アウトシステム~「80点の楽園」か「150点の地獄」か。AIの正解を論破せよ。~

ジョウジ

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第23話:消失

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 翌朝、雨は上がっていた。

 だが、空は相変わらず、濡れたコンクリートのような灰色に覆われていた。汎用AI《ハルシオン》が気象操作衛星を使って雲を晴らしたとしても、四ツ谷 海(よつや かい)の視界から色が戻ることはなかった。

 海は、高級レジデンス「スカイ・アーク」の前に立っていた。

 高効率居住区の一等地。昨日まで、相葉 蓮(あいば れん)が住んでいた場所だ。見上げるような摩天楼。その最上階近くに、かつて親友が「80点の檻」と呼んで蔑み、そして愛した城があった。

「……蓮」

 海は、乾いた唇で名を呼んだ。返事はない。

 昨夜、路地裏で別れてから、蓮との連絡は完全に途絶えていた。彼の市民IDは抹消され、通信端末は圏外になり、この世界における「相葉 蓮」という個体を示す信号(シグナル)は、唐突にロストした。

 海は、重たい足取りでエントランスに向かった。本来なら、海のような低ランクの市民が立ち入れる場所ではない。強固なセキュリティゲートが、不適合者を拒絶するはずだ。

 だが、ゲートは開いていた。

 壊されているのではない。「対象外」なのだ。エントランスの照明は落ち、フロントのアンドロイドも電源を切られ、沈黙している。壁のパネルには『資産凍結・退去手続完了』『空室清掃中』のステータスが表示されている。

 ハルシオンにとって、ここはもう守るべき「市民の住居」ではなく、ただの「空っぽの箱」に過ぎない。泥棒が入ろうと、浮浪者が迷い込もうと、資産価値(家具)さえなくなっていれば、AIは関知しない。その冷徹な合理性が、海に侵入を許していた。

 海はエレベーターに乗り込んだ。ここもまた、セキュリティチェックなしで動いた。行き先ボタンを押す必要すらない。このエレベーターは今、「清掃用」として、処理すべき部屋――42階へと直行する設定になっていた。

