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会った事がない彼女がいます。

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ズズズズズ・・・。 

「お茶かよっ!」

一人で突っ込むのも、むなしいぜ。

俺は、このところ毎日のように流し込んでいる、このうまいのか、まずいのかわからない
黒い液体を見つめながら一人で仕事についてとか、人生とか、いろいろ考えるのが
妹が俺の家に転がり込んでからの日課となっている。

早朝からやさしく通学を見守り、学校まで見送ろうとする妹にひっぱたかれる兄貴は
世界で俺だけに違いない。
その特別なマイノリティの俺が
こんな量産型コーヒーのマジョリティに屈服させられるとは、まいったぜ。

ちょっぴりくやしいが、まあ、メソッドと言うか儀式だな、眠気覚ましだと言う事だ。

いつもなら、学校まで、ゆきちゃんと仲良く談笑しながら妹を学校まで丁寧に見送った後
そこから1駅隣で、会社の近くの、この某ハンバーガーショップまで歩いてくるのだが
それにしても、ゆきちゃんは大変だな、俺はずっと公立だから、私学の事はわからんが
子供の頃から、私学だそうだから、電車でずっと、都心まで通っていたと言う事だ。

痴漢を警戒して、都心で各駅停車に乗り換えるなんて、世の中どんだけ
このコーヒーみたいに真っ黒な手癖の悪いスケベ野郎が量産されているのかと思うと
正直うんざりするが、そのお陰で駅で、ゆきちゃんを待てると言う、ささやかな
幸運に恵まれているわけだから、このコーヒーにも痴漢にも
俺は少なからずとも感謝せざるをえない。

それにしても最近はインターネットなんてものが普及しているから友達も
別に同じ学校とかに通って無くてもできるから便利な時代だ、ゆきちゃんは妹とも
中学の時にそういう形で趣味を通じて知りあったらしい。

初めて、私学に通う事になった妹を先輩としていろいろと
ご指導していただけるなんて、まるで天使のような良い子じゃないか。

学校とかに・・・。

というかカニが食いくなっちまったな、
カニとか海老にはアスタキサンチンという赤い色素の元があるんだが
ヘマットコッカス藻類とかいう、ややこしいのを日々せっせと食って
やつらは、無駄に赤くなっちまってるんだそうだ。

はっ!俺は何、わけわからん事を考えているんだ

俺は動揺しているのか!ちくしょう、朝から何の罰ゲームだよ。

いきなりビンタだぜ、ビンタのクリーンヒットだ。

しかも、名づけるなら妹ビンタだ。
わけわからねえし、爽やかな朝からこれが、正直こたえないわけないだろう。

俺はコーヒーを一気に飲み干し、紙コップを握り締めて潰し、腰掛けている
目の前のガラス越しに見える、爽やかな空気感を感じる
街の風景に目をやった後、テーブルに伏して両の手のひらで、頭を抑え抱え込んで考える。

一体俺が何をした、妹はなんで怒っている。そして、なんで泣いている。

なにか大事な日をすっかり忘れていたと言う事か
いや、そんな事はない親父とおふくろの命日は
関係有るわけないし、妹の誕生日か、いやそれも違う
ゆきちゃんと俺が仲良くしているのを妹が嫉妬か
いや俺は兄貴だ、別にそんなのどうでもいいだろうし

仮にだ、仮にだが将来
友達と自分の兄貴が結ばれてハッピーなエンドなんて事は
むしろ妹としては歓迎すべき話だろう。

「ああっ~!」

考えても全くわからん俺はあるとんでもない事を思いつく、ゆきちゃんに妹が惚れて
俺とにこやかに談笑している姿に嫉妬しているのか。
まさか、あいつにそんな趣味が、兄貴の知らない間に
いつの間にか、そういう方向性にいってしまったのかよ。

いや、うんな事があるわけないじゃないか、あいつは絶対ノーマルだ。
そういう、爛(ただれ)た世界に、ご縁があるタイプじゃない
それは兄貴の俺が良くわかってるじゃないか。

あいつは普通に、いい彼氏を見つけて、普通に結婚して家庭を築くタイプだ
俺が言うのも、なんだが子供の時に両親をなくしそれなりに苦労しているから
人の痛みがわかるやさしい子だ。

まさか倦怠期か、いや嫁じゃあるまいし、兄妹なんだぞ
一緒に住んでるからって、なんでそうなるんだよ。

兄妹だから、あいつの事をわかっていたと思い込んでいただけなのか、なら俺は兄貴として
失格の生涯消えない呪われた烙印を、この右の頬に全力で、爽やかな早朝に焼き付けられたと
言う事なのか、ああ~すまない妹よ、お兄ちゃんは、お兄ちゃんは
きっと悪いお兄ちゃんだったんだな。

イーブルブラザーな麻宮考太郎を誰か懺悔させてくれ。

「麻宮君、ここでさっきから頭を抱えて、一人で何してるの?」

包み込むようなやさしげで、鈴の音のような女性の声がする、きっと天から使わされた
何かそういう存在に違いない。

「はっ、先輩!コーヒーを飲んで、余りにも味わい深いので、一人で身悶えていました」

この女性は天使じゃなく、俺の会社の先輩で三森希望(のぞみ)さん
俺が入社以来、いろいろとお世話になっている仕事上の先輩だ。

そんな先輩に妹にビンタされて悩んでいます、なんていえるわけないじゃないか。

だからと言って、この返事はないだろ、兄貴である前に人として。

「ふふふ、よくわからないけど朝の会議には遅れないでね」

そうだ、俺は出勤前のサラリーマンだ、企業戦士だ、ビジネスソルジャーなんだぞ。

学生気分で、モラトリアムが許される訳がない、立つんだ、立って闘うんだ考太郎
ファイトだ、考太郎、さあ返事を返せ、それも、なるべく短く、はきはきとだ。

「はい、大丈夫です」

「じゃ、後でね、麻宮君、うふふ」

俺の精一杯振り絞った返事を、三森先輩が聞くと安心したのか、天使のような
やさしげな微笑を浮かべながら、すぐに立ち去っていった。

出勤中に俺を外から見つけて、わざわざ声をかけてくれたのか、なんてすばらしい
人格者なんだろう。
それに比べて俺ときたら妹に殴られた原因すらまるでわからない
薄情者じゃないか、だがそれでも俺は立つ、そして仕事に向かう
心はなくとも闘える、それが大人ってもんじゃないか、俺は席を蹴り上げるような勢いで
その場に立ち気合をいれる、よし行くぜ!

椅子を引く音が響いたような気がするが、それは幻聴じゃなく、俺の心の中でつけた擬音だ。
それに俺には心の支えがいる。
3年ほど前からネット上のSNSで運命的に出会って、交際を続けている女性だ。

一度も会った事はないが、同じ東京で郊外に住んでいる子で
実際に会う約束をして、始めてのデートをするはずだったのが
彼女なりの事情があって、突如これなくなったと言う事になってしまっている。
バーチャル彼女じゃない、それじゃ妄想だ、デジタル彼女だと言う訳だ。

別に彼女は嫌になったわけじゃないので、その後も交際は続いている。

最初から、とても気が合う子で、いつも俺の心をきちんと理解して
癒してくれる女神のような存在だ。

一度会う約束をした後から、さらに仲は深まっている感じだ。

その子のため、俺をいつも待ってくれている花菜(かな)さんの為にも
仕事のために立ち上がるんだ。

兄貴としては失格だが、それがなんだ、心の傷は勲章だぜ。

そうだな、とりあえず仕事だ、麻宮考太郎。
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