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第五章 ‐ いつか星の海で ‐
056話「イリーガル・テイクアウト:1」
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第56話「イリーガル・テイクアウト:1」
「もうここは満足したかい」
かき氷を食べ終え、アジアン雑貨店で小物を見たり、小籠包のつまみ食いをした後に、入口の朝陽門手前で清壱が最終確認のように尋ねる。
「うーん」
小籠包の最後の一つを口に頬張りながらカスミが唸る。中華街もそこそこ見て回った、流石にもう無いか。清壱が胸を撫で下ろしかけた時だった。「あれ!」鶴の一声と共に翔子が指差したのは蒼い朝陽門――――の隣の同じく青い、やや大きな建物だ。
まだ点灯されていない赤いネオンサインには「GAME」と書かれているのは最高だ、何せ一目でこれが何の施設なのかわかる。大手ゲーム会社のSE―MAGA社の経営するゲームセンター「クラヴ・セマガ」の店舗だった。
「ゲームセンター?」
「うん、観たい映画、まだ時間あるから。それまでここ行きましょうよ」
「賛成、音ゲーとかやりたい」
「あのビル、ダンスゲームとか音ゲー無いもんね」
「”ドラム式洗濯機”を置く余裕はウチに無くてな……」
清壱がゲームセンターに置かれたリズムゲームのある筐体の事を揶揄する。
「ガンシューティングはあるのに」
「あれは訓練になる」
「じゃあメタルスラッグは……」
「あれは……楽しい」
月照支部の地下にいくつか置かれたビデオゲーム筐体の事を思い出すと、清壱は古き良き80、90年代のアーケードゲームに思いを馳せた。
ハイエンドPCで遊ぶ外国製のゲームや古き良き80、90年代レトロゲームに肩入れする清壱にとって、ゲームセンターとは基本的には退屈……いや、がっかりさせられるものだ。なぜなら、どこの店に行っても置いてあるものはどれも同じ、クレーンゲームと麻雀ゲームとカードゲーム、通常のアーケードゲームは今やオマケ扱いさえされず、対戦ゲームが少々あれはマシな方。
――――でもまあ、それでもこの店舗はその他の没個性ゲームセンターに比べると二回りは面白みがある。入店してすぐ、体感ゲームやいくつかのアーケードゲームの存在を確認すると清壱はそれらに若干の関心を寄せた。
「イチくん、ゲームするんですよね」
「誰から聞いたんだ?」
「カスミちゃんから。それに――――よく一人でゲームしてるじゃないですか」
「俺、そんなに遊んでるかな……」
本人としてはあまりそうは思っていなかったが「それなりに?」と翔子が答えると、彼は日頃の生活態度を自省せざるを得なくなる。
「まあ、いいじゃないですかあ」
そんな事より遊びましょうよ。と、翔子は清壱とカスミの手を引いてゲームセンターの奥へと進んでいった。
清壱は少女らがダンスゲームやスキーの体感ゲームをプレイするのを見守り、プリクラを三人で撮ろうと言われれば断固拒否。
プライズゲームでは実力を見せろとせがまれるも……古武術の達人であっても確率設定されているような代物はどうにもならず、なんとか諦めさせ……。途中、ゲームコーナーの隅、もはや誰も関心を示さないような古いアーケード筐体の一つに心惹かれるも、少女たちのお守りのために我慢しつつ、少女らがライド型のガンシューティングを遊ぶのを見守ったりする。
そしておよそ30分後……彼は虚無の瞳を湛えながらエア・ホッケーゲームをプレイしていた。
彼は日頃の稽古以上の疲労を感じつつも、対する少女二人相手に無言・無表情で完封し続けていた。二人がかりで挑む少女らは何とか清壱側のゴールに円形・水色のパックを入れようとするが、彼は精確なブロックで確実にこれを防ぎ、少女側は逆に彼の攻撃を防げない。