 ウィーン……。

 上昇する浮遊感。だが、海の胃の腑には、鉛のような重力が沈殿していた。

 昨夜の蓮の言葉が、耳の奥で反響する。
『お前は、悪魔だ』 『お前が俺に、こんな余計なものを渡さなければ』

 海は、胸元の『アウトシステム(OS)』を強く握りしめた。冷たい。あれから一度も起動していない鉄塊は、ただの死んだ重りとなって、海の首を絞め続けている。

 チン。

 到着のベルが鳴り、ドアが開く。長い廊下の突き当たり。4205号室。ドアは、半開きになっていた。

「……うッ」

 海は、部屋に足を踏み入れた瞬間、鼻と目を覆った。

 強烈な刺激臭。高濃度のオゾンと、ナノマシンを含んだ特殊洗浄剤の霧が充満している。

 そこには、「無」があった。

 家具がない。家電がない。生活の気配も、蓮が好んで飾っていた前衛的なアートも、飲みかけのワインボトルも、何一つ残っていない。

 あるのは、漂白されたような白い壁と、チリ一つ落ちていないフローリングの床だけ。

 海は『OS』の視覚フィルター越しに、部屋の惨状を理解した。

 壁や床の表面が、ナノマシンの霧によって数ミクロンほど「削り取られて」いる。

 指紋、皮膚片、髪の毛、そして匂い。蓮が生きていたという物理的な痕跡を、分子レベルで研磨し、削除したのだ。清掃ではない。「存在の抹消」だ。

 海は、広すぎるリビングの中央に立った。

 窓の外には、昨日と変わらない都市の風景が広がっている。復旧したドローンが飛び交い、信号は規則正しく明滅し、人々は『アルシオーネ』越しに笑顔を交わしている。

 蓮が命を削って破壊しようとし、そして弾き飛ばされた世界。それは、何事もなかったかのように、平然と呼吸を続けていた。

「バカ野郎……」

 海は、膝から崩れ落ちそうになるのを堪えた。

 何も残っていない。蓮の野心も、苦悩も、あの狂気じみた150点の熱狂も。この部屋の空気と一緒に、換気扇から吸い出されてしまった。

「……ん?」

 その時、リビングの床を這い回る、円盤状の清掃ロボットが目に入った。ロボットは、部屋の隅に落ちていた「一枚の紙」を、ゴミとして吸い込もうとしていた。

「待て!」

 海は反射的に駆け寄り、ロボットの吸い込み口からその紙を引っこ抜いた。

 危ないところだった。あと数秒遅ければ、蓮の残した「最期の痕跡」さえも、焼却炉行きになるところだった。

 海は、震える手でその紙を見た。

 薄い、感熱紙の書類。だが、そこには電子データにはない質量があった。

『ハルシオン保護プログラム適用決定通知書(本人控え)』

 海の手が震えた。

 保護プログラム。聞こえはいいが、その実態は「精神の去勢」だ。社会に適応できなくなった重度不適合者に対し、脳外科手術や薬物投与を行い、判断能力(ストレス源)を物理的に切除する。

 そして、システムに従順な「幸せな家畜」として再社会化させる、最終的な更生措置。

 なぜ、紙なのか。

 この世界において、唯一「本人の生体情報」を物理的に固定できる媒体だからだ。電子署名は偽造できる。だが、DNAを含んだインクによる直筆署名だけは、本人の「自由意志の放棄」を示す絶対的な証拠となる。

「決定通知……?」

 海は、書類の署名欄に目を走らせた。息が止まった。

『申請日時:昨日 16:45』 『申請者:相葉 蓮』

 そこにある署名は、かつてのエリートらしい流麗な筆跡ではなかった。

 ミミズがのたうったように乱れ、枠からはみ出し、最後は力尽きたように線が擦れている。ところどころに、乾いた涙の跡のような染み。それは、蓮がどれほどの恐怖と絶望の中で、このペンを握ったかを如実に物語っていた。

「……昨日?」

 海の声が裏返った。

 昨日、16時45分。

 それは、海が路地裏で蓮に会う、数時間前の出来事だ。資産を全て没収され、絶望の淵に立たされたあの処理室で、蓮はこの申請書にサインしていたのだ。

『俺はただ、楽になりたかっただけなのに……!』

 昨夜の叫びが、意味を変えて突き刺さる。

 あれは、助けを求める悲鳴ではなかった。

 すでに「思考を捨てること」を決めた男が、最後の未練として吐き出した、魂の燃えカスだったのだ。

 路地裏で海に会った時、蓮はもう「人間」であることを辞めていた。海がOSを差し出して「諦めるな」と言った時、蓮は内心で泣いていたのかもしれない。

 あるいは、安堵していたのかもしれない。「もう、戦わなくていいんだ」と。

「……そうか」

 海は、書類を握りしめたまま、その場にうずくまった。涙は出なかった。ただ、内臓がごっそりと抜け落ちたような、巨大な喪失感だけがあった。

 蓮は、路地裏で死んだのではない。

 この書類に署名をした瞬間――「思考の放棄」を自ら願い出たその瞬間に、人間・相葉 蓮は死んでいたのだ。海が出会ったのは、その残像(亡霊)に過ぎなかった。

 ふと、何もないソファのあたりに、ノイズが走った気がした。

 海が顔を上げると、一瞬だけ、ワイングラスを傾けて笑う蓮の姿が、ARの幻影として浮かび上がった。だが、それもすぐに砂嵐のように崩れ、消えた。

『Data Deleted.』

 システムが、最後の残滓さえも消去したのだ。

「俺が、殺したんだ」

 海は、誰もいない白い部屋で、独白した。

 蓮から「安寧」を奪い、戦場へ送り出し、傷ついた彼に「降伏(死)」を選ばせたのは、他ならぬ自分だ。この通知書は、蓮の死亡診断書だ。

 海は、ゆっくりと立ち上がった。窓ガラスに映る自分の顔は、幽霊のように青白かった。

 首元の『OS』が、石のように重い。

 蓮はもういない。どこかの施設で、脳をいじられ、幸せな夢を見るだけの「肉の塊」になっているだろう。

 会いに行かなければならない。

 謝るためではない。許しを乞うためでもない。自分が殺した親友の、「成れの果て」を目に焼き付けるために。

「見てやるよ、蓮」

 海は通知書をポケットにねじ込んだ。カサリ、という乾いた音が、静寂な部屋に響く。

「お前が選んだ『幸せ』がどんなものか、俺がこの目で証明してやる」

 それが、呪いを配った人間に課せられた、唯一の贖罪(しょくざい)であり、システムへの最後の戦いだった。

 海は部屋を出た。背後でドアが閉まる音が、まるで墓石が置かれる音のように重く響いた。
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