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⌘第二幕⌘ 恋と留学編
第五夜 再会ノ螢祭リ
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太陽の光がキラキラ輝いて、雨上がりの洗い立ての朝。
一夜明け、昨晩の出来事が無かったかのように憂は振る舞っていた。
『おはようございます、稔くん』
『ん……あれ、起きてたの』
昨晩、詩經から告げられた言葉は彼女の心に深い傷を負うものだった。憂は𧲸革の血筋であること。稔が彼女の体調を気遣って宿に泊まった昨日、彼女は確かに取り乱していた。それを宥めるのに時間を要したが、精神的休息を必要としていたのであろう彼女をベッドで寝かすなり直ぐに眠ってしまったのだ。
そして次の日ベッドから起き上がった彼女はソファに寝ていた稔に普通通りに声をかけていた。
『ごめんなさい、すっかりベッドで寝させてもらって……』
『別にそれぐらい…』
𧲸革に連れ帰ってきた時の憂は普通通りだった。道中で稔から屋敷の皆が心配していたことを聞いた憂は屋敷に戻るなり謝罪を述べていた。
『千夜子さん、慶三様。ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。』
『憂さん、心配しましたよ。』
『うむ、よく帰ってきた』
千夜子と慶三に労わるように言葉をかけてもらって直後、顔を上げた憂は拍子抜けするほど普通だった。お使いが中途半端になってしまったことと帰りが遅くなってしまったこと、なにより心配をかけてしまった事実による反省の色は確かにあって、表情に翳りがあるのも稔は見逃さなかった。
ーその一件から暫く経った、とある日の午後、憂は千夜子に渡された巽からの手紙を受け取った。
『お手紙ありがとうございます』
いままでは巽からの手紙が来ただけで舞い上がっていたというのに、今回の彼女に関しては、どこか懐かしむような切なそうな表情だ。あの話を聞いたあとで無理もないだろうとは思うが、その様子を見て稔は居た堪れない気持ちになったという。
『読んできてもいいわよ』
『はい……っ』
あの夜会の夜に巽が父親である慶三に大々的に憂を妻にと宣言した事で千夜子も二人の仲は理解していた。だからこそ手紙が来たら一番最初に憂にその手紙を渡してくれる。𧲸革での生活も慣れて掃除や裁縫も料理も花道も茶道も全てを叩き込まれている日々だが、そのご褒美とも言うように千夜子はその手紙を読む時間だけ余分に取ってくれるのだった。
巽が留学してからというもの、二人はずっと手紙のやりとりをしていた。外国での生活は慣れないことばかりだけど沢山の事を学べている事、新しい友人も出来た事。日本よりも発展しているその場所は医学も進歩している。先進的な教育をしているということも毎回のように変化する日常を伝えてくれる。それが楽しみで仕方がなかったのは彼女の胸の内での秘密で。
それに増し加えたように今回の手紙は少し違っていて、とある一文に目が止まる
ー螢祭りの日一時帰国するー
その一文に胸がドキリと跳ねた。嬉しさと緊張、両極端な気持ちが胸の中で鬩ぎ合っている。巽と会いたい。しかしあの話を聞いてどんな顔をすれば良いのか解らないのもまた本音だった。
『帰って……くる?』
嬉しいと感じるのも、会いたいと思う気持ちも全てが本物であるのに詩經の言葉に惑わされてしまっている。
ー𧲸革巽はお前を騙しているー
ーお前は𧲸革の血筋ということだー
あの時に聞いた詩經の言葉が脳裏に反響して頭が痛くなる。手紙を膝の上に置いて思わず外部からの音を遮断するよう耳を塞いだ。憂はあの時、詩經から出生のことを聞いた直後から、幼い頃の記憶を少しずつ取り戻していた。
『…巽くん、…貴方は知ってるのかな、あの時の女の子が私だって……』
まだ幼い頃に遊びにいっていた綺麗な庭と屋敷。そこに必ずいた男の子、癖毛の可愛らしい男の子だったのを思い出したのは詩經を追いかけたあの日だ。貂革巽だよと自分の名前を嬉しそうに伝えてくれたのも思い出した。
巽の前から消えてしまったあの日は雪の日だった。十二月二十六日、少女の人生が一転した日……優しい嫋やかな女性がそばに居た。時々連れていってもらえた町のお店では、一歳ぐらいの時に亡くなったらしい母だった人にそっくりだと幾度も言われた。その日は外出して祝ってもらったあとだった。真っ白な大きなお屋敷……綺麗な庭。その時は雪景色で、まるで雪のお城だと思っていたのが懐かしい。
『あれは……𧲸革のお屋敷だったんだ…あの人、綺麗な人は誰だったのかな』
輪郭がふんわりしてて思い出せないが、幼い時の記憶だけ辿るなら、その人だけはとても優しかったのは確かに覚えていて、何度も聞かされた。『憂ちゃん?貴女のお母様はね貴女のことをとても大切にしていたわ。』その言葉を胸に生きていた。しかし……その人の行方はもう解らない。生きているのか……死んでしまっているのか……。
ー深呼吸をして立ち上がり、巽からの手紙を手に仕事に戻った。
『……憂、ちょっといい?』
そして、数刻が過ぎ庭先で仕事をしていると、大学から帰ってきた稔が掃除している憂に声をかける。
『稔様お帰りなさいませ』
『ただいま、また稔様になってるけど』
『お仕事中なので』
稔様と呼ばれるのは慣れているが、逆にそれが面白くない。稔自身が捻くれているのは重々承知していたので、まるで子供の癇癪のように憂の両頬をつまみ引っ張った。
『ひや、いです……』
『変な顔、オマエ無理してない?』
それは稔から見た憂の纏う空気感。本人はそう思っていなくても、側から見れば無理しているのは明白だった。それをうまく促して気持ちを吐き出させてあげたいのに、そう上手くはいかないから困る。
