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雨夜のため息
1話
翌朝の私は少し余所余所しかったと思う。
今朝は朝からの雨だった。
帰りは迎えに来ると言ういつも通りの琥牙。
「来なくっていい。 今日は大丈夫」
今晩は仕事が終わったら飲みに行く予定だから、と言い残して私はマンションを出た。
通勤途中の電車内。
吊革につかまりながら頼りなく揺れる体は今の私の気持ちみたい。
ぼんやりとそれに身を任せていると電車が大きく急停車した。
「……っと! 大丈夫ですか」
低く通る声。
よろけた拍子に肩を支えられて左側の方向を見る。
知らないサラリーマン風の男性だった。
歳は私よりも少し上だろうか。
「ありがとうございます」
「いえ。 この時間によく見掛けますけど、降りる駅も同じですよね」
「そうなんです? すみません、気付かなくて」
にこりと笑いを残して再びその男性が前を向いた。
「どこかのモデルさんみたいで目立ちますから」
身なりと丁寧な言葉遣いのせいで軽いとまでは言わないけど、恋人が途切れない感じの人だと思った。
しとしとと、雨みたいに降ってくる。
薄らと湿った膜のようなもの。
予感というには脆く、意識せずにいれば簡単に指をすり抜ける。
たとえばこんな所から愛だの恋だのが始まるのかもしれない。
たとえば何度か食事でもして甘い囁きをベッドでくれるのかもしれない。
私は今までそんな恋愛しかした事が無い。
至極普通だと思ってる。
特に今の自分に『それ』が必要な訳ではなかった。
けれど琥牙とはそんなものは分かち合えない。
『ダメだよ』
……分かってるからこそ、きっともう潮時なんだろう。
「私は神保町の出版社で働いてるんですけど」
雨に滲む車窓が視界に入る。
それなら僕の職場の近くですね。そう受け応えをする男性の柔らかな表情を眺めていた。
多かれ少なかれ、好意を持っていれば考えるんだろう。
誘うタイミングとか、その内容とか。
その雰囲気から相手の好きそうな態度や服装やそんなものを。
「らしくないな……」
その日仕事が終わったあと、私はオフィスを出てぽつりと独りごちた。
相手に何と思われても別に良かった。
その日に限って誘える人間が社内に居なかっただけだ。
そういえば最近は琥牙と一緒にばかりいて、付き合いが悪かったせいだろう。
幾分小雨になった空模様にほっとしつつも待ち合わせ場所に向かう足運びは心許ない。
自分の家に帰りたくない。
◆
安っぽくない赤で基調されたイタリアンレストランの店内は、平日だというのにそこそこの客で賑わっていた。
軽い食事をし、私はもう何杯目か継ぎ足されたワイングラスを挟んで今朝の男性と話をしている。
「弟さんと一緒に住んでるの?」
「弟っていうか……遠縁の。 成り行きなんだけど」
想像通り、誠実な人ではあるみたい。
今朝方別れ際に彼から貰った名刺には本当に私の会社近くの弁護士事務所と『高遠 徹』という彼の名前があった。
「司法試験通るなんて頭が良いんですね」
弁護士といってもまだ事務所勤めの30手前なんてまだまだヒヨッコだけどね、と彼が苦笑する。
「桜井さんは出版業界だけど編集の方?」
「書店やメディアとの取次の方。 昔から本は好きだったけど営業も肌に合わなくって」
「で、さっきの話だけど危なくない……高校生? それ位の男って性欲しか頭にないでしょ」
そんな指摘に私は曖昧に笑った。
「そうでも無い。 そもそも10も歳上の女にそういう気になんないでしょうし」
ふうん? って顔で彼がグラスを傾ける。
私より三つ上の弁護士。
そりゃあ女には不自由しないだろう。
そう思うと逆に気楽に話せた。
「……うーん」
テーブルの上で手を組んだ彼がじっと私を見る。
「なにか?」
