切愛、あるいは独占 ~『不感症の神様』と呼ばれた42歳のエリート上司は、派遣の私にだけ42年分の「欲」と「愛」を溢れさせる~

結城ろか

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第1章【派遣社員の壁とシトラスの予感】

01-08 理不尽な見積書と歪められた真実

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宇佐美さんに掃除を見られてから、数日後。

「三井さん、私これから営業と一緒に客先に行くから、代わりにこれお願いね」
私のデスクにやってきた佐藤さんの声に顔を上げる。

女性らしいラインが素敵なスーツ。
耳元で揺れるピンクゴールドのピアス。
手入れの行き届いた指先を彩る繊細なネイル。
そのすべてが派遣社員の私には、決して手が届かない「正社員」という身分を象徴しているようで、自分だけがひどく惨めな存在に感じられた。

「10時半にA社から電話があるから、この見積書の内容を伝えて。三井さんのステップアップのためにあえて任せるんだから。頑張ってね?」
「わかりました」

こちらの承諾など最初から予定調和だと言わんばかりに、彼女は流れるような動作で背を向けた。
残されたのは、遠ざかっていく軽快なヒール音だけ。
卑屈になりそうな自分を心の中で叱り飛ばし、渡された見積書を『業務記録』に入力する。
「頼まれごとは信頼の証」と、ネットには書いてあった。
この「記録」が、いつか私の正社員登用への武器になると信じて。

***

午前10時半を少し過ぎた頃、約束の相手から電話がかかってきた。

「いつもの人と違うね。でも見積りも安くなってるし、対応も良くて助かるよ。ありがとう」
電話越しの感謝は、どんよりとした曇り空の隙間からわずかにこぼれ落ちた陽光のように私の心を照らした。

(真面目に仕事をしていれば、きっと誰かが見てくれる)
さっきまでの惨めさは消え、頑張れば報われるという前向きな気持ちへシフトチェンジするにはそれで十分だった。

けれど、その希望は午前11時過ぎに彼女が戻ってきた瞬間、粉々に砕け散った。

「これ、B社の見積もりじゃないか! なんでA社にB社の特別単価を提示したんだ!」
フロアに響き渡る男性社員の怒鳴り声に、佐藤さんは顔を引きつらせる。
見積書の渡し間違いだと、彼女自身が気づいたのがわかった。
でも彼女が私に向けたのは、どこまでも哀れみを含んだ視線。

「えっ、嘘でしょ、三井さん。私、ちゃんとA社の見積書を渡したよね?」
「私はいただいたものを……」
「ああ、ごめんね。私の教え方が悪かったかな。三井さん、もしかして慣れない仕事でパニックになって、共有フォルダの別のデータを勝手に印刷しちゃった?」

彼女は「私の不徳の致すところです」という顔で男性社員をなだめ始めた。
「すみません、彼女も一生懸命なんです。正社員になりたい一心で、つい空回りしちゃったみたいで。私からもよく言っておきますから」

「まあ、派遣さんに正社員並みの責任感を持てなんて言わないけどさ。正社員になりたいからって、勝手に判断してフォルダをいじくり回すような真似はしないでよ。僕らの仕事を増やさないのが、君の唯一の役割なんだから」
呆れ顔の男性社員の言葉が刃となって突き刺さる。

私には『業務記録』という証拠がある。
なのに、かつて派遣先で正論を言った瞬間に切り捨てられた記憶が私の喉を塞ぐ。
ここで反論すれば、私は「善意で守ってくれた正社員に泥を塗る、恩知らずな派遣」に仕立て上げられてしまう。

(私が間違ったわけじゃない。絶対に)
出かかった言葉をグッと堪えて頭を下げた。
「……今後……気をつけます」

「三井さん、次は気をつけてね。あなたの将来のために言ってるんだから。スタンドプレーは派遣の評価に響いちゃうよ?」
追い打ちをかける佐藤さんの冷ややかな一言。

ミスをすれば「派遣だから」と人格まで否定される。
その理屈が通ってしまうこの場所の空気が、涙が出るほど悔しい。
悔しいけど、今の私にできることは感情を殺して頭を下げることだけだった。

席に戻り、言うことを聞かない指先を無理やり動かしてキーボードを叩くふりをしていると、隣の席から吉田さんがそっと声を落としてきた。
「ドンマイ! 見てる人は、ちゃんと見てるわよ」

誰にも悟られないほどの密やかな励まし。
彼女はいつもの飴をデスクの境界線を越えて、そっと私の手元へ滑らせた。
殺伐としたオフィスの中で、その小さな包みの色彩だけが今の私には唯一の体温のように感じられた。
この職場で、私を記号ではなく対等な人間として扱ってくれるのは彼女だけかもしれない。

「ありがとうございます……」
たった一人、味方がいてくれる。
そう思うと、鼻の奥が熱くなった。
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