『しへなひですよ……!』
喋れませんと抗議の眼差しを稔に向け、眉間に皺寄せて微妙な表情を浮かべる憂に悪戯心が掻き立てられ、稔は空いている方の手で彼女の細腕を掴み引き寄せ見つめた。どこまでも深い真紅の瞳は稔を映していた。それがとても嬉しいと感じてしまう自分の心に戸惑いを覚えた。その瞳に映るもの全ては何を想い感じ取るのか。そして巽がいなくなってから接することが多くなったことで彼女の人となりが見えてきて、努力家なところは評価できるしドジなところもあるけれど笑顔が可愛い。なんて、そんなことを思う日々も増えてきた。吸い寄せられるように目の前の少女の唇を奪ってしまいそうになるところで我にかえる。
『……変な顔』
それだけ言葉をつないで距離を置いた。引っ張っている頬はそのままに彼女の訴えを受ける稔は理性で己をとどめたのだ。憂は巽の婚約者で自分とはどう転んでも結ばれない存在だと……それを頭で復唱した時に、ああ自分は彼女のことを少なからずとも想っているのだと自覚してバツの悪そうに表情を濁らせた。憂は頬を引っ張られたまま、大丈夫ですからと言葉を紡いだ様子ではあったが、稔が思うにそれは間違いなく憂の嘘だった。
ー……時が経つのは早いもので、じっとりと湿気に悩ませられる初夏、あれから一ヶ月あまりが過ぎようとしていた。時は六月も差し掛かる頃、憂の様子も稔の様子もさして変わることなく毎日を過ごしていたのだが、今日は巽が一時帰国する日となったのだ。
𧲸革は朝から大忙しであり、茶道の準備や来賓へのもてなしで忙しなく動いている。台所で配膳準備を指示していた千夜子が憂に声をかけた。
『憂さん、あなたは巽様の婚約者ですから本日の催しは将来の奥方様として紹介されて初めての公共の場、巽様と一緒にいるべき日です。私が着付けをさせていただきますわ。さあ、お部屋へ』
今日は𧲸革の次期当主が屋敷に戻ってくる日だ。それならば巽にとって未来の妻となる憂は一緒にいるべきであり、巽の仕事を手伝う側に居て然るべき存在である。上等な着物を身に纏い、涼しげな和花で彩る簪で髪を束ねられ、たちまち気品溢れる姿に変わる。涼しげに着付けされたその姿は庭に咲く紫陽花のようだ。
憂の準備が終わって直後、𧲸革の玄関が慌ただしくなる。
『巽様、お帰りなさいませ』
屋敷の女中達が一斉に声を上げて𧲸革の次期当主の名前を呼んだ。
千夜子が先導し憂の手をとって部屋から出てきた直後のことだった。
『巽くん……』
帰ってきた巽を視界に映した憂は体中の熱が沸騰するかのように歓喜に満ち溢れて思わず涙腺が緩んでしまう。息を呑んで口元に手を当てた憂の姿に巽も一早く気づいた。
『憂…!』
どんなに会いたかった人。目の前の紫陽花の着物に身を包んだ愛おしい人、荷物を預けてすぐに彼がとった行動は彼女を抱きしめるという事。
『すごく綺麗だよ……、少し痩せたんじゃない?』
離れて約四ヶ月ぶりの再会に胸が躍る。線の細い頬をそっと撫で、久しぶりの恋人の温もりを感じながら幾分か痩せたような気がする彼女を気遣い巽が声をかけると、その温もりは手から離れて恭しく少女は首を振った。
『そんなことないよ、大丈夫』
『……そう』
ふつりと沈黙が訪れ、その沈黙を破ったのは千夜子の声だ。
『巽様、長旅ご苦労様でした。早速ですが準備のご支度を』
『ああ、そうだね。憂…またあとで』
『…はい行ってらっしゃいませ』
憂の異変にあの巽が気づかないはずがないのだ。憂と離れた後の巽の瞳は物悲しげで寂しそうだった。
『𧲸革主催の螢祭りに今年もよく来てくれた。この祭典は𧲸革の和庭園に螢を放し、夏の訪れを感じながら茶を嗜むというものだ。今宵茶を立てるのは、わしの倅。次期当主巽により振る舞わせてもらう。庭に出ても良し、裏の川辺へ出ても良し、螢の光に照らされた一夜を楽しんでくれ』
𧲸革の当主が挨拶をする。それが始まりの合図で庭師や運転手や手伝いとしてその場にいる男手が市場で手に入れてきたらしい螢を一斉に離す。その光や壮観なりで、綺麗に剪定され整えられた和風庭園によく映える黄緑色の淡い光はその場にいる人々に安らぎと夏の訪れを連れてきたのだ。
ー巽がお座敷に上がり、憂もまた巽の横に座る事となって茶菓子の用意を手伝ったりと今まで叩き込まれた作法にのっとり来賓に振る舞う。その手捌きには巽も驚いており、もちろん稔やその場にいた者全てが憂の流れるような動作に釘付けであった。
それは巽も例外ではなく、𧲸革から離れ四ヶ月程しか経っていないというのに空白の数ヶ月がとても大きなものに感じるほど、彼女の成長は目覚ましい。もともと憂は人目を惹きつける容姿であったが、それだけでなく、その努力を見て周りの見る目も変わってきていると解った今、純粋に誇らしかった。
その中でも一番驚いた出来事が、座敷に上がっていた稔が巽のお茶を飲み終えてから作法に則り一呼吸つくと緩やかな空気の中で自然に憂と会話をしている事だ。二人の仲が近くなっているのは目に見えて解るからこそ少しだけ弟の稔に嫉妬していた。例えば今日の彼女の様子は巽が留学する前とは明らかに違う。どこか巽に遠慮しているような、避けているような雰囲気を持ち合わせていた。しかし稔に対してはどうだろう?普通通りである。
以前、稔から来た電話に関係があるのかと推測してみても、理由は解らないままで、やがて宴もたけなわとなってきた頃、来賓も疎になって巽と憂は二人になった。静寂が辺りを包む頃、ただ螢の光と月夜に照らされた座敷は二人の微妙な距離感を影とし映していた。
『憂……』
『な、に?』
『憂はさ、俺のこと…好きだよね』
『!!?』
改めて向かい合って二人で見つめ合うこと数秒、そんな沈黙を破ったのは巽だった。今日一日これといった会話を交わす事が出来なかった中で、ただ一つはっきり聞きたかった言葉を正直に問いただしてみると、目の前の憂が顔を真っ赤にして視線を外したのだ。その反応を巽が見逃すわけもない。沈黙が辺りを包むより早く、巽は憂の体を抱きしめた。