「こういう風に誘ってきた辺り、桜井さんってそういうの分かってそうな気がしたんだけど案外初心なのかな?」
「…………」
「俺は嬉しかったけどね。 無理目って思ってたし」
話す事が仕事だからこういうのも上手いんだろうか。
けれど何となく気付いてしまった。
仕事が多忙だという割に、綺麗なワイシャツと皺のないスーツ。 メッセージの返信の早さや異性に対する嫌味のなさ。
「高遠さんって結婚してます?」
「……そういうの気にする?」
「少なくとも私には必要ない、かな」
そう言って一応は、申し訳なさげに肩を竦める私に高遠さんは愉しげに目を細めた。
基本的に去るものは追わず。
面倒事が嫌い。
そういう所、この人と私は少し似てる。
身分を明かしたり嘘をつかず、敢えて誠実に振る舞うのは彼の自信の表れだろうか。
「こうやって綺麗な子と楽しく過ごせるんならこだわんないよ。 お酒の席だろうがホテルだろうが」
むしろこだわるのはこっちの側じゃないの? そう言いそうになったが、喉元に止めておいた。
そこまでこの人に気持ちがある訳じゃないから。
「私も高遠さんみたいに素敵な人と過ごすのは好きですけど、ベッドの中は遠慮しとく」
「そう? 気が向いたらいつでも」
既婚者がそれと分からなかったらモテる、ってのが何となく分かった。
彼とどうこうなる気もないくせに、この余裕みたいなの、崩したくなる。
どこか自分がおかしいのに気付いていた。
昨晩琥牙に触れられた時から。
あれからどこか肌が熱を持ったみたい。
あんなキスをこの人はくれるんだろうか?
……多分答えはNo。
口に出さずとも私が自分のものなのだと、あの時琥牙は全身でそう言っていた。
それを知らないフリなんてしちゃダメなんだと。
今晩は単にそれに気付いただけだった。
自分に向けられた剥き出しの感情に煽られたのかもしれない。
きっと私はどうかしてる。
琥牙が、欲しいなんて。
今朝は朝からの雨だった。
帰りは迎えに来ると言ういつも通りの琥牙。
「来なくっていい。 今日は大丈夫」
今晩は仕事が終わったら飲みに行く予定だから、と言い残して私はマンションを出た。
通勤途中の電車内。
吊革につかまりながら頼りなく揺れる体は今の私の気持ちみたい。
ぼんやりとそれに身を任せていると電車が大きく急停車した。
「……っと! 大丈夫ですか」
低く通る声。
よろけた拍子に肩を支えられて左側の方向を見る。
知らないサラリーマン風の男性だった。
歳は私よりも少し上だろうか。
「ありがとうございます」
「いえ。 この時間によく見掛けますけど、降りる駅も同じですよね」
「そうなんです? すみません、気付かなくて」
にこりと笑いを残して再びその男性が前を向いた。
「どこかのモデルさんみたいで目立ちますから」
身なりと丁寧な言葉遣いのせいで軽いとまでは言わないけど、恋人が途切れない感じの人だと思った。
しとしとと、雨みたいに降ってくる。
薄らと湿った膜のようなもの。
予感というには脆く、意識せずにいれば簡単に指をすり抜ける。
たとえばこんな所から愛だの恋だのが始まるのかもしれない。
たとえば何度か食事でもして甘い囁きをベッドでくれるのかもしれない。
私は今までそんな恋愛しかした事が無い。
至極普通だと思ってる。
特に今の自分に『それ』が必要な訳ではなかった。
けれど琥牙とはそんなものは分かち合えない。
『ダメだよ』
……分かってるからこそ、きっともう潮時なんだろう。
「私は神保町の出版社で働いてるんですけど」
雨に滲む車窓が視界に入る。
それなら僕の職場の近くですね。そう受け応えをする男性の柔らかな表情を眺めていた。
多かれ少なかれ、好意を持っていれば考えるんだろう。
誘うタイミングとか、その内容とか。
その雰囲気から相手の好きそうな態度や服装やそんなものを。
