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第127話 桜の決戦

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 頼み込む桜。快諾した様子の向日葵。
 綱引きの時の鼓舞だけでなく、桜はクラス対抗のリレーですら、でしゃばることをやめるらしい。
 向日葵がアンカーをやることになるかも、とは楓も話を聞いていた。
 その前提知識を持ってして、今の状況を見れば、何が起こったのか納得できる。
 もし話が本当なら、楓は向日葵以外の別の誰かから、バトンを受け取ることになる。だが、楓のバトンパスの不安よりも、頼もしいアンカーということが重要ではないだろうか。
 向日葵を応援するため、もとい足手まといにならないため、楓は二人のもとへ駆けた。
「二人は何を話してるの?」
「ちょうどよかった」
 ちょうどよかった? と思ったものの、楓は首をかしげるにとどめた。そして、続く桜の言葉を待った。
「今リレーの話をしてたんだ」
「そんな気がしたんだよ。向日葵がアンカーって話でしょ? 僕は誰からバトンを受ければいいの? もしかして桜?」
 しかし、楓の予想に反して、桜も向日葵も首を横に振るだけだった。
「そもそも向日葵たんはアンカーじゃないよ」
 おや、と楓は思った。ならば誰になるのだろう。先程のやり取りの様子では、向日葵が何かを引き受けたようだった。少なくとも、楓の目にはそう写った。
 もしかしたら、全く関係ない頼み事だったのかもしれない。
 では、なぜ自分の話をしていたのか? 楓には疑問が残った。
「楓は私からバトンを受け取るんだよ」
 楓の頭上にはてなが浮かんだ。
「つまり、リレーの順番に入れ替わりはないということ? じゃあ、なんで僕が来てちょうどよかったの?」
「楓がアンカーだからだよ」
 なぜか向日葵が、えっへんと胸を張りながら言った。
 唐突な言葉に、楓は自分の耳を疑った。
 目をしばたかせ、二人の顔を順に見る。だが、二人とも頷き返すだけだった。
「今、アンカーって言った?」
「そうだよ?」
 聞き間違いではなかったようだ。
「つまり?」
「向日葵たんが楓たんの前に走って、楓たんは最後に走るってことだよ」
 楓のいないところで進んでいた話は、とても重要なものだった。
「なんで僕がアンカー? リレーは点数の多く入る競技だし、玉緒との直接対決だよ? いいの? 向日葵がアンカーじゃなくていいの?」
「あたしもそうやって頼んだんだけどね」
「私はやっぱり、楓にバトンを渡す役目だから」
 楓は軽くめまいがして、頭を押さえた。
「だったら場所変えなくてよくない? せめて桜がアンカーやったら?」
「そうは言うけど、向日葵たんをできるだけ後ろにしたくて」
「なら、僕の後に誰かを走らせたらいいんじゃない?」
「これ以上向日葵たんを前にできないって」
 気持ちはわかると楓は頷いた。向日葵は確かに速い。圧倒的に速い。だから、最後に走ってもらいたい。不可能なら少しでも後ろにいてほしい。
 だが、最終走者は一周、他の走者は半周。この半周の差は大きい。ぐんぐんと加速するような生徒をおいた方が有利なのは間違いない。
 自分の欲望を抑え、勝利に邁進しようとする桜の気持ちを、楓はくんでしてあげたかった。それでも、このままでは逆効果な気がしてならない。
 気づけば、楓は自然と顔を下へ向けていた。荷が重いのだ。能力に対して、役割が大きいのだ。
 優しく肩を叩かれ、楓は不意に顔を上げた。
 すぐに、向日葵が口に手を当て、楓の耳に顔を近づけた。
「実力が不安なら大丈夫だよ。今日までの日々を思い返してみなって。楓はもう十分速いよ」
 ささやきだが、確実に芯まで届く声だった。楓の体がうちからぽかぽかと温まる。
 脳裏には、今日まで続けてきた練習の日々がよみがえる。それは桜たちとの基礎トレーニング。加えて、日に日にバラエティ色の濃くなっていく、夏目姉妹作のアスレチック。最終的にはあんなことやこんなことまでやるようになり、途中まで思い出しただけで楓は赤くなった。
「突然のことで怒ってる?」
 声を震わせながら言う桜に楓は首を横に振った。
 思い出したのは人に知られたくない記憶。ダンスの時に思い出せていたら、もっと代わっていたかもしれない。それほどまでの黒歴史。今となっては後の祭り。
「ううん。そうじゃないよ」
「じゃあ、覚悟は決まった?」
「そりゃ決まったよね」
 楓は一度目を伏せた。
「私としては楓にアンカーをやってほしいんだよ?」
 二人して祈るように手を握り、楓を上目遣いで見上げてくる。だいぶ楓の乗せ方を理解してきたらしい。
「いいよ。やるよ。でも、結果がどうなっても文句は言わないでね。僕より速い人はうじゃうじゃいるんだから」
「文句なんて言わないよ。無理な頼みなんだから」
「何にしても大丈夫だって。私が誰も追いつけないくらいに引き離すからさ」

