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第壱章 - 盗まれた表・頭落とし -
002話「ルーザーに消えぬ屈辱を」
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第02話「ルーザーに消えぬ屈辱を」
もう、今日で五日連続になる雨だった。
台風並みとはいかないものの、降りしきる幾万の雨がアスファルトを跳ね、鳴らし続け、その雨音は鉄筋コンクリートマンションの一室にまで届いてくる。星月を覆い隠すこの鈍く陰鬱な雨雲こそは梅雨の始まりを知らせていた。
”彼”の耳が満足に雨音を捉えなくなってからは、既に三日が経過している。
――――マンションの一室に、一人の男性が裸のまま吊るされていた。
男の肢体は鍛え抜かれ逞しかったが、今では彼の有様の凄惨さの方しか目につかない。手首は縄で縛られているが、手首から先はうっ血で黒く変色していて指は一本も残っておらず、切断面に蠅がたかっている。
「チッ、くっせえなこいつ」「もう死んでるんじゃねえのか」
吊られた裸の男を見て、二人の若者が悪態をついた。
「部屋はちゃんと閉めろよ、臭いがリビングにまで移るだろ」
と片方が隙間の空いたドアを不機嫌そうに指差した。
男が捕らえられたのは五日前の事。
彼は若者たちを襲った”襲撃者”で、5人の仲間を負傷させ、その内2人の命を奪った凶暴な男だった。
仲間を殺された若者たちは襲撃者を拷問にかける事を少しも躊躇わなかった。襲撃者に拷問を行ったのには三つの理由があった。一つは拷問によって襲撃者の背後関係を探る為、一つは組織の面子の為の報復、残る一つは――――「娯楽」のためだった。
若者たちは襲撃者の歯をネイルハンマーとペンチで抜くと、男性に口淫を強いた。若者たちの中にはノーマル・セクシャリティを自称しながらも、男性に対する強制的な口淫、肛門への性器挿入それら行為に伴う吐精行為……そういった凌辱行為に快楽を覚える者たちが居たので、そういう”役”を揃えるのに不都合はなかった。
襲撃者の男性はあらゆる辱めを受けた。
だが、凌辱はそこで終わらなかった。
若者たちの怒りと悪意は留まる事を知らなかったのである。
二日かけて襲撃者の男の尊厳を一通り性玩具として遊び終えると、肛門から大量のアルコールを強制的に流し込み……そして瓶を直腸の中で割ったのだ。
それを更に”消毒”と称して下半身にアルコールを撒き、着火した。男性の陰毛や尻が燃え、火は足まで燃え広がった。すぐに消火されたが、それでも彼は下半身に深刻な熱傷を負った。
それからはボクサー上がりの若者がサンドバック代わりに使ったり、金属バットの的に使ってみたり、性器をホチキス止めしてみたり……男はその過程で視力と聴力の大部分を喪失した。
あらゆる拷問と虐待が試されたが……やがて、拷問は止まった。
慈悲ゆえにではなかった。
「飽き」……それと拷問対象が「臭くなったから」という無責任極まる理由だった。
”彼”は、今朝に入ってからはついに意識も無くなってしまった。
男性は今や尻から血と便を床のバケツに垂れ流すだけで、生きているのか、死んでいるのか、それすらもわからない。その手当はおろか、生存確認さえ誰もしていなかった。面倒臭いから、汚いから……そういう理由で。
「おい、生きてんのか、おい!」
若者の一人が呼びかけるが、返事はない。部屋中を満たす性とし尿と血便の匂いに若者はむせ返した。
「……なあ、ホントに死んでたらどうするんだ?」
「また前と同じだ。袋に詰めて公園にでも捨てときゃいい」
「バカ、サツに見つかるだろそれじゃ」
そう言うと、もう一人はこう返した。
「バカはテメエだよ、サツは俺たちにビビってる。何もできやしねえ。この前も……」