「実力差を人数でカバーしようとするのは良い判断だが――――」
清壱は白いマレットを動かすと、飛来してくる円形のパックを打ち、壁に当たっての反射を利用してまたも少女側のゴールへ叩きこんだ。
「まだまだだな」
憎たらしいファンファーレ音と共にスコア表示が11-0に変化する。翔子は金切声をあげて悔しさをアピールするも、この無慈悲な戦いには何の変化ももたらさない。清壱は以前完封継続中だ。
「えー、ヤダー……、イチさんなんでそんな強いの……」
と、カスミがうんざりした表情でぼやく。
「さあ? 日頃の稽古の成果、かな」
「なんかテキトー……」
「センパイ! 絶対この人から1点取ろう!」
翔子はいつの間にか勝つ事ではなく、1点取る事が目的になっていたが、カスミもこれに同調し気合を入れる。
京子、安斎から特に連絡は無い、15分ごとに「異常なし」の報告が上がって来るのみで、平穏極まる。清壱が一瞬視線を横に逸らす、エアホッケー台から手洗いの入口が見える。
「お母さん、ちょっとお手洗いに行ってくるからね、ここで大人しくしてなさいよ」
クリーム色のサファリハットを被った女性が、まだ5・6歳程度だろうか、息子とおぼしき子供に言い聞かせている光景がチラりと見えた。
「隙あり!」
その隙を狙って翔子が円形のパックを打ちだすものの、清壱は――――飛来してくるパックを白いマレットで上から抑えつけ、キャッチしてみせた。
「悪くないが、相手の誘い込みに気を付ける事だね」
清壱は無表情で憎たらしいアドバイスをすると、パックを打ちだして返却する。間一髪、カスミがパックを弾いて、ゴールさせられる事だけは免れる。
それを起点に激しいラリーの攻防になるが、ひいひい言いながら必死の様子の少女二人に対して清壱の表情は「無」そのもので、何の感情の起伏も感じられず、目も据わっていて目線の動きさえも感じられない……まるでブルタル・エアホッケー・サイボーグだ。
その間も、トイレへと続く通路手前のベンチに座った小さな子供は母親を待っていたが、そこに一人の青年が現れると、子供を抱きかかえた。
「えっ、お母さ」
子供が母親を呼ぼうとしたが、男は子供の口を自分の胸元に押し当てて、大声が出せないようにした。青年は子供を抱きかかえたまま早足でその場を離れ、エア・ホッケーゲームに興じるカスミと翔子の後ろを通り過ぎていく。
――――通り際、青年が一瞬だけこちらを見た。清壱は目を合わせなかった、彼は造り笑顔で乱反射するパックを追い、ホッケーゲームに夢中になっているかのように装った。
彼が清壱から目線を外しこちらに背を向けたのと、ラリー中だったパックをカスミが打ちだしたのは同時の事だった。彼女の放ったパックは清壱側のゴールに吸い込まれ、軽やかなファンファーレ音と共にスコアが11-1へと変化する。
「やったー!」
カスミが白いマレットを置いてガッツポーツを取る。
「やりましたねセンパイ!」
翔子もマレットを置くとカスミを称賛し、互いにハイタッチする。
「「いえーい!」」
「どうですかイチくん! 悔しいですか!? 悔しいですよね!」
翔子が胸を張ってわざと偉そうな態度を取るが、サングラスを外した清壱の表情は底の見えない暗闇のようで、その虚無の瞳を見つめた翔子は、自身の心臓が急に冷えたかのように錯覚する。
清壱は声を発さなかったが、無言で「イヤホンを装着」「追跡」の2つのジェスチャーを出し、子供を抱えた男の背中を一瞬だけ指差す。
「えっ……?」
翔子は呆気に取られるが、声を発しない清壱の「行け」という厳しい催促を唇の動きから読み取ると、彼女はすぐにポケットから無線イヤホンを取り出し、一瞬だけ横を向いた。こうしている間にも青年は子供を連れたままエレベーターへと向かっている。
