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第2章 魔術師アレイスの望み
第87話 魔術師アレイスの願い
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夜も更けたころ、暗い廊下でコツ、コツ……と靴音がする。
音の主はアレイスだ。二階に上がり、アトリエの前でピタリと立ち止まる。
もうエルナは眠っているだろう。安眠効果のある香油をお風呂に入れたので、きっと彼女は心地よい眠りについているはずだ。
扉の前に立つアレイスは、しばらくその場でじっと古ぼけた木の扉を見つめていた。
扉一枚隔てた先にエルナがいる。だが、この先に進んではいけないことも分かっている。
今、部屋に入ってしまえば、これまでエルナと築いた信頼関係がすべて崩れてしまう。
それでもエルナの顔を一目見たい。
エルナに触れたいと願う彼の、心の奥底にある暗く重すぎる感情が、彼の衝動を突き動かしそうになる。
アレイスは震える手をドアノブに伸ばす。一度ドアノブにかけた手を、首を振りながら引っ込めた。
頭を扉に押し付け、ぐっと唇を噛む。大きく深呼吸をしたアレイスは、ゆっくりとその場を離れた。
♢♢♢
アレイスは屋根の上に移動していた。今夜は星が綺麗な夜だ。アレイスは時々こうして、屋根の上で時間を過ごすことがある。
魔術のことで行き詰まったとき、疲れたとき、屋根の上でぼんやりしながら頭の中を整理する。ここは彼が完全に一人になれるお気に入りの場所だ。
右手を上げると、手のひらが光って一筋の光がひものように現れる。その光は彼の目の前で動き回り、やがて何かを形作っていく。
彼の目の前にふわりと浮かぶもの――それは角が特徴的な魔獣、ユニコーンだ。彼の頭ほどの大きさだが、まるで生きているかと思うほど精巧な出来だ。首を振ったり、前足で地面をかくような仕草までする。
魔術師を目指す子供は、魔術の訓練の一環として、生き物を模したものを作り出す。これは遊びも兼ねていて、子供たちは好きな動物を好きなように作って楽しみながら、魔術のコントロールを覚えていくのである。
アレイスは幼いころから生き物を作り出すのが上手かった。わずか二歳で本物と見紛うほどのユニコーンを作って見せ、周囲を驚かせた。天才だと騒がれ、褒められ、おだてられ、周囲から一目置かれた彼は、常にどこか孤独がつきまとった。自分に媚びる者、悪意をぶつける者――様々な人間の感情に振り回されるうちに、彼の心はどんどん閉ざされていき、やがて本心を見せない男となった。
ユニコーンが煙のように消え、次のものをアレイスは作り出す。今度はもっと大きなものだ。大きな光の塊はやがて人の形になっていく。そして完成したのは、エルナそっくりの人形だった。
エルナの人形はアレイスの隣に腰かけ、こちらを見て微笑んでいる。光で形作られたものなので、当然ながら話したりすることはない。
「――ねえ、エルナ」
アレイスは目を細めながら、エルナの人形に語りかける。
「このまま、僕の家で暮らしなよ。家に帰らなくてもいいじゃない。ここは部屋がたくさんあるし、お風呂も気に入ったでしょ? ギルドに通うのだって、ここからのほうが近いよ。道もきれいだし、夜道も安全なんだ」
笑顔を浮かべたアレイスは、エルナの人形に話を続ける。
「エルナのために、新しく寝室を用意するよ。壁紙も明るいものに変えて、カーペットも新しくしよう。アトリエにあるベッドは小さいから、もっと大きいベッドを作ってもらおうか。そうだ、洋服がたくさん入る衣裳部屋も必要だよね。他の部屋だって、エルナが好きに変えていいよ。内装とか家具とか、エルナが好きなようにしていいんだ」
エルナの人形は、微笑んだまま動かない。アレイスはどこか楽しそうに、身振り手振りをしながら話し続けている。
「ね? 一緒に暮らせたら、きっと楽しいよ。そうだ、ギルドとの連絡で必要になるだろうから、近いうちに『伝話』を置こう。だからもう、君は帰らなくていいんだよ。僕が街にいるときは、一緒に夕食を食べよう。夜猫亭なんか行かないでさ、この家で二人だけで食べようよ」
アレイスの深い湖の底のような瞳には、エルナしか映っていない。ぼんやりと光るエルナの人形を愛おしそうに見つめていたアレイスは、手を伸ばして彼女の頬に触れた。
