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第25話 気持ちの重み
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三か月も前から、待ちに待った土曜日。
二十五歳の、誕生日。
友達から、おめでとうのメッセージがSNSで入ってくる。
今日この日。
まさか、こっちにいることになるとは。しかも土曜出勤なんかになってしまうとは思わなかったな。
そんな風に思いながら、仕事に出かける準備をする。今日は、取引先の会社に訪ねていくので、適度に綺麗めな格好を選んだ。
ベージュの半そでブラウスに、ネイビーのタイトスカート。ジャケットを着る前に、小ぶりなパールのピアスを耳につけて、腕時計のベルトを留めた。細いプラチナのチェーンのネックレス。派手じゃなく、でも少しだけ気持ちも上がる。
髪だけは、どうしても縛りたくなくて。今日はまっすぐに整えたストレートのまま家を出た。……許されるだろうか。一応まとめられるように留め具はバッグに入れてあるけれど。
桜木さんと待ち合わせの駅のロッカーにボストンバッグを詰め込んだ。早く帰ってこれますように、と祈るようにロッカーを閉めてから集合場所で桜木さんを待つ。時間より早く、桜木さんは現れた。
四十代、まだ若いけどすごく仕事ができると評判だし、コミュニケーション力が高い。短く整えた髪に、切れ長の目。スーツを着ていると、無駄のない体つきがそのまま形になって、カッコいい人だと思う。声は低くて静かで、ひとこと話すだけで場の空気が締まる。
当然モテてるけど、既婚者。浮気とかしそうにない雰囲気もまた余計人気がある。
「おはようございます」
「ああ、木内さん、おはよう。すまないね、土曜に」
「いえ。大丈夫です」
「行こうか。徒歩五分くらいだ」
「はい」
笑顔で答えて、歩き出したら、桜木さんがふと私を見つめた。
「髪をおろしてるのは初めて見た気がするな」
「あ。やっぱりまずいですか?」
焦って聞くと、「いや」と彼は言った。
「そのままで大丈夫。本当は休日だしね――それより、木内さん、雰囲気が変わったね」
「――そうですか?」
「うまくいえないけど――大人っぽくなった、かな。いい意味でね」
桜木さんは、ほんの少し、口角を上げて、笑う。落ち着いた声が、心の中にすっと落ちてくるみたい。
「……ありがとうございます」
少しだけ視線をそらすと、彼は「うん」と短く頷き、またいつもの冷静な表情に戻った。
取引先に着くと、社長さんは「久しぶりだね」と歓迎してくれた。
人の良いおしゃべり好きなおじさんなんだけど。まあ仕事の話になると、いろいろ細かいこともある。
でも今日は桜木さんと一緒だから、大丈夫かな。というより、大丈夫であってほしい。
社長さんの機嫌は良かったけど、話の流れ的にどうなるかは読めなくて、心臓がずっと落ち着かなかった。
資料の説明をしたり、必要な数字や資料をその場で提示したりと、あっという間に時間は過ぎて行った。
話がまとまって、桜木さんと社長さんの最後の握手の瞬間、やっと終わった。と思いきや、社長さんから、昼食に行こうという流れになりかけて、焦った瞬間。
桜木さんが落ち着いた声で言った。
「木内は、今日は午後から私用がありまして。今日は社長との打ち合わせをスムーズにに進めるために、無理を言って来てもらったんです。本日の案件はここで区切りになりますので、木内はここで失礼させてください。私は時間がありますので、ぜひご一緒させてください」
静かだけれど、はっきりとした声だった。社長さんは一瞬きょとんとして、すぐに。
「そうなんだ。残念だけど――木内さん、来てくれてよかったよ。とてもスムーズに話が進んだからね」
と笑ってくれた。その瞬間、体の奥の緊張が、やっと解けた。
ありがとうございます、と伝えて、片付けている時。
「少し待ってて。店を取ってくるから」
そう言って、社長さんがすぐに電話を始めながら、部屋を出て行った。
桜木さんと二人になってすぐ、私は頭を下げた。
「桜木さん、ありがとうございます」
心から洩れた言葉に、桜木さんは、ふっと目元を緩めた。
「――君の後輩の子がね」
「……?」
「あの、元気な子。昨日わざわざ声をかけてきてね。どうしてもどうしてもお昼前に帰してあげてほしいんですって。先輩はそのために三か月頑張ってきたので、って、なんだか泣きそうな顔で言われてね」
少し笑いながら言うその声に、胸の奥が熱くなる。――愛梨さんだ。
「それを聞いたら休ませてあげたかったんだけど――でも本当に、来てくれて助かったよ。何かまでは聞いてないけど、とにかく、頑張っておいで」
書類をまとめながら、ふとこちらを見て桜木さんはくすっと笑う。
愛梨さんにも。桜木さんにも。
伝えたい言葉がありすぎて、声が震えそうになる。
「……はい。ありがとうございます」
挨拶をして、会社を出ると、世界が急に明るく見えた。
駅まで急いで、途中のベンチに腰を下ろし、新幹線の予約ページを開く。
指先が、なんだか震えているような気がする。
一番早い新幹線を予約してから、駅のロッカーに預けていたボストンバッグを引っ張り出した。
持ち上げると、その重みが、なんだか胸に響いた。
