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第7話
ほどける心 (3)
しおりを挟む父親が帰宅する。玄関に女性向けブランドのヒールが置いてあることによって娘の来訪は気づかれ、最初から波乱に満ちていた。ついに娘がカチコミにやって来たか、と。丸々一週間近く連絡を寄越さず、自分が組事務所に詰めているか趣味のゴルフに行っている間にこの家に戻ってきては荷物を幾らか入れ替えていたと妻からは聞いていた。
「お帰りなさい諸悪の根源。お夕飯もう出来てるから」
「お父さんにその言い草はねえだろうよ……ただいま」
書斎兼寝室の和室の前で待ち構えていた娘の辛辣な出迎えの言葉に言い逃れの出来ない父親は眉間に皺を寄せる。
「辛そうな顔したって無駄よ」
「分かってるよ……お母さんたちは」
「鈴木君と二人でもう先に食べてるから誘っても無駄」
父親と娘、サシの夕飯。
外ではブラックスーツの若人を従えて肩で風を切るようなヤクザが娘を前にして既にタジタジになっている姿はこの家の中だけでしか見られない光景だった。それに一人称は“お父さん”である。
「食べながらの方が喧嘩にならないから」
「お前は本当に合理的だな」
「当たり前じゃない。お母さんに一人で生きていけるようにしっかり教えて貰ったんだし」
「そこはお父さんじゃないのか」
ふん、とついに鼻で笑った撫子に打ちひしがれる父親だったが娘が当たり前のように父親の背広を受け取り、ハンガーに掛ける所作を見て宗一郎の事を思い浮かべる。
箱入り娘として龍堂邸に離れまで建てて住まわせていた子の一人の大人の女性としての振る舞いにネクタイを抜きながら少し俯く。
スラックスにシャツだけのラフな姿になった父親は今一度、手を洗いに行って自分用の居間に戻って来る。一週間前、宗一郎とサシで飲んだ和室だ。
今、目の前には色とりどりの夕食が二膳用意されており「一杯までなら許すけど本格的に飲むならご飯食べてからね」と先に向かい側に座っていた撫子に釘を刺された。
「撫子、すまなかったな」
「謝るならもっと早くにしてよ」
「ああ……」
手酌をさせない撫子は母親が用意してくれていた日本酒の小瓶を父親のグラスに注ぎ入れ、自分のグラスにも半分ほど注ぎ入れる。
「宗一郎と飲んだのもそうだが、あのあと兄弟ともゴルフに行ってて話が弾んじまってよ……二人を一緒に住まわせちまおうって。それならちょうど博堂の持ち物の新築のマンションが」
「随分タイミングのいいこと……」
「マンションは偶然だ。それだけは……それしかねえ、か」
未だ酒に口を付けず、撫子と話をする父親。
小さな頃から子供たちを勝手に『許婚』と称し、それを強要してきたことを詫びてももうあまりにも遅い。そして両家の母親たちは自分が産んだ子らがもし、自立心の芽生えから黙って家から出て行ったとしても生きていけるように身の回りのことについては早くから教えていた。
「私、宗君と籍入れるから」
日にちの話はまだ全然だけど、と言う撫子に顔を上げた父親は祝福の表情ではなかった。
「お前……」
「宗君のお父さんとお母さんに私の意思は堅い、話が纏まったら御挨拶に伺うとお父さんの方からも伝えておいて」
撫子の凛と澄んだ声に父親の口が薄く開き、何かを言いかけて飲み込んだ。
「私と宗君は小さい頃からずっと仲が良かったし、今も家族になりたいと思えたから結婚するの。お父さんだってそうだったんでしょう?カタギの家のお母さんと駆け落ちみたいな無茶なことして」
「本当に良いのか」
父親の不安そうな表情を初めて見る。
極道の世界の繁栄を夢見た時代に生まれてしまった自分と宗一郎。今だから仕方のない話と言えるが母親たちは父親たちの強引な真似に直接口は出さず、それでも子供たちが将来を選べるように育ててくれた。
「そんなしょぼくれた顔してるようじゃ私が白無垢を着たらどうなるんでしょうね。いただきます」
せっかく作った夕飯が冷めちゃうからもう食べよ、と言う撫子は日本酒の入ったグラスを手に取る。
すい、と綺麗な所作でありつつも豪快に飲んだ娘の姿に父親もグラスの中身をあおり、飲み込む。
「うめえなあ……」
しみじみと呟く父親に撫子は「だって今日のお酒、私が選んで買って来たやつだもん。お父さんこの手の味、好きだったでしょ」と言う。
父と娘のやり取りを盗み聞きするでもなく、食べ終わった皿を下げて来るのを台所で色々と惣菜を詰めながら待っていた母親。戦争、つまり大喧嘩になるかそれなりに平和に決着するか……結果は後者のようだと皿を洗っていた鈴木にチラ、と目配せをする。
「これ、宗一郎君と食べる用に詰めておいたから。もう“帰る”んでしょう?」
「うん」
夕飯を作っていた時とは違い、そして父親を待ち構えていた時とも違う娘の様子に母親は「喧嘩吹っ掛けに行くって言うのに、お父さんが好きそうなお酒を用意しちゃって」と保存容器の蓋を閉じる。
中には鈴木謹製の煮物が詰められていた。
「だって……育てて貰ったことについては間違いないんだもん」
どこか子供っぽい口調になっている撫子だったが勇気を出して進んだ一歩の重さを今になって感じていた。
でもその重みは……悪くない。
「ちょっときつく育て過ぎたかしら」
母親の手元にある保存容器や袋には煮物以外にもカットフルーツや撫子が作ったキャロットラペ、さらに貰い物の高級和菓子やありとあらゆるものが目一杯、詰められていた。
「入れ物は返さなくてもいいから。あった方が便利でしょ?」
「うん。向こうはお皿だけは揃ってるんだけどね」
「撫子さん、また」
「鈴木君も勉強頑張って。例の話、本気だから」
「この場合“はい”って言っちゃって良いんですかね」
「迷った時の手堅い保険よ」
じゃあね、と大きな紙袋を提げて龍堂邸の玄関から出て行こうとする撫子は送ってくれる二人の向こう――廊下の奥で黙って見送りに出て来ていた父親の姿を見る。
「お父さん、飲み過ぎちゃ駄目だからね」
笑って出て行く撫子は父親の表情を見た。
ぎこちない、笑顔にも届かないような表情ではあったがこのまま家に泊まるのではなく宗一郎のもとへと“帰る”娘を見送る。
父親がそうして見送りに出ること自体、とんでもなく珍しい行いだと言うのは間違いなかった。
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