その瞬間、エルナの人形は形が崩れて霧のように消えてしまった。魔術で作り出した生き物は実体ではないので、触れると消えてしまうのだ。
エルナが消え、再び静かな夜の姿に戻る。
アレイスは王都を出ると決めたとき、心に誓ったことがある。それは『家庭を持たない』ということだ。彼の名前である『アレイス・ロズ』は、彼自身が決めた名前である。彼の本名は『アレクシス・ロズヴァルド』。伝統ある魔術師の家系であるロズヴァルド家の息子だ。
家族を捨て、名前を捨て、王都を去った彼は、生涯独身を貫くと決めた。この先女性と出会ったとしても、その結婚は決して祝福されない。それを分かっているから、最初から結婚など考えないことにしていた。
王宮で生活していたころから、女性と対等な関係を築けるなど思っていなかった彼である。彼の美しさは若いころから評判だったので、女性から誘惑されて対応に苦慮することも多かった。自分の母親ほど年の離れた女に迫られたこともある。
彼にとって女性というのは、魔術を極めるうえで邪魔でしかなかった。女性に溺れて道を踏み外す仲間を見て、なんて愚かな男だと軽蔑すらしていた。
そんなアレイスが出会ったエルナは、暗い夜道に浮かぶ暖かなランタンのような存在だった。遠くにぼんやりと見えるその明かりを見ると安心して、早くそこへ行きたくなる。
王都を出てアインフォルドで暮らし、そしてミルデンと、知らない街に移って自分を偽り続けてきたアレイスは、いつの間にか彼自身も知らぬうちに疲れていた。
ミルデンののんびりした雰囲気と、親切な人々。穏やかな街で暮らすエルナは、彼がいつの間にか侵されていた『孤独』という隙間を埋めてくれる存在であり、彼の『ランタン』となった。家族に甘えることもなく、ひたすら魔術の探求を続けてきた彼は、自ら人を遠ざけていたこともあり、人付き合いが下手だ。
だから彼は、リボンに魔術をかけてエルナを監視しようと考えた。エルナはとても大切な存在で、誰からも傷つけられてはならない。アレイスは心の底から彼女を心配し、彼女を守っているつもりなのである。
家族を持つ資格のない自分が、エルナに結婚を申し込むなどできない。そう頭では理解していても、エルナを独占したいと思う気持ちは抑えられない。彼の感情は振り子のように行ったり来たりしていた。
アレイスはその後、夜が明けるまで屋根の上で過ごした。エルナがぐっすりと眠れていることを願いながら。
音の主はアレイスだ。二階に上がり、アトリエの前でピタリと立ち止まる。
もうエルナは眠っているだろう。安眠効果のある香油をお風呂に入れたので、きっと彼女は心地よい眠りについているはずだ。
扉の前に立つアレイスは、しばらくその場でじっと古ぼけた木の扉を見つめていた。
扉一枚隔てた先にエルナがいる。だが、この先に進んではいけないことも分かっている。
今、部屋に入ってしまえば、これまでエルナと築いた信頼関係がすべて崩れてしまう。
それでもエルナの顔を一目見たい。
エルナに触れたいと願う彼の、心の奥底にある暗く重すぎる感情が、彼の衝動を突き動かしそうになる。
アレイスは震える手をドアノブに伸ばす。一度ドアノブにかけた手を、首を振りながら引っ込めた。
頭を扉に押し付け、ぐっと唇を噛む。大きく深呼吸をしたアレイスは、ゆっくりとその場を離れた。
♢♢♢
アレイスは屋根の上に移動していた。今夜は星が綺麗な夜だ。アレイスは時々こうして、屋根の上で時間を過ごすことがある。
魔術のことで行き詰まったとき、疲れたとき、屋根の上でぼんやりしながら頭の中を整理する。ここは彼が完全に一人になれるお気に入りの場所だ。
右手を上げると、手のひらが光って一筋の光がひものように現れる。その光は彼の目の前で動き回り、やがて何かを形作っていく。
彼の目の前にふわりと浮かぶもの――それは角が特徴的な魔獣、ユニコーンだ。彼の頭ほどの大きさだが、まるで生きているかと思うほど精巧な出来だ。首を振ったり、前足で地面をかくような仕草までする。
魔術師を目指す子供は、魔術の訓練の一環として、生き物を模したものを作り出す。これは遊びも兼ねていて、子供たちは好きな動物を好きなように作って楽しみながら、魔術のコントロールを覚えていくのである。