男が言いかけた時、呼び鈴が室内に鳴り響いた。
「誰だ!」
男たちは当然訝しんだ。このマンションの一室のインターホンを鳴らす人間はほとんどいない。それどころか数日前にメンバーが路上で襲撃を受けたばかりである。そのためにマンションの警戒は今までなく分厚くなっていた。
誰も応答しないでいると、呼び鈴が再度慣らされた。
「おい! 誰か出ろ! ……チッ、リビングの奴は取る気ねえのか」
駄目だ、ヤクか酒にハマっちまってる。ともう一人が言って、男は溜息をついた。
「しょうがねえ……ちょっと見て来る」
警戒せずにはいられない。若者の一人は部屋に転がしてあった血まみれの歪んだ金属バットを拾うとマンションのインターコムへ向かう。
拷問部屋を出たリビングには数人の仲間がソファーや床で音楽を聴きながら寝そべっていた。ある者はイヤホンで音楽を聴いており、ある者はドラッグがキマっており、ある者はアルコールが入っている。インターコムを取れる状態のものは一人も居なかった。
一階エントランスからのコールで、小型の映像モニターが若い女性の姿を映している。
「もしもし」
男性が受話器を取り応答するとモニターの向こうの女性は反応し
「お約束で伺っていた「ピーチクラブ」の者です」
と一言名乗った。
ちょっと待ってろ。男は受話器を持ったままリビングの仲間たち向けて呼びかける。
「おい! 誰かデリ呼んだか!?」
一度で返事がなく、もう一度、より大きな声で呼びかける。
「おいコラ!! デリ呼んだ奴はいるのか! いねえのか! はっきりしろや!」
「あー……オレだわ」
するとようやく、アルコールで顔を真っ赤にした男が返事した。
若者はまたもインターコムに向き直ると受話器を耳に当て
「仕方がない、通れ」
と、渋々エントランスドアを開け、すぐに受話器を落とした。
「……オイ、ここにデリ呼ぶなつっただろ」
受話器を落とした後、若者は舌打ちすると酩酊者の仲間に向かって吐き捨てた。
「そんなルールはねえだろお?」
酩酊者は顔を赤くしたままスーパードライの銀缶を一口含み、言い返した。
「隣の部屋を見られるとマズイ」
「サツもビビらないとか言ってる癖に、デリにビビってんのか?」
酩酊者が小馬鹿にして笑うと、若者のこめかみに青筋が浮き立った。
「……おい、ナメた事ぬかすなよ」
あ? やんのか? と、酩酊者は立ち上がり、その赤い顔で若者を睨みつける。
下唇や耳に大きなピアスをつけた若者も、その凶悪な顔つきで睨み返す。他の仲間は一切それに関与しない。煽り立てる事も、仲裁することもなかったが、一種即発の剣呑な雰囲気がマンションのリビングを支配する。
睨み合いはしばらく続いた。だがしばらく続くと酩酊者は急に笑い出し
「ハハハハハ、マジになるなよ。気楽にいこうぜ」
と若者の方をポンポンと馴れ馴れしく叩いた。
「要はあの部屋見せなきゃいいんだろ? 平気だから、心配すんなって!」
「何かあったらケツはテメエで拭けよ」
若者は低い声で吐き捨てるとソファーに腰かけ、金属バットを床に置くと煙草を取り出し、吸った。リビングからは東京の夜景が見える。赤ラークのロング、六本木の夜が似合う煙草だった。
そうしているとやがて、玄関ドアをノックする音が聴こえた。
「まってろー。今開けるー」
今度は正体がわかっている、エントランスから上がってきたデリ嬢だ。彼女を呼んだ、酩酊した仲間は光に向かっていく蛾のようにふらふらと、マンションの廊下を歩いて嬢を迎えに行った。
酩酊した男が玄関ドアの鍵を解除し、扉を開けると、肩を雨に濡らした娼婦が一人、立っていた。
娼婦の女性は雨の中にあっても香水の香りを漂わせており、比較的整った顔、体つき、白い衣服と身に着けた貴金属類……娼婦の中でも比較的上等な女である事がわかった。
