朝凪の口付け

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終章 わたしの心の青海原

1話

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「……なんでそんな、朝からめかしこんでんだ……」

少しだけ眠そうな目を一度左手で擦り、ベッドボードに寄りかかって、頭の後ろで手を組んだタクマさんが私を見る。


真っ白な透け感のある、レースのワンピースは貞淑さを表し、その上のエプロンは外せない。

柔らかな印象の薄いアイメイクと、常に家庭に明るさを提供するための、オレンジ系のグロス。
髪は高い位置でまとめ、軽くヘアアイロンで毛先を巻いて。 
これは機能性と手抜きの無さを示している。


それから、えっと。

「朝ごはんにする?  シャワー浴びる?」

「……新婚ごっこの続きか?  で、それとも私って選択肢はねぇのかよ」

「それは、確か、夜ごはんのバージョンだよね?」

ぽっと顔を熱くした私に。

やや間が空いて押し黙っていたタクマさんが、「シャワー浴びてから、メシを食う」と言った。

「じゃあ、ダイニングで待ってるね!」

「OK」

今朝はいつもにも増してぶっきらぼうなタクマさんのようだけど。


「ああ、それから。 メシ食ったら出かけようぜ。 オレん家とか」

そう言って呼び止められた時に、窓の外を眺めて今日の天気を確認している彼はいつも通りだと思う。

今朝の朝食は簡単なものを作った。
そもそも、朝の彼はあまり食事を取らなかったはずだ。
私の実家では、母に気を使って無理矢理食べてたみたいだったけど。


……とは、いっても。

特別な夜を過ごした翌朝って、もっとこう、甘いものを想像してたんだけど。

タクマさんだから、仕方ないのかなあ。


少なめに盛ったご飯と野菜のお味噌汁。
卵焼きを口に運んで、黙々と食べてる目の前のタクマさんをじっと見る。

そしてこれはまた関係ないけど、まだちょっとだけ濡れてる髪の束から覗く切れ長の目が色っぽい。

「……なんか顔についてるか?  美味いけど」

そういえば、今朝はキスも無かったっけ。

その理由をなんでだろうと、考えてみる。


1. こういうことに慣れてるから
2. 昨晩あんまり良くなかったから
3. 今朝の私の格好がイマイチ

「……って、訊くのもなあ」

「また心の声がフツーにダダ漏れだし。 どれも微妙にハズレ」

「…………」

少しだけ、ふっと優しい表情になったタクマさんがお茶の湯呑みを口に運び、立ち上がると同時に顔を傾けて私の頬っぺたにキスしてくれた。

「今朝口になんか塗ってたから、取れるかなと思って。 ああ、オレが洗うから。 ご馳走様」

不意打ちで、頬に手を当てて無言になってる私を尻目に、カチャカチャ器を重ねキッチンに運ぶ。
後ろ姿の彼が、私に話しかけてくる。

「……オマエって、重いよな。 限りなく」

「そ、そんなことないよ。 体調が元に戻っただけで。 服のサイズも変わってないよ?」

「体重の話じゃねえよ……そいやオマエ、大学卒業したら、こんなとこ来てなにすんだ?」

「あ、それ。 考えてたんだけど、学校の先生とか」

子供は好きだし、教えるのも楽しいから。 そう言うと洗い物が終わって蛇口を閉めたタクマさんが振り向いて、うーん、と考え込むように視線を空に浮かせた。

「……あんまり、勧めねえけど。 ハードだし、子供相手だけっつ訳でもねえし。 オマエの場合、こないだみてえに自分でも知らねえうちに色々抱え込みそうで。 んなら、塾講師とかがいんじゃね」

「でも、教員の方が収入も安定してるし、福利厚生も整ってるよね?」

「んなもんは……」言いかけて、「まあ、むしろそれはこっちか」と独り言を呟く。

「………?」

キッチンのシンクにもたれたまま、黙ってしまったタクマさんを不思議に思った。





タクマさんの家は海辺にも徒歩で行けるぐらいと聞いてるから、ここの別荘とは反対側だといっても、そんなに遠くないはずだ。

それでも薄曇りの今朝の空模様を見て、車で出掛けることにした。
陽が出ていないせいで、幾分か過ごしやすい朝。

穏やかな綾波が吹く潮風を巻き込んで、薄青色の空を映す。


「しっかし……オマエが子供の面倒見たがるとかなあ。 なんか妙に感慨深えというか」

いつものように窓を少し空けて運転をしつつ。
しみじみと呟いている彼の脳内には今、幼児の私がいるのだろう。
それが特に嫌だというわけじゃないけど。

『そんなの考えてんのは、余裕のあるときだけどな』

今私が着ている大人っぽいサマードレスや昨晩のことを考えると、なんだかちょっとだけ、寂しく思う。

……ヤキモチといい、恋愛とは、贅沢病だ。
だって以前の私なら、こうやってタクマさんと二人っきりで海を見てるだけで幸せだったもの。

言葉を重ねて、肌を重ねて、増えていくはずの幸せ。

それなのに、二人でいるときに寂しいなんて?
でも、もしかしたらなにかが減ってるのかな?
それとも単に、『幸せすぎて怖い』。
それはこういうことなんだろうか。

「どうかしたか。 また微妙なカオしてるけど」

ぽん、と前を見てる彼が、私の頭に乗っけた手のひら。

運転をしていても、さりげなく私を気にしてくれるタクマさん。
そんな彼に、先ほどまでの感情も吹っ飛び、じわっと胸が熱くなる。

「……やっぱり私は、世界一幸せなんだなと思うんだよ」

「なんだそりゃ…」苦笑した彼が車を停めた場所は、だだっ広い空き地の一角だった。
雑草が増えすぎないほどには手入れがしてあるけれど、何もなく、放置しっぱなしの土地らしい。

「駐車場、借りてるの?」

「こりゃうちの土地だな」

と、彼が神社並に大きな屋根付きの門をくぐっていく。

神社の左右の塀は遥か向こうまで続いていて、控えめな表札に『伊東』と書いてあるタクマさんの苗字を確認した私はやっと、これが個人の家なのだと認識した。

海辺らしく塀沿いの松林の並びを抜けると季節柄、緑の濃い、背の高い木々が乱立している。
そして玄関までの距離も長い。

石畳を辿っていくともれなく、背の低い草木が配置された、個人の住宅らしい敷地が広がる。
芝生が敷かれた庭も、ジョギングでも出来そうな程に広い。
タクマさんが玄関に向かって歩いているのは、確かに昔ながらの平屋の家だけど、建物自体も立派だし、諸々含めて、うちの実家が50個ぐらいは収まりそう。


ここ、重要無形文化財かなにかなの?  ぽかんと口を開けて驚く私に、玄関の鍵を開けて先立って歩く彼が笑う。

「東京と比べんなよ。 こんな場所、二束三文だろ」

二つに分かれた玄関から、両側に立派な柱がいくつか並んだ広間を抜ける。
畳敷きのその部屋には座敷らしく大きなテーブルがいくつか配されていて、風通しのために襖はいつも開けているのだとタクマさんが説明してくれた。

そこからさらに二つの部屋を通り過ぎて、タクマさんがあまりここにはそぐわない、今風の作りのドアを開けた。

これもまた天井が高く広いワンルームだけど、今度は格式のあるホテルかなにかの一室のような佇まい。

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