 アンカーをやると言ってから、安請け合いしてしまった。と楓は後悔した。時間が刻一刻と迫るにつれて、緊張の度合いが高まっていく。どんどんと後悔は大きく育っていく。
 体は熱くなり、呼吸は浅くなる。胸の辺りがソワソワして、どうにも落ち着かない。
 楓は立ってみたり、座ってみたりを繰り返すことが多くなった。
 決まって、
「深呼吸してみたら?」
 と椿に言われ、深呼吸をしてみるも、綱引きの時のようにはうまくいかなかった。
 ゼッケンまで渡され、もう、最終走者ということは決定事項なのだとわかった。
 バトンパスの心配はない。受け取る相手は向日葵。なんなら渡さなくていい分、渡し損ねる心配はなくなった。
 時間になり待機列に並ぶ。その間、前の競技を見ている。天変地異が起こって、体育祭どころではない状況にならないかと楓は勝手ながら考えた。
 席を立ってからもため息を繰り返し、じっとしていなかった。
「もし、失敗しても大丈夫だって。それに、楓には誰にもない能力があるでしょ」
 向日葵は、そんな落ち着かない楓の頭を胸に抱き寄せ、背中を撫でた。
「僕の能力?」
「そう。まあ、使うことはないだろうけどね。もしものこと考えたら、覚えておくと気がラクになるかなって」
 ふふふと笑っている。
 それって、と楓が声を出すより早く、背を向けて向日葵は歩き出してしまった。
 よく考えれば、半周ずれているということは、番がくるまでは向日葵の言葉を聞けないのだ。心細さも楓の胸にやってきた。

 入場。開始の準備。
「位置について」
 に続く、
「ヨーイ」
 のかけ声でクラウチングスタートをする第一走者たち。
 空砲の音とともに流れ出す、定番のクラシック音楽。その音で楓は震え上がった。もうすでに何度も聞いた曲だが、体が硬くなっていた。
 その証拠に、まだ始まったばかりにも関わらず、手は汗でぐっしょりだった。今スマホで音ゲーをやれば、ほとんど反応しないだろう。もしかしたら、スマホのロック解除すらできないかもしれない。
 それほどまでに、楓は手に汗をかいていた。簡単にバトンも滑り落ちそうだ。
 しかし、楓の手と違い、スタートダッシュは成功していた。その後のバトンパスも順調で、今のところ一位だった。だが、始まりがいいのは、男子の綱引きの時にも言えた。
 はじめ良ければ終わりよしという言葉があるらしいが、終わりよければ全てよしほど聞かない。と楓は思った。つまり、そういうことだ。どれだけはじまりが良くても、終わりが悪ければそれは全て悪いということではないか。そもそも、はじめ良ければ全てよしではないのだ。
「……」
 終わりをよくするため、なんとか話でもして、気分を誤魔化そうとするものの、楓は喉が詰まって声が出せなかった。会話どころではなかった。
 周りは応援しているものの、楓はそれすらままならない。
 アンカーなどという大役は、今の今ままで一度もなかった。選ばれるような走力を持っていたなかった。そこに楓の出番はなかった。
 いつも目立たない順位に収まっていた。今回、短距離で一位を取ることができたのも初めてのことだった。
 運動ができる男子はモテた。楓は運動も並だった。今は多少はできるようになったが、他クラスと比べて一位を取れても、短期間で能力はそこまで変わらない。結局は並だ。
 徐々に進んでいく列。前にいるクラスメイトの数は時間とともに少なくなっていく。
「うわ、冷たっ!」
「え」
「大丈夫? 体調悪いんじゃない?」
「た、玉緒?」
「あれ、アンカーって春野ちゃんじゃなかったっけ? 春野ちゃん体調崩したの?」
 突然、楓の手を取ったのは玉緒だった。
 驚きで詰まっていた喉が広がる。そして、思考も少し開ける。 
 そうだ。いつも桜と一位を争っていたのは玉緒だった。
 呆然と玉緒の顔を見つめてから、楓は手を振りほどいた。
「あ、ごめん。握ったままで痛かったよね」
「うん。少し」
「でも本当に大丈夫? 秋元ちゃんも余裕なさそうだけど」
「大丈夫。こういう癖みたいなものだから」
 楓はやっと綱引きの時との違いに気づく。
 呼吸を整え、楓は先ほどと同じおまじないを唱える。
「……これは体が備えているから。これは体が備えているから」
「何?」
「ううん。こっちのこと。玉緒のおかげで目が覚めたよ」
「僕何かした?」
「だいぶ気がラクになったよ。ありがとう」
「それはよか、ない。敵に塩を送っちゃったじゃん!」
 やってしまったと頭を抱える玉緒。
 実世とは違う反応に、楓はクスリと笑った。
「何さ」
「ううん。やっぱり価値観は人それぞれだよなと思って」
 気づくと前に待機していたクラスメイトがいなくなっている。
 楓はレーンに入って、軽く跳ねた。
 バトンが渡れば、向日葵はすぐにやってくる。準備できる時間は少ない。
 入ってしまえば敵同士、玉緒の顔からもおちゃらけた雰囲気が少し減った。
 ちらりと向日葵の方を見ると、走り出しているのがわかった。
 たかが半周ではほとんど差を作り出すことはできない。
 しかし、そこは向日葵。持ち前の力で微差を大差へと広げていく。
 楓も、向日葵や桜だけでなく、クラスメイトたちの想いに応えるため、スタートを切った。練習の時より早いスタート。
 だが、
「ハイッ!」
 とすぐに声がかけられる。ただ信じ、腕を後ろに突き出す。
 テイクオーバーゾーンギリギリで、バトンパスを成功させた。
 ここからは楓のターン。
 学校のトラックは、一周四百メートルではない。百メートルよりは長い程度だろう。
 そうは言っても、走り続けてきた階段やアスレチックと比べれば、圧倒的に短い。
 後ろを振り返ることもなく、四分の一を走り抜け、半周を過ぎる。追いついてくる者は誰もいない。
 それでも、少しの笑みも浮かべずに、楓はただひたすら地面を蹴った。
 走り、走り、走り、そして、胴を前に出す。
「なっ」
 思わず声を出したのは、すぐ隣に玉緒が現れたからだった。
 楓辛勝。
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