女性の笑みには少しだけ、緊張の張りがあった。
彼女はそれを隠すようにして恭しく頭を下げ、自己紹介した。”やりがい”がありそうだ。酩酊者は一人ごち頷いた。
「こんばんわ、ピーチクラブの「まどか」、24歳です」
その時だ、開いた玄関ドアをこじあけるようにして、娼婦の女性とは比べ物にならぬ、太く逞しい腕が伸びるのを見た。
「ここまでで十分だ。よくやった」
年は40代の半ばから後半いったところか、背丈の高く、体つきのがっちりとした初老の男は黒スーツの上に濡れた深緑のジャケットを羽織っている。それは仲間には居ない顔つきの男だとすぐにわかった。このマンションに招待した覚えも無かった。
中年男性は娼婦を押しのけると扉をこじあけながら半歩、マンションに踏み入った。
「オイ、お前……」
酩酊した若者は中年男性を認識し、何か言葉を発しようとしていた。しかし、させなかった。
中年男性は振りあげるように右腕を伸ばすと、酩酊者の首を既に掴んでいた。
『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。』
――――『創世記』 1章27節より。
――――人間は、欠陥動物である。
人間は、多くの人間自身が思っているよりも、ずっと脆い。
まずは「喉」。はっきりいってこれは人体最悪の欠陥のうちの一つだ。
一説によると、喉に対する圧力が35キロを越えた段階で、破損の危険性があるといわれている。
即ち、人体の主要部位を損傷する事によって発生する「死」に直結する損傷である。
概ね、喉仏骨折によって発生する気管閉塞によって死に至るとされる。
強成書房「哺乳類界のマンボウ 第一巻(著:虚無人)」より抜粋。
余談であるが、日本の学校機関で行われている体力測定データによると、中学二年生の男子生徒の平均握力はおよそ35キロと云われており――――
中年男性はその指に力を籠めた。若者は最期の瞬間、中年男性の表情を見た。
その瞳は暗がりのようだった。中年男性は焦点の定まらぬ瞳で、今まさに殺さんとしている若者の姿など、ぼんやりと、まるで風景の一部程度にしか捉えていないような、そういう表情をしていた。
リビングの誰も気づかない程度の小さな異音が鳴り、雨にかき消された。
いま、一人の若者の命はハンバーガーの包み紙を丸めるかのように握りつぶされた。
中年男性の腕を掴もうとした若者の肩から、腕から力が抜け、糸の切れたジョルリ人形のようになった。口からは血の混じった赤い泡をブクブクと噴き、黒目は白目へと変わった。
中年男性は壊れた玩具と同じように、若者を地面に捨てた。
「ひっ……!」
その凶行を見た娼婦は反射的に叫び声をあげかけた。その口を、男の大きく無骨な手がそっと塞ぐ。
シィー……。と、中年男性は左手の人差し指を立ててジェスチャーをした。それから彼は、とても小さな声で
「このまま後ろのエレベーターに乗って、タクシーを拾って帰りなさい」
と言うと、上着のポケットから無記名の電子通貨カードを取り出し、それを女性のポケットにねじ込んだ。
いいね? 彼が同意を求めた。回答までの猶予時間はない事を、女性は直感した。ここまで来る途中、背中にナイフを突き立てられた時と同じように―――――。
娼婦の女性に拒否権はなかった。ただ小さく、音を立てず、ケーキ屋さんの前に置かれた少女の首振り人形のように頷くしかなかった。
「良い子だ」
中年男性が焦点の定まらぬ目つきのまま、微かな微笑みを見せた瞬間を娼婦の女性は見逃さなかった。
中年男性は自らと彼女の世界を分け隔てるようにして、優しく女性を突き放し、鉄の玄関扉が閉めると、内側から鍵をかけた。今しばらくの間、この世の地獄が、この門の外へ噴き出して来ないように――――。
