十月のコバンザメ

立樹

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 章の後について歩いていくと、来た時は絶望を感じていたマンションの中へと入っていく。

「ここって……」

 直仁は、戸惑いながらも、早く来いと言う章の後に続いてエントラスを抜ていった。
 無言のままのエレベーターは、七階で止まった。
 戸惑っているうちに、『701』のプレートの扉の前に立っていた。

「どうした。入れよ」

 がちゃっとカギが開く音がした。
 直仁が入れるように、章が扉を開けてくれている。

「どうなってんの?」
「どうって、俺んとこだろ。前にも来てたじゃねーか。ほら、入れって」

 動かない直仁がじれったいのか、章の眉が少しだけ寄る。

「ああ、うん。おじゃまします」

 緊張しながら、靴を脱いで中に入った。

 ただ、前とは内装が違っているのが気になった。
 上がりとには、きちんとスリッパが揃えてあり、観葉植物まである。

「スリッパ……」
 つぶやきが聞こえたのか、
「履くなり、好きにすればいいから」
 と、直仁を追い越して、章が中に入っていく。

 前は、生活感もなく、閑散としていたのに、絵が飾られていたりする玄関は、どこかの事務所のようだ。

 章が突き当りの扉を開けた。
 そこはリビングだ。

 前なら、パソコンなどの機材や配線だらけなうえに、食べたカップラーメンのカップやコーヒーの缶。それに、グラスにコップ、ペットボトルが床やテーブルの上に散乱していた。
 脱いだ服や洗った服も干してあり、来るたびに、簡単に片づけたものだ。

 でも、今は、小ざっぱりとしている。
 観葉植物も玄関よりも大きなものが置いてある。

 キッチン前には、楕円形の大きめのテーブルに六脚のイスがテーブルを囲むように並び、その上に、パソコンが三台とタブレットが置かれていた。配線もなく、スッキリして見える。
 壁際には大きなディスプレイ画面が掛けられていて、目を惹いた。

(でっけー……)

「こっちこいよ」

 ほけっと見ていると、声がかかった。

 リビングの左手にある扉から、章が顔をのぞかせている。

「おじゃまします」

 中に入ると、こじんまりとした部屋だった。

 ここは入ったことがなかった。
 長机が真正面に置かれていて、左手にはベランダへと続く掃き出し窓がある。床には機材やゲーム機器が無造作に置かれていた。
 前のリビングがこの部屋に移動したかのように、物が散乱している。

