切愛、あるいは独占 ~『不感症の神様』と呼ばれた42歳のエリート上司は、派遣の私にだけ42年分の「欲」と「愛」を溢れさせる~

結城ろか

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第1章【派遣社員の壁とシトラスの予感】

07 打算なき気遣いと緻密な武装 | 計算外の誠実な背中【宇佐美】

俺がホワイトボードの件で沈黙していると、三井さんは何かを思いついたように「あっ!」と小さく声を漏らした。
それから、頭上で電球が点灯したかのような、実に分かりやすい『ひらめき』の表情を見せてこくりと深くうなずいた。
どうやら彼女の中で、俺の不機嫌に対する何らかの解決策が導き出されたらしい。

彼女は一度フロアの隅へ消え、数分後に湯気の立つ紙コップを俺のデスクへと運んできた。

「宇佐美さん、これ。お目覚めにどうぞ。緑茶ですけど、カフェイン入ってますから」

視界に置かれたのはコーヒーマシンの横に山積みされている、あの安っぽく無機質な紙コップだ。
だが、最適な温度で淹れられたその液体を見た瞬間、俺の思考回路に予期せぬノイズが混入した。

この会社の女性社員たちはプライドが高く、自らの業務を「専門職」と定義している。
お茶を淹れるなどという雑用は、彼女たちの価値を損なう「無意味な労働」であり、それはこの会社、ひいてはこの業界全体の共通認識として定着していた。
そして、俺もまたそれを当然の秩序として受け入れてきた。

社内で、誰かが俺のためにお茶を淹れる――。
この殺伐とした戦場で、そんな非効率かつ純粋な「気遣い」を向けられたのは、これが初めてだった。

「……わざわざすまない」
俺が短く礼を言うと、彼女はさらに縮こまるように肩をすくめた。

「いえ、先ほどは鼻歌なんかで起こしてしまって本当にすみませんでした。……お疲れ様です」
「……あ。いや……」

想定外の直球の謝罪に、俺は気の利いた返答もできずただ曖昧に声を濁す。
掃除の手伝いを終え、緑茶という予期せぬ「燃料」を供給してくれた三井さんは、ペコリと頭を下げて自分の席に戻った。
まだ始業時間には早すぎる時刻だが、彼女はパソコンを立ち上げまるであらかじめ組まれたルーチンを消化するかのように、一心不乱にキーボードを叩き始める。

彼女が淹れたお茶を一口啜った。
安物のはずの茶葉が驚くほど滑らかに喉を通る。

***

俺は溜まっていた資料の束を手に取り、コピー機へと向かった。
コピー機はフロアの奥にあり、その動線上で彼女のデスクの真後ろを通ることになる。

普段なら誰が何をしていようと関心はない。
しかし、先ほど受け取った「イレギュラーな親切」が俺の脳内に『三井ゆこ』という特異なデータフォルダを作成させていた。

何気なく彼女の背後を通りがかった瞬間、モニターに映し出されていたのは作成途中のドキュメントウィンドウだった。
画面上部のタイトルバーには、――『業務記録』と記されている。

(……作業日報か?)

派遣の彼女にそんな義務は課していない。
盗み見るつもりはなかったが、職業柄、鍛え上げられた観察眼がその画面を埋め尽くす情報の密度を瞬時に捉えた。

そこに並んでいたのは、単なる備忘録の羅列ではなかった。
ページを構成する整然と構造化された見出し。
重要度によって色分けされた項目。
そして、チャット画面のキャプチャ画像には注意すべきポイントが鮮やかな赤線で注釈されている。
画面をスクロールする一瞬の動きの中で、俺の目は『外部連絡先』『社内フロー』『トラブル回避』といったセクションが驚くほど合理的に整理されているのを見逃さなかった。

入社してわずか1か月。
彼女はこのカオスな現場を自分なりに独自のサバイバル・ガイドとして体系化していたのだ。

(……なるほどな。彼女は『完璧』を目指しているのか)

誰からも瑕疵を指摘されない、代替不可能な歯車として機能すること。
この過酷な戦場で生き残るために、彼女は独力でその精度を研ぎ澄ましている――。
そう解釈すれば、この過剰なまでの労力にも論理的な説明がつく。

それは外部リソースに期待される範疇を大きく逸脱した、過剰なまでの誠実さだった。
俺が今まで出会ってきた多くの『有能な正社員』たちよりも、彼女の方がずっと仕事の本質――つまり、不確実性の排除を理解している。

要領が悪い、と思っていたのは俺の誤解だったようだ。
彼女はただあまりにも不器用で、あまりにも誠実なだけなのだ。

それ以来、俺の視線は無意識に彼女を追うようになった――。
フロアの隅で、定規で引いたような真っ直ぐな背筋でキーボードを叩く、あの細い背中を。

その後に起こる「事件」で、彼女がどれほどの不利益を被ることになるのか。
そして、その不合理な事態に対して俺自身がどれほど理性を欠いた行動に出るのか。
この時の俺はまだ、知る由もなかった。
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