娼婦の女性は歯をカチカチと鳴らし、震えながらも二歩、三歩と後ずさりする。そして中から男達の怒号が聴こえて来た時、彼女は脱兎の如く都内マンションの最上階から逃げ出したのだった。
もう、今日で五日連続になる雨だった。
台風並みとはいかないものの、降りしきる幾万の雨がアスファルトを跳ね、鳴らし続け、その雨音は鉄筋コンクリートマンションの一室にまで届いてくる。星月を覆い隠すこの鈍く陰鬱な雨雲こそは梅雨の始まりを知らせていた。
”彼”の耳が満足に雨音を捉えなくなってからは、既に三日が経過している。
――――マンションの一室に、一人の男性が裸のまま吊るされていた。
男の肢体は鍛え抜かれ逞しかったが、今では彼の有様の凄惨さの方しか目につかない。手首は縄で縛られているが、手首から先はうっ血で黒く変色していて指は一本も残っておらず、切断面に蠅がたかっている。
「チッ、くっせえなこいつ」「もう死んでるんじゃねえのか」
吊られた裸の男を見て、二人の若者が悪態をついた。
「部屋はちゃんと閉めろよ、臭いがリビングにまで移るだろ」
と片方が隙間の空いたドアを不機嫌そうに指差した。
男が捕らえられたのは五日前の事。
彼は若者たちを襲った”襲撃者”で、5人の仲間を負傷させ、その内2人の命を奪った凶暴な男だった。
仲間を殺された若者たちは襲撃者を拷問にかける事を少しも躊躇わなかった。襲撃者に拷問を行ったのには三つの理由があった。一つは拷問によって襲撃者の背後関係を探る為、一つは組織の面子の為の報復、残る一つは――――「娯楽」のためだった。
若者たちは襲撃者の歯をネイルハンマーとペンチで抜くと、男性に口淫を強いた。若者たちの中にはノーマル・セクシャリティを自称しながらも、男性に対する強制的な口淫、肛門への性器挿入それら行為に伴う吐精行為……そういった凌辱行為に快楽を覚える者たちが居たので、そういう”役”を揃えるのに不都合はなかった。
襲撃者の男性はあらゆる辱めを受けた。
だが、凌辱はそこで終わらなかった。
若者たちの怒りと悪意は留まる事を知らなかったのである。
二日かけて襲撃者の男の尊厳を一通り性玩具として遊び終えると、肛門から大量のアルコールを強制的に流し込み……そして瓶を直腸の中で割ったのだ。
それを更に”消毒”と称して下半身にアルコールを撒き、着火した。男性の陰毛や尻が燃え、火は足まで燃え広がった。すぐに消火されたが、それでも彼は下半身に深刻な熱傷を負った。
それからはボクサー上がりの若者がサンドバック代わりに使ったり、金属バットの的に使ってみたり、性器をホチキス止めしてみたり……男はその過程で視力と聴力の大部分を喪失した。
あらゆる拷問と虐待が試されたが……やがて、拷問は止まった。
慈悲ゆえにではなかった。
「飽き」……それと拷問対象が「臭くなったから」という無責任極まる理由だった。
”彼”は、今朝に入ってからはついに意識も無くなってしまった。
男性は今や尻から血と便を床のバケツに垂れ流すだけで、生きているのか、死んでいるのか、それすらもわからない。その手当はおろか、生存確認さえ誰もしていなかった。面倒臭いから、汚いから……そういう理由で。
「おい、生きてんのか、おい!」
若者の一人が呼びかけるが、返事はない。部屋中を満たす性とし尿と血便の匂いに若者はむせ返した。
「……なあ、ホントに死んでたらどうするんだ?」
「また前と同じだ。袋に詰めて公園にでも捨てときゃいい」
「バカ、サツに見つかるだろそれじゃ」
そう言うと、もう一人はこう返した。
「バカはテメエだよ、サツは俺たちにビビってる。何もできやしねえ。この前も……」
男が言いかけた時、呼び鈴が室内に鳴り響いた。
「誰だ!」
男たちは当然訝しんだ。このマンションの一室のインターホンを鳴らす人間はほとんどいない。それどころか数日前にメンバーが路上で襲撃を受けたばかりである。そのためにマンションの警戒は今までなく分厚くなっていた。