「なんか、落ち着く」

「適当に座ってくれ」

 うなずくと、章は部屋から出て行った。

 床には黒いラグが引いてあり、機材やら配線の置かれたすき間に座った。

 しばらくすると、章がもどってきた。
 手には、湯飲みとペットボトルを持っている。

「ほら」

 渡された湯飲みは、温かかった。

「あ、ありがと」

 章と歩いているときから、もう、胃痛はなかったのだが、ありがたく受けとり、飲んだ。胃が温かくなる。

「悪かった」

 急に、章が目の前に座って、頭を下げた。

 帽子を脱いだ彼の頭のつむじが見える。

 連絡が途絶えたあとの苦しさを思い返すと、許す許さないとかそういう問題ではない気がした。

「悪いと思ってるんなら、理由が聞きたい」

「言わなきゃダメか?」

 上目遣いに見られて、ドキッと鼓動が跳ねた。

 かわいい子犬に見えて仕方がない。このまま許しそうになって、いやいやと、自分が感じた悲しみや拒絶された辛さを思い出した。

「章はオレのことが嫌いになったから、返事をくれなかった。そういうこと?」

 ずっと心の内にあった疑問をやっと、口に出せた。

「……むしろ逆だ」

 しばらく無言が続いた後、章が言った。それは、絞り出すような声だった。

「そっか、逆か……ん? 逆?」

「連絡を返さなかったら愛想をつかしてくれると思っていた」

「それって、どういう……?」

 首を傾げ、下を向いてしゃべる章をじっと見つめた。

「まさか、ここまで来るなんて……」

 章はそう言って、ちらっと直仁を見てまた顔を逸らせた。

 片手で自分の髪をかき回したあと、意を決したようにあぐらをかき、直仁に顔を向けた。
 直仁をじっと見つめるその視線は、さっきのように泳いではいなかった。

 今度は、直仁がたじろいだ。視線を逸らそうとすると、

「直、これが最後のチャンスだ。俺に捕まりたくなかったら、それ飲んだら、もう二度と俺に関わるのはやめろ。ここへも来るな」

 部屋の中に沈黙が下りる。
 静かな電子音が聞こえる。
 遠くから車が通る音。犬が吠えている。
 章の息遣いが聞こえてくる。
 自分の鼓動が大きく聞こえる。

 来てはいけない?
 なぜ?
 嫌いだから?
 いや違う。
 さっき、章は「俺に捕まりたくなかったら」と言った。
 この意味は……。

 これまで、避けられている、嫌われているかもしれないと思っていた直仁は、章が言ったことに対して、自分の理解が合っているか自信なかった。

「章、もしかして……」

 直仁は自分の考えが正しいかどうか確かめたくて、手のひらで章の頬を包んだ。

 章は、目を閉じ、添えられた手にすりっと顔を傾けた。

 ぱっと手を反射的にひっこめてしまった。
 すると章は、ふっと息をはいた。

「ほら、こんなふうに好意を向けられたっていやなだけだろ。出て行けよ」

 表情は変わらないが、直仁には彼が傷ついたことがわかった。

『いや』なわけがない。むしろ……。

 直仁は立ち上がり、湯飲みを長テーブルの上に置く。
 章に背を向けたまま聞いた。

「返事をくれなかったのは、オレのことが好きになりそうだから?」

「……そうだ。こんな俺に捕まることなんてない。捕まりっこない。これ以上一緒にいたら、俺が耐えれないし、直が他の誰かのものになるのを黙って見てろって。そんなの我慢できそうになかった。あの時なら、まだ、手放せた……」

「だから、返事をくれなかった。そういうこと?」

 直仁は章の方を向いた。

「わかったなら、行けよ。俺のことは気にするな」

「勝手だな」

「勝手だよ。悪いか。前も、今も、これからもずっと変わらないの知ってるだろ」

「知ってる。自分の気持ちを優先して、オレの気持ちは聞いてくれないんだ」

 直仁は、肩をすくめながら言った。

「……あ」

 章は、くしゃっと顔をゆがめ、頭を下げ、
「人の気持ちなんて考えないヤローなんてダメだろ」
 と、吐き捨てるように言った。

「ほんと、そうだよな。一方的に関係を切られて、オレがどう感じていたかわかるか? 今だって、こっちの意見も聞かずに出て行けって、マジで辛いんだけど」

「ほんとにそうだ。ほら、嫌いになっただろ」

 こっちを見ずに、出て払う仕草をする。

「どうしてこんなに好きなんだろうな。人の気も考えず、聞かない奴なのにな」

 直仁は、章の横に座った。

「わかったって」

「俺は、コバンザメみたいに章の側にいたいって言ってるの。わかった?」

「わかったから、出て……え!」

 章がぱっと顔を上げた。

「それって……、待て……待て。よく考えろよ。こんな俺だぞ。いいのか? 友だちとして見てないからな。逃げるなら、今、逃げろよ」

 無表情の彼はどこへやら、必死の形相に、ふと笑みがもれる。

「胃痛がさ、章といるとないんだ。それって、俺にとっては最高でさ。章は、勝手だけど、きっと、そのまんま、素で生きていて、気を使わなくていい存在なんだと思う。だから、俺、側にいてもいい?」

 片膝立ちの章は、ぐしゃっと頭をかいてから、下からのぞくように直仁を見た。

 また、この顔。

(……くそっ。この顔に弱いって知っててやってるんじゃないよな)

 直仁が顔を背けると、
「あのさ、知ってる?」
 と、章がさっきとは打って変わって、にやりと笑って顔を近づけてきた。

「な、なにを」

 動揺を悟られないように、平然としようとしたけれど、ムリだった。どもってしまった。

 章がクスリと笑う。

「コバンザメってさ、高級魚なんだって?」
「そうなのか?」

 話が変わって、ホッとした瞬間、ストンと章が膝の上に乗ってきた。そして、直仁の両肩に章が腕を乗せ、そのまま手を後ろで組んだ。
 鼻先がくっつきそうだ。

 心拍が相手にも聞こえるぐらい大きくなる。

「サメにくっついてるから、釣りあげることができないんだってさ」

 息がかかるほど近くで、章がしゃべっている。

「へ、へぇ……」
 声が裏返る。

「でも、食べたら淡白で美味しいらしいだけど……」


「食いたいのか?」
 おずおずと聞くと、目が笑っている。

 このまま、がばっと食われそうだ。それに、彼の腕から逃れなさそうにない。


 しばらくすると、鼓動が落ち着いてきた。 

 やっと、会えた。逃したくないのは、どちらなのか……。

 片手を章の後頭部に添えた。
 章は、その手をとって、軽くキスをする。

 胸の奥がしびれてくる。

 ごつんと、おでこを章の額に当て、
「美味くないかもよ」
 と言った。

「食ったらわかるって」

「食う気満々だな」
 と笑いがもれる。

 章は、もう一度手にキスをくれてから、直仁の膝の上からどいた。
 そして立ち上がって、背を向けた。

「ほんとに逃がしてあげれないよ」

 ぼそっと言う。

 その背中が、さびしそうに見えた。

 ああ、と、その時直仁は理解した。
 直仁が辛かった時間、同じように章も辛かったのかもしれない、と――。

「それでいい。それが、いい」
 直仁は、章に近寄った。
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