷い、決断するまで守り通す。それが私の務めです。商館の皆も、同じ思いでしょう。どうか、それを忘れないでください」
「……ふふ。ありがとう、トゥマニ」
ラウロは肺の中の重い空気を吐き出すように、ゆっくりと息をついた。
商売に追われ、一人で全てを背負い込む癖がつきすぎていたのかもしれない。
「昔みたいに、皆で顔を合わせる時間が減ったからな。一人で何とかしようと思い込んでいたらしい。
……まあ、なんとかなるだろう。彼女は生きている。それだけで、今は十分だ」
少しだけ、声に体温が戻った。
「うう……冷えてきたな。何か、暖かいものでも飲もう」
「マスター、砂糖を入れてくれ」
「……本当、甘いの好きだな。いいよ」
夜はさらに深まっていく。
今夜はもう、商談の予定はない。
新しい取引の芽を探す必要もない。
帳簿は既に閉じられ、ペンは置かれた。
今はただ、この何もしない、停泊のための時間を自分に許す。
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