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第42話 甘美なる罠
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伯爵の居城は、静かな屈辱に満ちていた。ステップド家を経済的に締め上げるはずだった策は、ことごとく裏目に出た。関税は新たな交易路によって迂回され、権威の象徴であるはずの街道は、ただ寂れるばかり。それどころか、ステップド家が主導する新たな経済圏の誕生は、伯爵自身の領内における影響力さえも、静かに削ぎ落としていた。
「もはや、我家の手には負えん……」
重臣たちを前に、伯爵は絞り出すように言った。軍事力で叩くには、ステップド家はあまりに力をつけすぎた。何より、王都でその産品が評価されている今、下手に手を出せば、こちらが王家の不興を買いかねない。
「こうなれば……」
伯爵は、最後の、そして最も強力な切り札を切る決意をした。
「王都へ赴き、陛下に直接奏上する。これは、我が家とステップド家の些細な諍いにあらず。王国の秩序を乱し、君臣の序列を破壊しかねない、国家に対する反逆である、と」
彼は、自らの無力を認める代わりに、問題をより大きな政治の舞台へと引きずり上げることを選んだ。自らの権威では裁けぬ者を、より大きな権威に裁かせるために。
◇
その頃、ステップド領では、かつてないほどの豊穣を祝う、盛大な収穫祭が開かれていた。黄金色に実った麦の穂が、風に揺れてさざめく。領都の広場には、大きな焚き火がいくつも焚かれ、その周りでは、人々が手を取り合って踊っていた。
旧ステップド領民も、元サイム領民も、もはやそこに垣根はない。同じ釜の飯を食べ、同じ酒を酌み交わし、同じ収穫の喜びを分かち合う。エルキュールが考案した、香辛料を利かせた猪の丸焼きや、甘い蜂蜜をかけた焼き菓子が、テーブルにずらりと並ぶ。子供たちの笑い声と、吟遊詩人が奏でるリュートの陽気な音色が、秋の夜空に溶けていく。
「……良い光景だな」
父ガイウスが、息子であるエルキュールの隣で、目を細めながら言った。エルキュールも、その光景を見つめていた。
彼が前世から夢見ていた、豊かで、穏やかで、誰もが笑って暮らせる世界。その理想が、今、目の前にあった。これこそが、彼が守りたかった「スローライフ」そのものだった。
その、あまりにも平和な祝祭の空気を、一騎の馬が切り裂いた。
馬上の騎士は、王家の紋章が刺繡された、深紅のマントを身に着けていた。彼が掲げた羊皮紙には、国王の印璽が、厳かに押されている。広場は、水を打ったように静まり返った。音楽も、笑い声も、ぴたりと止む。
王家の騎士は、馬から降りると、ガイウスとエルキュールの前まで進み、恭しく片膝をついた。
「国王陛下からの、勅令である」
騎士の張りのある声が、広場に響き渡る。誰もが、伯爵の訴えによる懲罰を覚悟し、固唾を呑んだ。
「――ステップド家の当主ガイウス、並びにその嫡男エルキュール。その類まれなる才覚と、領地経営における目覚ましい功績を、国王陛下は高く評価しておられる」
予想外の言葉に、人々は顔を見合わせる。
「よって、陛下は、ステップド領とその民が生み出す豊かさを、広く王国全体に還元することを望んでおられる。これより、ステップド領全域を、『王家直轄経済特区』に指定する!」
「……!」
「ステップド家は、今後、王家の求めに応じ、その産品――穀物、紙、布地、武具に至るまで――を、優先的に生産し、王家へ献上する義務を負うものとする。これは、ステップド家に与えられた、最大級の栄誉である!」
◇
王家の騎士が嵐のように去った後、祝祭の熱気は、完全に冷え切っていた。
屋敷の会議室には、重い沈黙が垂れ込めていた。
「王家直轄……なんと名誉なことだ……」
父ガイウスが、呆然と呟く。
だが、エルキュールは、その言葉の裏にある、冷たい真実を見抜いていた。
「父上、これは名誉などではありません。美しく飾り付けられた、首輪です」
彼は、勅令が記された羊皮紙を指さした。「ここに書かれた献上の要求量(クオータ)を見てください。これを満たすためには、領内の全ての工房を、一年中、休みなく稼働させなければなりません。民は疲弊し、私たちが目指してきた豊かな暮らしは、ただの『生産ノルマ』をこなすための労働に変わるでしょう」
「……つまり、王家は、我々の領地を、王家専用の農場か工場にするつもりだ、と?」
ヴォルフガング叔父さんの隻眼が、鋭く光った。
「その通りです」と、ジョン叔父さんも続けた。
「そして、『王家直轄』という言葉の本当の恐ろしさは、我々が伯爵だけでなく、全ての貴族の干渉を受け付けない代わりに、王家以外の誰にも助けを求められなくなるということだ。我々は、完全に孤立させられる」
伯爵は、ステップド家を罰することには失敗した。だが、彼は、より狡猾な方法で、その目的を達成したのだ。ステップド家から、その自由と、未来の可能性を奪い取るという目的を。