アレイスは幼いころから生き物を作り出すのが上手かった。わずか二歳で本物と見紛うほどのユニコーンを作って見せ、周囲を驚かせた。天才だと騒がれ、褒められ、おだてられ、周囲から一目置かれた彼は、常にどこか孤独がつきまとった。自分に媚びる者、悪意をぶつける者――様々な人間の感情に振り回されるうちに、彼の心はどんどん閉ざされていき、やがて本心を見せない男となった。
ユニコーンが煙のように消え、次のものをアレイスは作り出す。今度はもっと大きなものだ。大きな光の塊はやがて人の形になっていく。そして完成したのは、エルナそっくりの人形だった。
エルナの人形はアレイスの隣に腰かけ、こちらを見て微笑んでいる。光で形作られたものなので、当然ながら話したりすることはない。
「――ねえ、エルナ」
アレイスは目を細めながら、エルナの人形に語りかける。
「このまま、僕の家で暮らしなよ。家に帰らなくてもいいじゃない。ここは部屋がたくさんあるし、お風呂も気に入ったでしょ? ギルドに通うのだって、ここからのほうが近いよ。道もきれいだし、夜道も安全なんだ」
笑顔を浮かべたアレイスは、エルナの人形に話を続ける。
「エルナのために、新しく寝室を用意するよ。壁紙も明るいものに変えて、カーペットも新しくしよう。アトリエにあるベッドは小さいから、もっと大きいベッドを作ってもらおうか。そうだ、洋服がたくさん入る衣裳部屋も必要だよね。他の部屋だって、エルナが好きに変えていいよ。内装とか家具とか、エルナが好きなようにしていいんだ」
エルナの人形は、微笑んだまま動かない。アレイスはどこか楽しそうに、身振り手振りをしながら話し続けている。
「ね? 一緒に暮らせたら、きっと楽しいよ。そうだ、ギルドとの連絡で必要になるだろうから、近いうちに『伝話』を置こう。だからもう、君は帰らなくていいんだよ。僕が街にいるときは、一緒に夕食を食べよう。夜猫亭なんか行かないでさ、この家で二人だけで食べようよ」
アレイスの深い湖の底のような瞳には、エルナしか映っていない。ぼんやりと光るエルナの人形を愛おしそうに見つめていたアレイスは、手を伸ばして彼女の頬に触れた。
その瞬間、エルナの人形は形が崩れて霧のように消えてしまった。魔術で作り出した生き物は実体ではないので、触れると消えてしまうのだ。
エルナが消え、再び静かな夜の姿に戻る。
アレイスは王都を出ると決めたとき、心に誓ったことがある。それは『家庭を持たない』ということだ。彼の名前である『アレイス・ロズ』は、彼自身が決めた名前である。彼の本名は『アレクシス・ロズヴァルド』。伝統ある魔術師の家系であるロズヴァルド家の息子だ。
家族を捨て、名前を捨て、王都を去った彼は、生涯独身を貫くと決めた。この先女性と出会ったとしても、その結婚は決して祝福されない。それを分かっているから、最初から結婚など考えないことにしていた。
王宮で生活していたころから、女性と対等な関係を築けるなど思っていなかった彼である。彼の美しさは若いころから評判だったので、女性から誘惑されて対応に苦慮することも多かった。自分の母親ほど年の離れた女に迫られたこともある。
彼にとって女性というのは、魔術を極めるうえで邪魔でしかなかった。女性に溺れて道を踏み外す仲間を見て、なんて愚かな男だと軽蔑すらしていた。
そんなアレイスが出会ったエルナは、暗い夜道に浮かぶ暖かなランタンのような存在だった。遠くにぼんやりと見えるその明かりを見ると安心して、早くそこへ行きたくなる。
王都を出てアインフォルドで暮らし、そしてミルデンと、知らない街に移って自分を偽り続けてきたアレイスは、いつの間にか彼自身も知らぬうちに疲れていた。
ミルデンののんびりした雰囲気と、親切な人々。穏やかな街で暮らすエルナは、彼がいつの間にか侵されていた『孤独』という隙間を埋めてくれる存在であり、彼の『ランタン』となった。家族に甘えることもなく、ひたすら魔術の探求を続けてきた彼は、自ら人を遠ざけていたこともあり、人付き合いが下手だ。
だから彼は、リボンに魔術をかけてエルナを監視しようと考えた。エルナはとても大切な存在で、誰からも傷つけられてはならない。アレイスは心の底から彼女を心配し、彼女を守っているつもりなのである。
家族を持つ資格のない自分が、エルナに結婚を申し込むなどできない。そう頭では理解していても、エルナを独占したいと思う気持ちは抑えられない。彼の感情は振り子のように行ったり来たりしていた。
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