「らしくないな……」
その日仕事が終わったあと、私はオフィスを出てぽつりと独りごちた。
相手に何と思われても別に良かった。
その日に限って誘える人間が社内に居なかっただけだ。
そういえば最近は琥牙と一緒にばかりいて、付き合いが悪かったせいだろう。
幾分小雨になった空模様にほっとしつつも待ち合わせ場所に向かう足運びは心許ない。
自分の家に帰りたくない。
◆
安っぽくない赤で基調されたイタリアンレストランの店内は、平日だというのにそこそこの客で賑わっていた。
軽い食事をし、私はもう何杯目か継ぎ足されたワイングラスを挟んで今朝の男性と話をしている。
「弟さんと一緒に住んでるの?」
「弟っていうか……遠縁の。 成り行きなんだけど」
想像通り、誠実な人ではあるみたい。
今朝方別れ際に彼から貰った名刺には本当に私の会社近くの弁護士事務所と『高遠 徹』という彼の名前があった。
「司法試験通るなんて頭が良いんですね」
弁護士といってもまだ事務所勤めの30手前なんてまだまだヒヨッコだけどね、と彼が苦笑する。
「桜井さんは出版業界だけど編集の方?」
「書店やメディアとの取次の方。 昔から本は好きだったけど営業も肌に合わなくって」
「で、さっきの話だけど危なくない……高校生? それ位の男って性欲しか頭にないでしょ」
そんな指摘に私は曖昧に笑った。
「そうでも無い。 そもそも10も歳上の女にそういう気になんないでしょうし」
ふうん? って顔で彼がグラスを傾ける。
私より三つ上の弁護士。
そりゃあ女には不自由しないだろう。
そう思うと逆に気楽に話せた。
「……うーん」
テーブルの上で手を組んだ彼がじっと私を見る。
「なにか?」
「こういう風に誘ってきた辺り、桜井さんってそういうの分かってそうな気がしたんだけど案外初心なのかな?」
「…………」
「俺は嬉しかったけどね。 無理目って思ってたし」
話す事が仕事だからこういうのも上手いんだろうか。
けれど何となく気付いてしまった。
仕事が多忙だという割に、綺麗なワイシャツと皺のないスーツ。 メッセージの返信の早さや異性に対する嫌味のなさ。
「高遠さんって結婚してます?」
「……そういうの気にする?」
「少なくとも私には必要ない、かな」
そう言って一応は、申し訳なさげに肩を竦める私に高遠さんは愉しげに目を細めた。
基本的に去るものは追わず。
面倒事が嫌い。
そういう所、この人と私は少し似てる。
身分を明かしたり嘘をつかず、敢えて誠実に振る舞うのは彼の自信の表れだろうか。
「こうやって綺麗な子と楽しく過ごせるんならこだわんないよ。 お酒の席だろうがホテルだろうが」
むしろこだわるのはこっちの側じゃないの? そう言いそうになったが、喉元に止めておいた。
そこまでこの人に気持ちがある訳じゃないから。
「私も高遠さんみたいに素敵な人と過ごすのは好きですけど、ベッドの中は遠慮しとく」
「そう? 気が向いたらいつでも」
既婚者がそれと分からなかったらモテる、ってのが何となく分かった。
彼とどうこうなる気もないくせに、この余裕みたいなの、崩したくなる。
どこか自分がおかしいのに気付いていた。
昨晩琥牙に触れられた時から。
あれからどこか肌が熱を持ったみたい。
あんなキスをこの人はくれるんだろうか?
……多分答えはNo。
口に出さずとも私が自分のものなのだと、あの時琥牙は全身でそう言っていた。
それを知らないフリなんてしちゃダメなんだと。
今晩は単にそれに気付いただけだった。
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きっと私はどうかしてる。
琥牙が、欲しいなんて。
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