『っ……』
『その反応…それってさ嫌われてないってことだよね?』
『……!!嫌ってるわけない!そんな…、そんなこと言わないで』
それだけ言った憂の言葉が何処か悲しそうにも聞こえて、どうして彼女はそんな事を言うのだろう?と頭をフル回転してみても結局は憂自身のことは憂にしか解らない。
先程までの態度の理由、それに関係しているのだろうか、もしくは何か思うところがあるのだろうかと巽の直感が冴える。抱きしめられて震える憂の肩を引き寄せて腕の中彼女を抱き留めた
『よかった…俺、嫌われてなかったんだ』
『巽…く…』
『巽だよ…憂』
ー巽くん……他人行儀のような呼び方を許さないと言うように、少女の言葉を遮って唇に唇を重ねた。頬を伝う少女の涙が綺麗だと柔らかな頬を手の甲で撫でて涙を拭う。
『どうして泣いてるの?』
『だっ…て、巽……が……優しいから……』
真紅の大きな瞳が潤んで吸い込まれそうな気さえする。それだけ巽の中で憂は大きな存在で、何かに悩んでいるのなら力になりたいと…それが例え二人の妨げとなる事だったとしても自分だけは彼女のそばにあり続けよう。そう決めた巽の決意は半端なものではないと言葉が、瞳がそう言っていた。
『憂は…泣き虫だな、全部話して、何があったの……?』
優しく憂の肩に手を置いて言葉の続きを促すように巽がそう述べると、重苦しい空気が溶けていくように堰を切って言葉が溢れ出した。
『先見ノ華……この力は、𧲸革の血筋に発現するものだと聞いたの、巽が…それを知っていると』
『…𧲸革の、血筋……』
ー𧲸革と先見ノ華の恩恵は切っても切れないものなのかも知れないなー
それは留学前、𧲸革に詩經が侵入したあの夜会の次の日に慶三から聞いた言葉だ。巽はその言葉を考えあぐねていたのだが、𧲸革の血筋に発現するものだというのは巽も初耳のことだった。
『だから…巽が私のこと騙してるって……私が𧲸革の子だって知ってるのかもって……でも、わからない…巽がくれた言葉も想いも全部……嘘だとは思えない……だから……!』
『それで…?』
『巽とは…結ばれない方がいいのかも…って』
𧲸革の血筋…どこで生まれてどこで育ったのか。しかし確かに先見ノ華は少女の身に宿ってる。巽と血が繋がっている……それが遠縁なのか近縁なのかは未だ知る由もないが、昔と違い近年の日本では縁者同士で婚姻を結ぶことは、だいぶ少なくなった。だからこそ、その殻にとらわれて結ばれるなど巽に申し訳ないと思ったのだ。
そして、どうしても巽が自分に嘘をついて騙しているなど思えないと言葉を添えて自分の思いを伝えると、その唇を塞ぐように巽の人差し指が彼女の淡く色づいた唇に当てられた。彼の瞳は何処か切なげに優しく温かな色をしていて憂の瞳を映している。
『俺はね…嬉しかったよ。その事が聞けて…』
『嬉しかった…?…っ』
『だってそれ……もう運命だよね、俺と憂は生まれる前から繋がってたと思ったら…俺はね、憂が𧲸革の血の子だっていうのは知らなかったよ。𧲸革に近しい存在に先見ノ華が有るっていうのは父さんから聞いてて知ってた……でも、それ抜きにしても俺は憂が憂だったから好きになった。』
巽の唇が憂の唇に重ねられた。不意打ちに温もりを与えられた唇に驚きを隠せないけれど、その熱はすぐ遠のいて、代わりに額同士が触れ合った。間近で息づく巽の優しさに瞳が潤む。なんて愛おしい人。そう思えるほど人生で今一番、少女は𧲸革巽という青年に恋焦がれた。
『そんな…でも私、どこで生まれたかも解らないんだよ……』
『それでも……。そうか、だから……かな』
『…?』
『憂は覚えていないかもしれないけど、あの時から憂のこと気になってたんだ。名前も知らない女の子……稔は体が弱くて外に出られなかったから知らなかったけど屋敷に来て短い時間だけ俺と遊んで帰ってた花のような模様の赤い瞳を持った不思議な子…』
それは、とある冬の日にぷつりと無くなってしまった小さな逢瀬。
『……!!それ……!』
『あの日…雪の降るあの日。十二月二十六日、俺の誕生日いつもみたいに庭でその女の子を待ってた』
ー……十年前
『ねえねえ、君の名前おしえてよー!たくさん遊びに来てくれてるのに、名前しらないのも変だよ』
『……え、あ…だめって言われてる……お爺さまに』
『ええー!じゃあおれ、君の名前よべないじゃん。んーじゃあ、お花ちゃんって呼ぼう』
『お花ちゃん?』
『だって、花みたいな模様の綺麗な目してるもん。おれね、明日誕生日なんだ!』
『お誕生日?…そうなんだね!!私も同じなんだよ!いつもね、お祖母さまが町に連れて行ってくれるの』
『ええ!!ほんとに!?じゃあそのあと2人でこっそりお誕生日祝いしよっか!』
そう約束を交わした。同じ誕生日だなんてそんな偶然あるものか、幼い頃の巽と憂は、ただ2人で会う時間が不思議に特別なものと感じていたのだ。
『ねえ、あなたのお名前なんていうの?私は教えられないけど…教えて?』
『おれ?おれの名前は𧲸革巽だよ!』
ーー……その約束をして、次の日とつぜん君はいなくなった。
次に再会したのは十六の時。喫茶店が開業したと、たちまち町の噂になって、そこで働く不思議な瞳を持った少女に惹かれた。幼い頃の記憶は薄れていたけれど、憂のことだけはしっかり覚えていて、真紅の瞳をもつという女の子がいると物珍しさに騒ぎ立てる学生の噂を確かめようと喫茶店に行った。その時接客をしてくれたのが他でもない憂だった。笑顔の可愛い女の子。ああ間違いなく、あの時の子だと……
『憂は俺のこと覚えていなかったけど、俺は憂を見てすぐに解ったんだ。あの時の女の子だって…だから出会ってすぐに名前を聞いた。』
ーねえ、君の名前なんて言うの?
