切愛、あるいは独占 ~『不感症の神様』と呼ばれた42歳のエリート上司は、派遣の私にだけ42年分の「欲」と「愛」を溢れさせる~

結城ろか

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第1章【派遣社員の壁とシトラスの予感】

01-02 難解な言葉とシトラスの洗礼

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(人として扱ってもらえない……か。でも、ちゃんと『モノ』として動けば、いつかは認めてもらえるはず。私はそうやって生活を守ってきたんだから。今度こそ!)

午前中の事務的な手続きと細々した説明が終わり、時計の針が午後12時を回った頃。

「三井さん、企画部署の人に紹介するから、ちょっと来て」

川口さんに続くようにしてフロアの中央に向かうと、空気が一変した。
窓際の1番日当たりが良い場所。
そこはひときわ熱を帯びた、この会社の花形部署だった。
数台のモニターが並んだデスク。
整然と並ぶ最新のサンプルが置かれた棚。
そして、鋭い視線で議論を戦わせる人々。
隅っこの静かな総務席から見れば、そこはまるでスポットライトが当たるステージのように輝いて見えた。

「宇佐美さん、今いいっすか?」

川口さんが声をかけたのは、その中心に座る男性だった。
首から下げた社員証ネームプレートには『宇佐美 圭うさみ けい』と書かれている。

「5分待て。この案件の蓋然性がいぜんせいを精査し、不確実性を排除するまで、思考のリソースを割くつもりはない」

(……ガイゼンセイ? セイサ?)
吉田さんが言っていた言葉が、不吉な予感と共に脳裏をかすめた。
聞き慣れない硬い響きに、辞書を引きたくなるという言葉が嫌というほど身に染みた。

宇佐美さんは視線をモニターに固定したまま、一切の無駄がない動きでキーボードを叩き続けている。
一片の乱れも許さない、端正なダークネイビーのスーツ。
整えられた髪。
そして、彼が纏う「プロフェッショナル」特有の冷徹なまでの集中力が、周囲の空気をピリつかせている。

その5分間は、私にとって永遠のように感じられた。
忙しなく動き回る社員たちの邪魔にならないよう、私は壁際に身を寄せ、息を潜めて彼を待つ。

周囲の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように遠のいていく。
緊張で張り詰めた私の中には、彼の正確無比なタイピング音だけが響いていた。
パチパチ、という乾燥した機械的なリズムが、まるで私という存在の不透明さを嘲笑っているように聞こえた。
ここにあるのは、徹底した合理性と結果。
私のような『よそ者』の感情が入り込む余地など存在しなかった。

5分きっかり。
宇佐美さんはパシッと最後の一打を放つと、ようやくこちらを振り返った。
その切れ長の瞳が、値踏みするように私を捉える。

「今日からサポートに入ってもらう派遣の三井さんです」
川口さんの紹介にあわてて背筋を伸ばした。

「三井です。よろしくお願いします」

宇佐美さんは事務的に会釈を返した。
「企画の宇佐美だ。指示は川口経由で出す。提示された要件に対し、遅滞なく最適解を提示することを期待する」

(……遅滞なく? 要するに、ぐずぐずするなってことだよね)

「三井さん、だったか。君の時間を浪費させるつもりはないが、俺の思考の連続性を阻害するような事態も避けてほしい。要するに、最短ルートで成果アウトプットを出せということ……以上だ」

(……思考の、連続性を阻害? それってつまり、私に話しかけられること自体が、この人の邪魔だってこと……?)

それだけ言って、彼は私の存在を視界から削除するように、再びモニターへと意識を戻した。
視線が合っていたのは、わずか数秒。
まるで、届けられた備品の性能を点検するような、冷たい視線と低く湿度のない声。
そこには、新しい人間を歓迎する色など微塵もなかった。

それなのに私の鼻の奥には、彼の冷ややかな言葉と同時に、微かな、けれど強烈に理性を惹きつけるシトラスの香りだけが鮮明に残っていた。

冬の朝の空気のように鋭く、それでいてどこか熱を帯びた、矛盾した香り。
その香りが、彼が放った『思考の連続性の阻害』という、あまりにも淡々とした拒絶を、いつまでも耳の底で鋭く響かせた。

(……怖そうな人。私なんて、この人から見たら便利なモノですらないのかもしれない)

だけど。
紺色のジャケットの裾をぐっと引き下げ、私は自分の席へと戻る。

(一人で生きていくって決めたのは私だから)

かつての派遣先で押し付けられた責任。
会社のトイレで声を殺して泣いた記憶。
そんな理不尽から身を守るために。
(不具合なんて絶対に起こさない。誰にも文句を言われない、完璧な部品になってやる!)

パソコンの電源を入れると、デスクトップに新しいフォルダーを作成した。
名前は、『業務記録』

それが、この透明な壁の中で私が生き残るための、唯一の戦い方。
ただ正しく、静かに。
私はキーボードへと指を置いた。

――この時の私は、まだ知らない。

ただの「モノ」として生きようとした私が、やがて。
一切の感情を排除して生きるあの人の理性を、根こそぎ奪い去ってしまうことになるなんて。
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