誰も応答しないでいると、呼び鈴が再度慣らされた。
「おい! 誰か出ろ! ……チッ、リビングの奴は取る気ねえのか」
駄目だ、ヤクか酒にハマっちまってる。ともう一人が言って、男は溜息をついた。
「しょうがねえ……ちょっと見て来る」
警戒せずにはいられない。若者の一人は部屋に転がしてあった血まみれの歪んだ金属バットを拾うとマンションのインターコムへ向かう。
拷問部屋を出たリビングには数人の仲間がソファーや床で音楽を聴きながら寝そべっていた。ある者はイヤホンで音楽を聴いており、ある者はドラッグがキマっており、ある者はアルコールが入っている。インターコムを取れる状態のものは一人も居なかった。
一階エントランスからのコールで、小型の映像モニターが若い女性の姿を映している。
「もしもし」
男性が受話器を取り応答するとモニターの向こうの女性は反応し
「お約束で伺っていた「ピーチクラブ」の者です」
と一言名乗った。
ちょっと待ってろ。男は受話器を持ったままリビングの仲間たち向けて呼びかける。
「おい! 誰かデリ呼んだか!?」
一度で返事がなく、もう一度、より大きな声で呼びかける。
「おいコラ!! デリ呼んだ奴はいるのか! いねえのか! はっきりしろや!」
「あー……オレだわ」
するとようやく、アルコールで顔を真っ赤にした男が返事した。
若者はまたもインターコムに向き直ると受話器を耳に当て
「仕方がない、通れ」
と、渋々エントランスドアを開け、すぐに受話器を落とした。
「……オイ、ここにデリ呼ぶなつっただろ」
受話器を落とした後、若者は舌打ちすると酩酊者の仲間に向かって吐き捨てた。
「そんなルールはねえだろお?」
酩酊者は顔を赤くしたままスーパードライの銀缶を一口含み、言い返した。
「隣の部屋を見られるとマズイ」
「サツもビビらないとか言ってる癖に、デリにビビってんのか?」
酩酊者が小馬鹿にして笑うと、若者のこめかみに青筋が浮き立った。
「……おい、ナメた事ぬかすなよ」
あ? やんのか? と、酩酊者は立ち上がり、その赤い顔で若者を睨みつける。
下唇や耳に大きなピアスをつけた若者も、その凶悪な顔つきで睨み返す。他の仲間は一切それに関与しない。煽り立てる事も、仲裁することもなかったが、一種即発の剣呑な雰囲気がマンションのリビングを支配する。
睨み合いはしばらく続いた。だがしばらく続くと酩酊者は急に笑い出し
「ハハハハハ、マジになるなよ。気楽にいこうぜ」
と若者の方をポンポンと馴れ馴れしく叩いた。
「要はあの部屋見せなきゃいいんだろ? 平気だから、心配すんなって!」
「何かあったらケツはテメエで拭けよ」
若者は低い声で吐き捨てるとソファーに腰かけ、金属バットを床に置くと煙草を取り出し、吸った。リビングからは東京の夜景が見える。赤ラークのロング、六本木の夜が似合う煙草だった。
そうしているとやがて、玄関ドアをノックする音が聴こえた。
「まってろー。今開けるー」
今度は正体がわかっている、エントランスから上がってきたデリ嬢だ。彼女を呼んだ、酩酊した仲間は光に向かっていく蛾のようにふらふらと、マンションの廊下を歩いて嬢を迎えに行った。
酩酊した男が玄関ドアの鍵を解除し、扉を開けると、肩を雨に濡らした娼婦が一人、立っていた。
娼婦の女性は雨の中にあっても香水の香りを漂わせており、比較的整った顔、体つき、白い衣服と身に着けた貴金属類……娼婦の中でも比較的上等な女である事がわかった。
女性の笑みには少しだけ、緊張の張りがあった。
彼女はそれを隠すようにして恭しく頭を下げ、自己紹介した。”やりがい”がありそうだ。酩酊者は一人ごち頷いた。
「こんばんわ、ピーチクラブの「まどか」、24歳です」