そして、あの時の少女の名前を初めて知ってから
駒草憂ですー
どんどん好きになった。むしろ今まで眠っていた好きだと言う気持ちが再会したことで溢れ出したというのが正しい。
『俺は幼い頃から憂のことが好きだったんだね……』
『巽…』
『ありがとう、出会ってくれて……ありがとう、俺のことを好きになってくれて……ありがとう、生まれてきてくれて……それを心から伝えるよ』
月明かりの下で誓いの口づけのように巽が憂の手をとって左手の薬指に唇を落とした。尊く綺麗なものに触れるかのように……螢祭りの夜に本当の意味で再会を果たした二人は優しい時間と共に確かな絆を感じ、改めて誓い合ったのだった。
ー螢祭りも終了したその夜。
『憂、眠った?』
『うん…寝たよ』
巽の部屋、扉の前で憂が眠っているのを確認するかのように言葉を紡いだのは稔だった。その返答が返ってくるのに時間はかからずに、同時に巽が部屋から出てくる。目的は𧲸革の書庫だ。憂と改めて誓いを果たした後、巽と憂の2人は庭に出て螢を見ていた。稔がそばに寄ってきて茶室の間で稔と話をしたのだ。
ー数時間前 茶室にてー
『巽…ちょっといい?話がある…』
『うん』
憂が螢に夢中になっているその合間に稔は父親である慶三が隠し事をしている可能性を危惧して巽に話を持ちかけた。それはあまりに衝撃すぎる事実であり、憂と𧲸革の謎についての核心にも迫るものだろう
『まず一つ目…これは実際に書庫に行って自分自身で確かめてほしいんだけど……父さんには兄がいる。つまりボク達の叔父。けどその存在はボクも巽も知らないよね』
『……知らないね何も…。それに、父さんは頑固だし頑なだ。自分の息子にさえ隙を見せない。』
『この真実は𧲸革の歴史目録に載ってたんだけど、ソイツの名前は𧲸革雅良…コイツはボクと巽が生まれる前に𧲸革から追放されてる。』
巽も稔も知らない闇。慶三がその事を話さなかったのは、その男がもう𧲸革とは関係が無くなったからだったのか。
『多分だけど、俺や稔が叔父さんのことを聞いてもあの人は教えてくれない』
『そうだね、隠してたぐらいだし…しかもその𧲸革の歴史目録、書庫の本棚の奥にあった。ご丁寧に南京錠まで掛かって』
『それを解錠したの!?すごくない?』
『…まあ、手当たり次第思い当たる数字を嵌め込んだだけだよ。これ以上のことは、ここでは話せない。父さんの目もあるし…憂も気にするでしょ。あとで巽の部屋行くからその時に一緒に書庫に来て。』
『ん、わかった。あとで』
ーそして今に至るわけだが、その歴史目録は稔が自分の部屋に持ち出していたらしく、一度部屋に戻ってから稔なりに調べた資料も元に本を広げた。
『叔父さんの事はここに書いてある……』
妻を陥れて自殺に追い込んで追放されたこと。また、それだけではなく𧲸革沙羅に手を出した罪も書かれていた。詳細は不明となっている。沙羅自身が混乱により、それを語らなかった為と……
ー巽はそれを読んで言いようのない思いを抱く。誰に対しての怒りなのか、叔父か父親か𧲸革か?それともこの環境か?その中心には間違いなく憂がいる。どう絡んでいるかは知る由もないが、憂も𧲸革の血筋だと……それが本当の話であるなら、彼女は十年あまり何処でどのように生きていたのかと胸が痛む。何も出来なかった空白の十年は巽にとって重たいものとなっていた。
『ねえ、稔…憂が𧲸革の血筋だって、誰が言ったの?』
茶室の会話で、憂が語った言葉が本当なら誰が彼女にそれを伝えたのか。それは憂の口からは聞けなかったけれど稔は知ってるのだろうと予感がした。
『アイツ…詩經だよ、憂はね…乃木園の屋敷に夜会招待された、何があったか…それは伽倻子さんから聞いたんだけど、憂に横恋慕していた男がいて、ソイツと婚約させようとしていたらしい。』
『は!?』
『ちょっと落ち着いて。その話はもう無いけど、その時に憂が危険な目にあって、気絶しているところを詩經に連れられて帰ってきたんだ。』
やはり稔の思った通り、巽の反応は想像していた通りだった。
憂のことになると存外巽は我を忘れるらしい。
『以前、詩經は裏切った憂を始末しようとしていた。にも関わらず、その夜は助けた。どういう事か憂自身が気になったみたいで探しに行こうとしてたんだけど、憂のことを考えたら一人では行かせられなかった。でも、ボクが風邪に罹ったから、しばらくはその話もしなかったんだ。でもあの日…巽に電話した前日、仕事で千夜子と父さんに頼まれごとをされた日、たまたま詩經を見かけたらしいね。そして帰ってこなくて憂を探して見つけた時にはもう…』
『……それで…』
巽は自分が留学していた短い間に起こった事実を改めて知り自分の無力さに打ちひしがれた。しかし考えなくてはいけないのはこれからの事で、無力さに落ち込んでいる場合では無いと文献を読み進めると、先見ノ華のことが書いてあるページがあった。
先見ノ華とは最初の人間の女に与えられた天性だ。
子孫を繋いでその能力も受け継がれるものである。その力を持っている女性、すなわち紅い瞳を持つ。と……
代々その血は𧲸革の血族に現る。先見ノ華と𧲸革の由来…始まりの男の血を𧲸革の男子が色濃く受け継いで、助け手として一人の女性を与えられた。先見ノ能力を持っている女性。それが先見ノ華となる。その血筋を絶やすこと許さず、代々𧲸革当主の血縁同士にて受け継ぐこと。文献にはそう書かれていた。
『父さんが言っていた事と同じだけど…話を聞いた時、父さんはここまで深く知らないようだった。𧲸革と先見ノ華は切っても切れない縁……みたいな事は言ってたし、先見ノ華の能力のことも知っていたけど、もしかしてここまで深く知らないんじゃない?この事実を父さんの代から隠されていたとしたら?』
『じゃあ誰が知ってるって言うのさ、こんな…』
『祖父…俺たちのお祖父様はどうだったんだろう』
巽と稔の祖父。その名……𧲸革銀次
祖母である𧲸革綾子は、先見ノ華をもっていなかった女性であり祖父の妻だった人。その二人も今はもう居ない。
『……その当時に時間を戻すでもしなきゃ無理だね…お祖父様に話を聞くとか、そうでもしなきゃ』
『それだ!』
『え、なに?』
巽は何を思ったのか突然、文献から目を離す。稔の話のどこに解決策を見出したのか。真相を掴むための最善策とでもいうように。