三か月分。
違う、七年。
違う。
――二十五年分の気持ちが詰まってるような、気がして。
二十五歳の、誕生日。
友達から、おめでとうのメッセージがSNSで入ってくる。
今日この日。
まさか、こっちにいることになるとは。しかも土曜出勤なんかになってしまうとは思わなかったな。
そんな風に思いながら、仕事に出かける準備をする。今日は、取引先の会社に訪ねていくので、適度に綺麗めな格好を選んだ。
ベージュの半そでブラウスに、ネイビーのタイトスカート。ジャケットを着る前に、小ぶりなパールのピアスを耳につけて、腕時計のベルトを留めた。細いプラチナのチェーンのネックレス。派手じゃなく、でも少しだけ気持ちも上がる。
髪だけは、どうしても縛りたくなくて。今日はまっすぐに整えたストレートのまま家を出た。……許されるだろうか。一応まとめられるように留め具はバッグに入れてあるけれど。
桜木さんと待ち合わせの駅のロッカーにボストンバッグを詰め込んだ。早く帰ってこれますように、と祈るようにロッカーを閉めてから集合場所で桜木さんを待つ。時間より早く、桜木さんは現れた。
四十代、まだ若いけどすごく仕事ができると評判だし、コミュニケーション力が高い。短く整えた髪に、切れ長の目。スーツを着ていると、無駄のない体つきがそのまま形になって、カッコいい人だと思う。声は低くて静かで、ひとこと話すだけで場の空気が締まる。
当然モテてるけど、既婚者。浮気とかしそうにない雰囲気もまた余計人気がある。
「おはようございます」
「ああ、木内さん、おはよう。すまないね、土曜に」
「いえ。大丈夫です」
「行こうか。徒歩五分くらいだ」
「はい」
笑顔で答えて、歩き出したら、桜木さんがふと私を見つめた。
「髪をおろしてるのは初めて見た気がするな」
「あ。やっぱりまずいですか?」
焦って聞くと、「いや」と彼は言った。
「そのままで大丈夫。本当は休日だしね――それより、木内さん、雰囲気が変わったね」
「――そうですか?」
「うまくいえないけど――大人っぽくなった、かな。いい意味でね」
桜木さんは、ほんの少し、口角を上げて、笑う。落ち着いた声が、心の中にすっと落ちてくるみたい。
「……ありがとうございます」
少しだけ視線をそらすと、彼は「うん」と短く頷き、またいつもの冷静な表情に戻った。
取引先に着くと、社長さんは「久しぶりだね」と歓迎してくれた。
人の良いおしゃべり好きなおじさんなんだけど。まあ仕事の話になると、いろいろ細かいこともある。
でも今日は桜木さんと一緒だから、大丈夫かな。というより、大丈夫であってほしい。
社長さんの機嫌は良かったけど、話の流れ的にどうなるかは読めなくて、心臓がずっと落ち着かなかった。
資料の説明をしたり、必要な数字や資料をその場で提示したりと、あっという間に時間は過ぎて行った。
話がまとまって、桜木さんと社長さんの最後の握手の瞬間、やっと終わった。と思いきや、社長さんから、昼食に行こうという流れになりかけて、焦った瞬間。
桜木さんが落ち着いた声で言った。
「木内は、今日は午後から私用がありまして。今日は社長との打ち合わせをスムーズにに進めるために、無理を言って来てもらったんです。本日の案件はここで区切りになりますので、木内はここで失礼させてください。私は時間がありますので、ぜひご一緒させてください」
静かだけれど、はっきりとした声だった。社長さんは一瞬きょとんとして、すぐに。
「そうなんだ。残念だけど――木内さん、来てくれてよかったよ。とてもスムーズに話が進んだからね」
と笑ってくれた。その瞬間、体の奥の緊張が、やっと解けた。
ありがとうございます、と伝えて、片付けている時。
「少し待ってて。店を取ってくるから」
そう言って、社長さんがすぐに電話を始めながら、部屋を出て行った。
桜木さんと二人になってすぐ、私は頭を下げた。
「桜木さん、ありがとうございます」
心から洩れた言葉に、桜木さんは、ふっと目元を緩めた。
「――君の後輩の子がね」
「……?」
「あの、元気な子。昨日わざわざ声をかけてきてね。どうしてもどうしてもお昼前に帰してあげてほしいんですって。先輩はそのために三か月頑張ってきたので、って、なんだか泣きそうな顔で言われてね」
少し笑いながら言うその声に、胸の奥が熱くなる。――愛梨さんだ。
「それを聞いたら休ませてあげたかったんだけど――でも本当に、来てくれて助かったよ。何かまでは聞いてないけど、とにかく、頑張っておいで」
書類をまとめながら、ふとこちらを見て桜木さんはくすっと笑う。
愛梨さんにも。桜木さんにも。
伝えたい言葉がありすぎて、声が震えそうになる。
「……はい。ありがとうございます」
挨拶をして、会社を出ると、世界が急に明るく見えた。
駅まで急いで、途中のベンチに腰を下ろし、新幹線の予約ページを開く。
指先が、なんだか震えているような気がする。
一番早い新幹線を予約してから、駅のロッカーに預けていたボストンバッグを引っ張り出した。
持ち上げると、その重みが、なんだか胸に響いた。
三か月分。
違う、七年。
違う。
――二十五年分の気持ちが詰まってるような、気がして。
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