その時だ、開いた玄関ドアをこじあけるようにして、娼婦の女性とは比べ物にならぬ、太く逞しい腕が伸びるのを見た。
「ここまでで十分だ。よくやった」
年は40代の半ばから後半いったところか、背丈の高く、体つきのがっちりとした初老の男は黒スーツの上に濡れた深緑のジャケットを羽織っている。それは仲間には居ない顔つきの男だとすぐにわかった。このマンションに招待した覚えも無かった。
中年男性は娼婦を押しのけると扉をこじあけながら半歩、マンションに踏み入った。
「オイ、お前……」
酩酊した若者は中年男性を認識し、何か言葉を発しようとしていた。しかし、させなかった。
中年男性は振りあげるように右腕を伸ばすと、酩酊者の首を既に掴んでいた。
『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。』
――――『創世記』 1章27節より。
――――人間は、欠陥動物である。
人間は、多くの人間自身が思っているよりも、ずっと脆い。
まずは「喉」。はっきりいってこれは人体最悪の欠陥のうちの一つだ。
一説によると、喉に対する圧力が35キロを越えた段階で、破損の危険性があるといわれている。
即ち、人体の主要部位を損傷する事によって発生する「死」に直結する損傷である。
概ね、喉仏骨折によって発生する気管閉塞によって死に至るとされる。
強成書房「哺乳類界のマンボウ 第一巻(著:虚無人)」より抜粋。
余談であるが、日本の学校機関で行われている体力測定データによると、中学二年生の男子生徒の平均握力はおよそ35キロと云われており――――
中年男性はその指に力を籠めた。若者は最期の瞬間、中年男性の表情を見た。
その瞳は暗がりのようだった。中年男性は焦点の定まらぬ瞳で、今まさに殺さんとしている若者の姿など、ぼんやりと、まるで風景の一部程度にしか捉えていないような、そういう表情をしていた。
リビングの誰も気づかない程度の小さな異音が鳴り、雨にかき消された。
いま、一人の若者の命はハンバーガーの包み紙を丸めるかのように握りつぶされた。
中年男性の腕を掴もうとした若者の肩から、腕から力が抜け、糸の切れたジョルリ人形のようになった。口からは血の混じった赤い泡をブクブクと噴き、黒目は白目へと変わった。
中年男性は壊れた玩具と同じように、若者を地面に捨てた。
「ひっ……!」
その凶行を見た娼婦は反射的に叫び声をあげかけた。その口を、男の大きく無骨な手がそっと塞ぐ。
シィー……。と、中年男性は左手の人差し指を立ててジェスチャーをした。それから彼は、とても小さな声で
「このまま後ろのエレベーターに乗って、タクシーを拾って帰りなさい」
と言うと、上着のポケットから無記名の電子通貨カードを取り出し、それを女性のポケットにねじ込んだ。
いいね? 彼が同意を求めた。回答までの猶予時間はない事を、女性は直感した。ここまで来る途中、背中にナイフを突き立てられた時と同じように―――――。
娼婦の女性に拒否権はなかった。ただ小さく、音を立てず、ケーキ屋さんの前に置かれた少女の首振り人形のように頷くしかなかった。
「良い子だ」
中年男性が焦点の定まらぬ目つきのまま、微かな微笑みを見せた瞬間を娼婦の女性は見逃さなかった。
中年男性は自らと彼女の世界を分け隔てるようにして、優しく女性を突き放し、鉄の玄関扉が閉めると、内側から鍵をかけた。今しばらくの間、この世の地獄が、この門の外へ噴き出して来ないように――――。
娼婦の女性は歯をカチカチと鳴らし、震えながらも二歩、三歩と後ずさりする。そして中から男達の怒号が聴こえて来た時、彼女は脱兎の如く都内マンションの最上階から逃げ出したのだった。
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