『その当時に生きていた人は居なくても、そこらへんの話を知ってそうな人がいる。いやむしろ当時生きていた人が一人いる。曽祖父様は無理でも、お祖父様の頃なら!』
『……?』
それは𧲸革で昔から働いている女性の事を指していた。
堀宮千夜子。慶三の身の回りの世話を任されている唯一の女中主である。それに続くように稔も一つの名前を出す。自分達では調べる限界がある中で母と父のことを良く知っているであろう人物。
『ああ、それなら…父さんと母さんの事を良く知ってる人もいる。伽倻子さん、あの人にも何か話が聞けるかもしれないね…そう、あともう一つ…母さんの日記だ』
『母さんの?』
一つの和綴じである雑記帳を机の上に置いた。不自然に破れている空白の一年間。
『俺が…生まれる前と、生まれた後の間に破れているページがある?』
『そう、それも何か関係あるんじゃない。』
その資料が揃って改めて、この𧲸革に渦巻く闇を紐解く事で憂が安心できる未来が作れるのならば、なんでもする。それは巽の中で確実に遂行しなくてはいけないものだ。そしていつか紐解ける先にはあの男がいるような気がして巽は視線を蝋燭に向けた。それはあの男、詩經がまるで𧲸革の水面下で小さく灯り、やがて大きくなるであろう火種のようだと。蝋燭から視線を外し、深く溜め息混じりに言葉を吐くと改めてそれが現実味を帯びてきて落ち着かない。
『……憂に接触してる詩經。あいつは何で𧲸革の内情を知ってる?憂の血筋の事も知ってた。それも調べる必要がある』
『うん…』
それは、最初にやるべき情報収集という名の証拠集め。
詩經は何故、𧲸革の事を知っているのか。
母と父の間に何があったのか。
祖父母は先見ノ華の事を父である慶三に何処まで話していたのか、先見ノ華と𧲸革の縁の真相、その大部分を祖父母が隠している可能性があることも。
ー……和やかな優しい雰囲気を彩ってくれていた螢がいつの間にか消えていったように、螢祭りの宴は過ぎ去った。これから進む未来には何が待っているのか……
第五夜
再会ノ螢祭リ 完
一夜明け、昨晩の出来事が無かったかのように憂は振る舞っていた。
『おはようございます、稔くん』
『ん……あれ、起きてたの』
昨晩、詩經から告げられた言葉は彼女の心に深い傷を負うものだった。憂は𧲸革の血筋であること。稔が彼女の体調を気遣って宿に泊まった昨日、彼女は確かに取り乱していた。それを宥めるのに時間を要したが、精神的休息を必要としていたのであろう彼女をベッドで寝かすなり直ぐに眠ってしまったのだ。
そして次の日ベッドから起き上がった彼女はソファに寝ていた稔に普通通りに声をかけていた。
『ごめんなさい、すっかりベッドで寝させてもらって……』
『別にそれぐらい…』
𧲸革に連れ帰ってきた時の憂は普通通りだった。道中で稔から屋敷の皆が心配していたことを聞いた憂は屋敷に戻るなり謝罪を述べていた。
『千夜子さん、慶三様。ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。』
『憂さん、心配しましたよ。』
『うむ、よく帰ってきた』
千夜子と慶三に労わるように言葉をかけてもらって直後、顔を上げた憂は拍子抜けするほど普通だった。お使いが中途半端になってしまったことと帰りが遅くなってしまったこと、なにより心配をかけてしまった事実による反省の色は確かにあって、表情に翳りがあるのも稔は見逃さなかった。
ーその一件から暫く経った、とある日の午後、憂は千夜子に渡された巽からの手紙を受け取った。
『お手紙ありがとうございます』
いままでは巽からの手紙が来ただけで舞い上がっていたというのに、今回の彼女に関しては、どこか懐かしむような切なそうな表情だ。あの話を聞いたあとで無理もないだろうとは思うが、その様子を見て稔は居た堪れない気持ちになったという。
『読んできてもいいわよ』
『はい……っ』
あの夜会の夜に巽が父親である慶三に大々的に憂を妻にと宣言した事で千夜子も二人の仲は理解していた。だからこそ手紙が来たら一番最初に憂にその手紙を渡してくれる。𧲸革での生活も慣れて掃除や裁縫も料理も花道も茶道も全てを叩き込まれている日々だが、そのご褒美とも言うように千夜子はその手紙を読む時間だけ余分に取ってくれるのだった。
巽が留学してからというもの、二人はずっと手紙のやりとりをしていた。外国での生活は慣れないことばかりだけど沢山の事を学べている事、新しい友人も出来た事。日本よりも発展しているその場所は医学も進歩している。先進的な教育をしているということも毎回のように変化する日常を伝えてくれる。それが楽しみで仕方がなかったのは彼女の胸の内での秘密で。
それに増し加えたように今回の手紙は少し違っていて、とある一文に目が止まる
ー螢祭りの日一時帰国するー
その一文に胸がドキリと跳ねた。嬉しさと緊張、両極端な気持ちが胸の中で鬩ぎ合っている。巽と会いたい。しかしあの話を聞いてどんな顔をすれば良いのか解らないのもまた本音だった。
『帰って……くる?』
嬉しいと感じるのも、会いたいと思う気持ちも全てが本物であるのに詩經の言葉に惑わされてしまっている。
ー𧲸革巽はお前を騙しているー
ーお前は𧲸革の血筋ということだー
あの時に聞いた詩經の言葉が脳裏に反響して頭が痛くなる。手紙を膝の上に置いて思わず外部からの音を遮断するよう耳を塞いだ。憂はあの時、詩經から出生のことを聞いた直後から、幼い頃の記憶を少しずつ取り戻していた。
『…巽くん、…貴方は知ってるのかな、あの時の女の子が私だって……』
まだ幼い頃に遊びにいっていた綺麗な庭と屋敷。そこに必ずいた男の子、癖毛の可愛らしい男の子だったのを思い出したのは詩經を追いかけたあの日だ。貂革巽だよと自分の名前を嬉しそうに伝えてくれたのも思い出した。
巽の前から消えてしまったあの日は雪の日だった。十二月二十六日、少女の人生が一転した日……優しい嫋やかな女性がそばに居た。時々連れていってもらえた町のお店では、一歳ぐらいの時に亡くなったらしい母だった人にそっくりだと幾度も言われた。その日は外出して祝ってもらったあとだった。真っ白な大きなお屋敷……綺麗な庭。その時は雪景色で、まるで雪のお城だと思っていたのが懐かしい。
『あれは……𧲸革のお屋敷だったんだ…あの人、綺麗な人は誰だったのかな』