エルキュールは、勅令の羊皮紙を、強く握りしめた。ようやく手に入れたはずの、穏やかで豊かな日常。それが、国家という、あまりにも巨大な権力によって、根こそぎ奪い去られようとしていた。
甘美なる、栄誉という名の罠。彼は、その罠の中心で、完全に閉じ込められてしまったのだ。
「もはや、我家の手には負えん……」
重臣たちを前に、伯爵は絞り出すように言った。軍事力で叩くには、ステップド家はあまりに力をつけすぎた。何より、王都でその産品が評価されている今、下手に手を出せば、こちらが王家の不興を買いかねない。
「こうなれば……」
伯爵は、最後の、そして最も強力な切り札を切る決意をした。
「王都へ赴き、陛下に直接奏上する。これは、我が家とステップド家の些細な諍いにあらず。王国の秩序を乱し、君臣の序列を破壊しかねない、国家に対する反逆である、と」
彼は、自らの無力を認める代わりに、問題をより大きな政治の舞台へと引きずり上げることを選んだ。自らの権威では裁けぬ者を、より大きな権威に裁かせるために。
◇
その頃、ステップド領では、かつてないほどの豊穣を祝う、盛大な収穫祭が開かれていた。黄金色に実った麦の穂が、風に揺れてさざめく。領都の広場には、大きな焚き火がいくつも焚かれ、その周りでは、人々が手を取り合って踊っていた。
旧ステップド領民も、元サイム領民も、もはやそこに垣根はない。同じ釜の飯を食べ、同じ酒を酌み交わし、同じ収穫の喜びを分かち合う。エルキュールが考案した、香辛料を利かせた猪の丸焼きや、甘い蜂蜜をかけた焼き菓子が、テーブルにずらりと並ぶ。子供たちの笑い声と、吟遊詩人が奏でるリュートの陽気な音色が、秋の夜空に溶けていく。
「……良い光景だな」
父ガイウスが、息子であるエルキュールの隣で、目を細めながら言った。エルキュールも、その光景を見つめていた。
彼が前世から夢見ていた、豊かで、穏やかで、誰もが笑って暮らせる世界。その理想が、今、目の前にあった。これこそが、彼が守りたかった「スローライフ」そのものだった。
その、あまりにも平和な祝祭の空気を、一騎の馬が切り裂いた。
馬上の騎士は、王家の紋章が刺繡された、深紅のマントを身に着けていた。彼が掲げた羊皮紙には、国王の印璽が、厳かに押されている。広場は、水を打ったように静まり返った。音楽も、笑い声も、ぴたりと止む。
王家の騎士は、馬から降りると、ガイウスとエルキュールの前まで進み、恭しく片膝をついた。
「国王陛下からの、勅令である」
騎士の張りのある声が、広場に響き渡る。誰もが、伯爵の訴えによる懲罰を覚悟し、固唾を呑んだ。
「――ステップド家の当主ガイウス、並びにその嫡男エルキュール。その類まれなる才覚と、領地経営における目覚ましい功績を、国王陛下は高く評価しておられる」
予想外の言葉に、人々は顔を見合わせる。
「よって、陛下は、ステップド領とその民が生み出す豊かさを、広く王国全体に還元することを望んでおられる。これより、ステップド領全域を、『王家直轄経済特区』に指定する!」
「……!」
「ステップド家は、今後、王家の求めに応じ、その産品――穀物、紙、布地、武具に至るまで――を、優先的に生産し、王家へ献上する義務を負うものとする。これは、ステップド家に与えられた、最大級の栄誉である!」
◇
王家の騎士が嵐のように去った後、祝祭の熱気は、完全に冷え切っていた。
屋敷の会議室には、重い沈黙が垂れ込めていた。
「王家直轄……なんと名誉なことだ……」
父ガイウスが、呆然と呟く。
だが、エルキュールは、その言葉の裏にある、冷たい真実を見抜いていた。
「父上、これは名誉などではありません。美しく飾り付けられた、首輪です」
彼は、勅令が記された羊皮紙を指さした。「ここに書かれた献上の要求量(クオータ)を見てください。これを満たすためには、領内の全ての工房を、一年中、休みなく稼働させなければなりません。民は疲弊し、私たちが目指してきた豊かな暮らしは、ただの『生産ノルマ』をこなすための労働に変わるでしょう」
「……つまり、王家は、我々の領地を、王家専用の農場か工場にするつもりだ、と?」
ヴォルフガング叔父さんの隻眼が、鋭く光った。
「その通りです」と、ジョン叔父さんも続けた。
「そして、『王家直轄』という言葉の本当の恐ろしさは、我々が伯爵だけでなく、全ての貴族の干渉を受け付けない代わりに、王家以外の誰にも助けを求められなくなるということだ。我々は、完全に孤立させられる」
伯爵は、ステップド家を罰することには失敗した。だが、彼は、より狡猾な方法で、その目的を達成したのだ。ステップド家から、その自由と、未来の可能性を奪い取るという目的を。
エルキュールは、勅令の羊皮紙を、強く握りしめた。ようやく手に入れたはずの、穏やかで豊かな日常。それが、国家という、あまりにも巨大な権力によって、根こそぎ奪い去られようとしていた。
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