輪郭がふんわりしてて思い出せないが、幼い時の記憶だけ辿るなら、その人だけはとても優しかったのは確かに覚えていて、何度も聞かされた。『憂ちゃん?貴女のお母様はね貴女のことをとても大切にしていたわ。』その言葉を胸に生きていた。しかし……その人の行方はもう解らない。生きているのか……死んでしまっているのか……。
ー深呼吸をして立ち上がり、巽からの手紙を手に仕事に戻った。
『……憂、ちょっといい?』
そして、数刻が過ぎ庭先で仕事をしていると、大学から帰ってきた稔が掃除している憂に声をかける。
『稔様お帰りなさいませ』
『ただいま、また稔様になってるけど』
『お仕事中なので』
稔様と呼ばれるのは慣れているが、逆にそれが面白くない。稔自身が捻くれているのは重々承知していたので、まるで子供の癇癪のように憂の両頬をつまみ引っ張った。
『ひや、いです……』
『変な顔、オマエ無理してない?』
それは稔から見た憂の纏う空気感。本人はそう思っていなくても、側から見れば無理しているのは明白だった。それをうまく促して気持ちを吐き出させてあげたいのに、そう上手くはいかないから困る。
『しへなひですよ……!』
喋れませんと抗議の眼差しを稔に向け、眉間に皺寄せて微妙な表情を浮かべる憂に悪戯心が掻き立てられ、稔は空いている方の手で彼女の細腕を掴み引き寄せ見つめた。どこまでも深い真紅の瞳は稔を映していた。それがとても嬉しいと感じてしまう自分の心に戸惑いを覚えた。その瞳に映るもの全ては何を想い感じ取るのか。そして巽がいなくなってから接することが多くなったことで彼女の人となりが見えてきて、努力家なところは評価できるしドジなところもあるけれど笑顔が可愛い。なんて、そんなことを思う日々も増えてきた。吸い寄せられるように目の前の少女の唇を奪ってしまいそうになるところで我にかえる。
『……変な顔』
それだけ言葉をつないで距離を置いた。引っ張っている頬はそのままに彼女の訴えを受ける稔は理性で己をとどめたのだ。憂は巽の婚約者で自分とはどう転んでも結ばれない存在だと……それを頭で復唱した時に、ああ自分は彼女のことを少なからずとも想っているのだと自覚してバツの悪そうに表情を濁らせた。憂は頬を引っ張られたまま、大丈夫ですからと言葉を紡いだ様子ではあったが、稔が思うにそれは間違いなく憂の嘘だった。
ー……時が経つのは早いもので、じっとりと湿気に悩ませられる初夏、あれから一ヶ月あまりが過ぎようとしていた。時は六月も差し掛かる頃、憂の様子も稔の様子もさして変わることなく毎日を過ごしていたのだが、今日は巽が一時帰国する日となったのだ。
𧲸革は朝から大忙しであり、茶道の準備や来賓へのもてなしで忙しなく動いている。台所で配膳準備を指示していた千夜子が憂に声をかけた。
『憂さん、あなたは巽様の婚約者ですから本日の催しは将来の奥方様として紹介されて初めての公共の場、巽様と一緒にいるべき日です。私が着付けをさせていただきますわ。さあ、お部屋へ』
今日は𧲸革の次期当主が屋敷に戻ってくる日だ。それならば巽にとって未来の妻となる憂は一緒にいるべきであり、巽の仕事を手伝う側に居て然るべき存在である。上等な着物を身に纏い、涼しげな和花で彩る簪で髪を束ねられ、たちまち気品溢れる姿に変わる。涼しげに着付けされたその姿は庭に咲く紫陽花のようだ。
憂の準備が終わって直後、𧲸革の玄関が慌ただしくなる。
『巽様、お帰りなさいませ』
屋敷の女中達が一斉に声を上げて𧲸革の次期当主の名前を呼んだ。
千夜子が先導し憂の手をとって部屋から出てきた直後のことだった。
『巽くん……』
帰ってきた巽を視界に映した憂は体中の熱が沸騰するかのように歓喜に満ち溢れて思わず涙腺が緩んでしまう。息を呑んで口元に手を当てた憂の姿に巽も一早く気づいた。
『憂…!』
どんなに会いたかった人。目の前の紫陽花の着物に身を包んだ愛おしい人、荷物を預けてすぐに彼がとった行動は彼女を抱きしめるという事。
『すごく綺麗だよ……、少し痩せたんじゃない?』
離れて約四ヶ月ぶりの再会に胸が躍る。線の細い頬をそっと撫で、久しぶりの恋人の温もりを感じながら幾分か痩せたような気がする彼女を気遣い巽が声をかけると、その温もりは手から離れて恭しく少女は首を振った。
『そんなことないよ、大丈夫』
『……そう』
ふつりと沈黙が訪れ、その沈黙を破ったのは千夜子の声だ。
『巽様、長旅ご苦労様でした。早速ですが準備のご支度を』
『ああ、そうだね。憂…またあとで』
『…はい行ってらっしゃいませ』
憂の異変にあの巽が気づかないはずがないのだ。憂と離れた後の巽の瞳は物悲しげで寂しそうだった。
『𧲸革主催の螢祭りに今年もよく来てくれた。この祭典は𧲸革の和庭園に螢を放し、夏の訪れを感じながら茶を嗜むというものだ。今宵茶を立てるのは、わしの倅。次期当主巽により振る舞わせてもらう。庭に出ても良し、裏の川辺へ出ても良し、螢の光に照らされた一夜を楽しんでくれ』
𧲸革の当主が挨拶をする。それが始まりの合図で庭師や運転手や手伝いとしてその場にいる男手が市場で手に入れてきたらしい螢を一斉に離す。その光や壮観なりで、綺麗に剪定され整えられた和風庭園によく映える黄緑色の淡い光はその場にいる人々に安らぎと夏の訪れを連れてきたのだ。
ー巽がお座敷に上がり、憂もまた巽の横に座る事となって茶菓子の用意を手伝ったりと今まで叩き込まれた作法にのっとり来賓に振る舞う。その手捌きには巽も驚いており、もちろん稔やその場にいた者全てが憂の流れるような動作に釘付けであった。
それは巽も例外ではなく、𧲸革から離れ四ヶ月程しか経っていないというのに空白の数ヶ月がとても大きなものに感じるほど、彼女の成長は目覚ましい。もともと憂は人目を惹きつける容姿であったが、それだけでなく、その努力を見て周りの見る目も変わってきていると解った今、純粋に誇らしかった。
その中でも一番驚いた出来事が、座敷に上がっていた稔が巽のお茶を飲み終えてから作法に則り一呼吸つくと緩やかな空気の中で自然に憂と会話をしている事だ。二人の仲が近くなっているのは目に見えて解るからこそ少しだけ弟の稔に嫉妬していた。例えば今日の彼女の様子は巽が留学する前とは明らかに違う。どこか巽に遠慮しているような、避けているような雰囲気を持ち合わせていた。しかし稔に対してはどうだろう?普通通りである。
以前、稔から来た電話に関係があるのかと推測してみても、理由は解らないままで、やがて宴もたけなわとなってきた頃、来賓も疎になって巽と憂は二人になった。静寂が辺りを包む頃、ただ螢の光と月夜に照らされた座敷は二人の微妙な距離感を影とし映していた。
『憂……』
『な、に?』
『憂はさ、俺のこと…好きだよね』
『!!?』
改めて向かい合って二人で見つめ合うこと数秒、そんな沈黙を破ったのは巽だった。今日一日これといった会話を交わす事が出来なかった中で、ただ一つはっきり聞きたかった言葉を正直に問いただしてみると、目の前の憂が顔を真っ赤にして視線を外したのだ。その反応を巽が見逃すわけもない。沈黙が辺りを包むより早く、巽は憂の体を抱きしめた。
『っ……』
『その反応…それってさ嫌われてないってことだよね?』
『……!!嫌ってるわけない!そんな…、そんなこと言わないで』
それだけ言った憂の言葉が何処か悲しそうにも聞こえて、どうして彼女はそんな事を言うのだろう?と頭をフル回転してみても結局は憂自身のことは憂にしか解らない。
先程までの態度の理由、それに関係しているのだろうか、もしくは何か思うところがあるのだろうかと巽の直感が冴える。抱きしめられて震える憂の肩を引き寄せて腕の中彼女を抱き留めた
『よかった…俺、嫌われてなかったんだ』
『巽…く…』
『巽だよ…憂』
ー巽くん……他人行儀のような呼び方を許さないと言うように、少女の言葉を遮って唇に唇を重ねた。頬を伝う少女の涙が綺麗だと柔らかな頬を手の甲で撫でて涙を拭う。
『どうして泣いてるの?』
『だっ…て、巽……が……優しいから……』
真紅の大きな瞳が潤んで吸い込まれそうな気さえする。それだけ巽の中で憂は大きな存在で、何かに悩んでいるのなら力になりたいと…それが例え二人の妨げとなる事だったとしても自分だけは彼女のそばにあり続けよう。そう決めた巽の決意は半端なものではないと言葉が、瞳がそう言っていた。
『憂は…泣き虫だな、全部話して、何があったの……?』
優しく憂の肩に手を置いて言葉の続きを促すように巽がそう述べると、重苦しい空気が溶けていくように堰を切って言葉が溢れ出した。
『先見ノ華……この力は、𧲸革の血筋に発現するものだと聞いたの、巽が…それを知っていると』
『…𧲸革の、血筋……』
ー𧲸革と先見ノ華の恩恵は切っても切れないものなのかも知れないなー
それは留学前、𧲸革に詩經が侵入したあの夜会の次の日に慶三から聞いた言葉だ。巽はその言葉を考えあぐねていたのだが、𧲸革の血筋に発現するものだというのは巽も初耳のことだった。
『だから…巽が私のこと騙してるって……私が𧲸革の子だって知ってるのかもって……でも、わからない…巽がくれた言葉も想いも全部……嘘だとは思えない……だから……!』
『それで…?』
『巽とは…結ばれない方がいいのかも…って』
𧲸革の血筋…どこで生まれてどこで育ったのか。しかし確かに先見ノ華は少女の身に宿ってる。巽と血が繋がっている……それが遠縁なのか近縁なのかは未だ知る由もないが、昔と違い近年の日本では縁者同士で婚姻を結ぶことは、だいぶ少なくなった。だからこそ、その殻にとらわれて結ばれるなど巽に申し訳ないと思ったのだ。
そして、どうしても巽が自分に嘘をついて騙しているなど思えないと言葉を添えて自分の思いを伝えると、その唇を塞ぐように巽の人差し指が彼女の淡く色づいた唇に当てられた。彼の瞳は何処か切なげに優しく温かな色をしていて憂の瞳を映している。
『俺はね…嬉しかったよ。その事が聞けて…』
『嬉しかった…?…っ』
『だってそれ……もう運命だよね、俺と憂は生まれる前から繋がってたと思ったら…俺はね、憂が𧲸革の血の子だっていうのは知らなかったよ。𧲸革に近しい存在に先見ノ華が有るっていうのは父さんから聞いてて知ってた……でも、それ抜きにしても俺は憂が憂だったから好きになった。』
巽の唇が憂の唇に重ねられた。不意打ちに温もりを与えられた唇に驚きを隠せないけれど、その熱はすぐ遠のいて、代わりに額同士が触れ合った。間近で息づく巽の優しさに瞳が潤む。なんて愛おしい人。そう思えるほど人生で今一番、少女は𧲸革巽という青年に恋焦がれた。
『そんな…でも私、どこで生まれたかも解らないんだよ……』
『それでも……。そうか、だから……かな』
『…?』
『憂は覚えていないかもしれないけど、あの時から憂のこと気になってたんだ。名前も知らない女の子……稔は体が弱くて外に出られなかったから知らなかったけど屋敷に来て短い時間だけ俺と遊んで帰ってた花のような模様の赤い瞳を持った不思議な子…』
それは、とある冬の日にぷつりと無くなってしまった小さな逢瀬。
『……!!それ……!』
『あの日…雪の降るあの日。十二月二十六日、俺の誕生日いつもみたいに庭でその女の子を待ってた』
ー……十年前
『ねえねえ、君の名前おしえてよー!たくさん遊びに来てくれてるのに、名前しらないのも変だよ』
『……え、あ…だめって言われてる……お爺さまに』
『ええー!じゃあおれ、君の名前よべないじゃん。んーじゃあ、お花ちゃんって呼ぼう』
『お花ちゃん?』
『だって、花みたいな模様の綺麗な目してるもん。おれね、明日誕生日なんだ!』
『お誕生日?…そうなんだね!!私も同じなんだよ!いつもね、お祖母さまが町に連れて行ってくれるの』
『ええ!!ほんとに!?じゃあそのあと2人でこっそりお誕生日祝いしよっか!』
そう約束を交わした。同じ誕生日だなんてそんな偶然あるものか、幼い頃の巽と憂は、ただ2人で会う時間が不思議に特別なものと感じていたのだ。
『ねえ、あなたのお名前なんていうの?私は教えられないけど…教えて?』
『おれ?おれの名前は𧲸革巽だよ!』
ーー……その約束をして、次の日とつぜん君はいなくなった。
次に再会したのは十六の時。喫茶店が開業したと、たちまち町の噂になって、そこで働く不思議な瞳を持った少女に惹かれた。幼い頃の記憶は薄れていたけれど、憂のことだけはしっかり覚えていて、真紅の瞳をもつという女の子がいると物珍しさに騒ぎ立てる学生の噂を確かめようと喫茶店に行った。その時接客をしてくれたのが他でもない憂だった。笑顔の可愛い女の子。ああ間違いなく、あの時の子だと……
『憂は俺のこと覚えていなかったけど、俺は憂を見てすぐに解ったんだ。あの時の女の子だって…だから出会ってすぐに名前を聞いた。』
ーねえ、君の名前なんて言うの?
そして、あの時の少女の名前を初めて知ってから
駒草憂ですー
どんどん好きになった。むしろ今まで眠っていた好きだと言う気持ちが再会したことで溢れ出したというのが正しい。
『俺は幼い頃から憂のことが好きだったんだね……』
『巽…』
『ありがとう、出会ってくれて……ありがとう、俺のことを好きになってくれて……ありがとう、生まれてきてくれて……それを心から伝えるよ』
月明かりの下で誓いの口づけのように巽が憂の手をとって左手の薬指に唇を落とした。尊く綺麗なものに触れるかのように……螢祭りの夜に本当の意味で再会を果たした二人は優しい時間と共に確かな絆を感じ、改めて誓い合ったのだった。
ー螢祭りも終了したその夜。
『憂、眠った?』
『うん…寝たよ』
巽の部屋、扉の前で憂が眠っているのを確認するかのように言葉を紡いだのは稔だった。その返答が返ってくるのに時間はかからずに、同時に巽が部屋から出てくる。目的は𧲸革の書庫だ。憂と改めて誓いを果たした後、巽と憂の2人は庭に出て螢を見ていた。稔がそばに寄ってきて茶室の間で稔と話をしたのだ。
ー数時間前 茶室にてー
『巽…ちょっといい?話がある…』
『うん』
憂が螢に夢中になっているその合間に稔は父親である慶三が隠し事をしている可能性を危惧して巽に話を持ちかけた。それはあまりに衝撃すぎる事実であり、憂と𧲸革の謎についての核心にも迫るものだろう
『まず一つ目…これは実際に書庫に行って自分自身で確かめてほしいんだけど……父さんには兄がいる。つまりボク達の叔父。けどその存在はボクも巽も知らないよね』
『……知らないね何も…。それに、父さんは頑固だし頑なだ。自分の息子にさえ隙を見せない。』
『この真実は𧲸革の歴史目録に載ってたんだけど、ソイツの名前は𧲸革雅良…コイツはボクと巽が生まれる前に𧲸革から追放されてる。』
巽も稔も知らない闇。慶三がその事を話さなかったのは、その男がもう𧲸革とは関係が無くなったからだったのか。
『多分だけど、俺や稔が叔父さんのことを聞いてもあの人は教えてくれない』
『そうだね、隠してたぐらいだし…しかもその𧲸革の歴史目録、書庫の本棚の奥にあった。ご丁寧に南京錠まで掛かって』
『それを解錠したの!?すごくない?』
『…まあ、手当たり次第思い当たる数字を嵌め込んだだけだよ。これ以上のことは、ここでは話せない。父さんの目もあるし…憂も気にするでしょ。あとで巽の部屋行くからその時に一緒に書庫に来て。』
『ん、わかった。あとで』
ーそして今に至るわけだが、その歴史目録は稔が自分の部屋に持ち出していたらしく、一度部屋に戻ってから稔なりに調べた資料も元に本を広げた。
『叔父さんの事はここに書いてある……』
妻を陥れて自殺に追い込んで追放されたこと。また、それだけではなく𧲸革沙羅に手を出した罪も書かれていた。詳細は不明となっている。沙羅自身が混乱により、それを語らなかった為と……
ー巽はそれを読んで言いようのない思いを抱く。誰に対しての怒りなのか、叔父か父親か𧲸革か?それともこの環境か?その中心には間違いなく憂がいる。どう絡んでいるかは知る由もないが、憂も𧲸革の血筋だと……それが本当の話であるなら、彼女は十年あまり何処でどのように生きていたのかと胸が痛む。何も出来なかった空白の十年は巽にとって重たいものとなっていた。
『ねえ、稔…憂が𧲸革の血筋だって、誰が言ったの?』
茶室の会話で、憂が語った言葉が本当なら誰が彼女にそれを伝えたのか。それは憂の口からは聞けなかったけれど稔は知ってるのだろうと予感がした。
『アイツ…詩經だよ、憂はね…乃木園の屋敷に夜会招待された、何があったか…それは伽倻子さんから聞いたんだけど、憂に横恋慕していた男がいて、ソイツと婚約させようとしていたらしい。』
『は!?』
『ちょっと落ち着いて。その話はもう無いけど、その時に憂が危険な目にあって、気絶しているところを詩經に連れられて帰ってきたんだ。』
やはり稔の思った通り、巽の反応は想像していた通りだった。
憂のことになると存外巽は我を忘れるらしい。
『以前、詩經は裏切った憂を始末しようとしていた。にも関わらず、その夜は助けた。どういう事か憂自身が気になったみたいで探しに行こうとしてたんだけど、憂のことを考えたら一人では行かせられなかった。でも、ボクが風邪に罹ったから、しばらくはその話もしなかったんだ。でもあの日…巽に電話した前日、仕事で千夜子と父さんに頼まれごとをされた日、たまたま詩經を見かけたらしいね。そして帰ってこなくて憂を探して見つけた時にはもう…』
『……それで…』
巽は自分が留学していた短い間に起こった事実を改めて知り自分の無力さに打ちひしがれた。しかし考えなくてはいけないのはこれからの事で、無力さに落ち込んでいる場合では無いと文献を読み進めると、先見ノ華のことが書いてあるページがあった。
先見ノ華とは最初の人間の女に与えられた天性だ。
子孫を繋いでその能力も受け継がれるものである。その力を持っている女性、すなわち紅い瞳を持つ。と……
代々その血は𧲸革の血族に現る。先見ノ華と𧲸革の由来…始まりの男の血を𧲸革の男子が色濃く受け継いで、助け手として一人の女性を与えられた。先見ノ能力を持っている女性。それが先見ノ華となる。その血筋を絶やすこと許さず、代々𧲸革当主の血縁同士にて受け継ぐこと。文献にはそう書かれていた。
『父さんが言っていた事と同じだけど…話を聞いた時、父さんはここまで深く知らないようだった。𧲸革と先見ノ華は切っても切れない縁……みたいな事は言ってたし、先見ノ華の能力のことも知っていたけど、もしかしてここまで深く知らないんじゃない?この事実を父さんの代から隠されていたとしたら?』
『じゃあ誰が知ってるって言うのさ、こんな…』
『祖父…俺たちのお祖父様はどうだったんだろう』
巽と稔の祖父。その名……𧲸革銀次
祖母である𧲸革綾子は、先見ノ華をもっていなかった女性であり祖父の妻だった人。その二人も今はもう居ない。
『……その当時に時間を戻すでもしなきゃ無理だね…お祖父様に話を聞くとか、そうでもしなきゃ』
『それだ!』
『え、なに?』
巽は何を思ったのか突然、文献から目を離す。稔の話のどこに解決策を見出したのか。真相を掴むための最善策とでもいうように。
『その当時に生きていた人は居なくても、そこらへんの話を知ってそうな人がいる。いやむしろ当時生きていた人が一人いる。曽祖父様は無理でも、お祖父様の頃なら!』
『……?』
それは𧲸革で昔から働いている女性の事を指していた。
堀宮千夜子。慶三の身の回りの世話を任されている唯一の女中主である。それに続くように稔も一つの名前を出す。自分達では調べる限界がある中で母と父のことを良く知っているであろう人物。
『ああ、それなら…父さんと母さんの事を良く知ってる人もいる。伽倻子さん、あの人にも何か話が聞けるかもしれないね…そう、あともう一つ…母さんの日記だ』
『母さんの?』
一つの和綴じである雑記帳を机の上に置いた。不自然に破れている空白の一年間。
『俺が…生まれる前と、生まれた後の間に破れているページがある?』
『そう、それも何か関係あるんじゃない。』
その資料が揃って改めて、この𧲸革に渦巻く闇を紐解く事で憂が安心できる未来が作れるのならば、なんでもする。それは巽の中で確実に遂行しなくてはいけないものだ。そしていつか紐解ける先にはあの男がいるような気がして巽は視線を蝋燭に向けた。それはあの男、詩經がまるで𧲸革の水面下で小さく灯り、やがて大きくなるであろう火種のようだと。蝋燭から視線を外し、深く溜め息混じりに言葉を吐くと改めてそれが現実味を帯びてきて落ち着かない。
『……憂に接触してる詩經。あいつは何で𧲸革の内情を知ってる?憂の血筋の事も知ってた。それも調べる必要がある』
『うん…』
それは、最初にやるべき情報収集という名の証拠集め。
詩經は何故、𧲸革の事を知っているのか。
母と父の間に何があったのか。
祖父母は先見ノ華の事を父である慶三に何処まで話していたのか、先見ノ華と𧲸革の縁の真相、その大部分を祖父母が隠している可能性があることも。
ー……和やかな優しい雰囲気を彩ってくれていた螢がいつの間にか消えていったように、螢祭りの宴は過ぎ去った。これから進む未来には何が待っているのか……
第五夜
再会ノ螢祭リ 完
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