そこから翔子が状況を完全に理解するまで3秒、呆然とした表情の翔子の瞳が一瞬だけ収縮し、その瞳に突如生気と意思が宿った。
状況を理解できず、目をぱちくりとさせるカスミをよそに「わかりました」と、翔子は頷いて追跡に向かう。
男を追跡する翔子が無線イヤホンを左耳に装着したのを確認して、清壱が通信を送った。
『無間から夜蜂へ、聴こえている場合ノックで返答しろ』
翔子は声で返答する代わりに、一度だけイヤホンを指で叩いた。通信時に発声できない状況下のプロトコルで、YESなら1回、NOなら2回、それ以外は3回のノックで返答する決まりになっていた。
『よし、追跡対象は子供を抱えた男だ、わかるか』
するとトン、とノック音のノイズが返って来る。
『こちらワカウカ2、一体何事ですか?』
『トラブル発生、誘拐とおぼしき事案、加害者・被害者共に最優先事項との関連は無し、重要護衛対象は問題なし。私が護衛に付き、ニニギ18に追跡を行わせている』
『さらったのも、さらわれたのも、無関係の子、ということですか?』
『済みません、放ってもおけず』
正直、無関係の事件に首を突っ込むことを清壱は余り良い事と思っていない。優先事項と天秤にかけた場合、通常は見殺しにすべき事案であるが……つい「欲」が出た。
清壱自身は最重要護衛対象のカスミの傍を離れる訳にはいかない。だが翔子はと言うと、申し訳無いが彼女の存在は戦力としては元々勘定されていないため、行かせるだけの余裕があると判断した。
『何故謝るのです。あなたの判断は正しいです』
『顕教、18のカバーに向かえるか』
『はいはい、いつでも行けますよ』
と、顕教からもすぐに応答が返って来る。
翔子は早足で男を追うが、追跡対象がエレベーターに乗り込んでしまった。扉が閉まると翔子はエレベーターの近くまで走り……エレベーターが3階から下に向かっていくランプを見ると、舌打ちしてから階段を駆け下りる。
『交戦規定を述べる。ニニギ1が到着するまでニニギ18は交戦禁止、追跡に徹しろ』
清壱がそのように指示したが、耳にした翔子は顔をしかめた。
「そんな! 攻撃されたら?」
『逃げろ、絶対に戦うな。繰り返す。ニニギ1が来るまで戦闘は禁止』
「無理ですよ!」
一階に降りた翔子が抗議する。エレベーターは地下一階にまで降りていた、地下にはゲームコーナーは無い、彼女はクラヴ・セマガの案内看板を見た。地下一階は……駐車場だ。
『命令だ、厳守。復唱できないなら追跡を中断しろ』
翔子の顔が蒼ざめたが、それを知ってか知らずか清壱が厳しい口調で翔子に命令し、交戦規定の順守を強制する。
「中断!? 本気ですか!?」
『本気だ』
翔子はエレベーターのボタンを押した、無線には気まずい沈黙が流れる。
「地下駐車場に行ったと思います。……私、追います、放って置けません」
翔子が報告と同時、追跡を決心する。しかし…………
『駄目だ。ニニギ18その場で待機』
清壱の裁定は厳しかった。彼は翔子がこれ以上の追跡任務には適さないと判断し、彼女から追跡の役割を取り上げたのだ。
『ニニギ1へ、急ぎで駐車場出口を抑えて、出て行く車をチェックしろ』
『了解、超急ぐッス』
そして代わりに顕教を走らせた。こうすれば現行犯で捕まえる事こそできないが、映像記録によって誘拐犯の車両を後で割り出すことが出来るからだ。
だが…………翔子にとっては、初めて感じる屈辱だった。
「……どうしてそういう事、言うんですか」
巌石師範代から彼の話を何度聞かされただろう、彼の武勇伝を聞かされ、ずっと密かに憧れていた。実際に出会ってみると、話に聞かされていた以上だった。
彼に初めて稽古をつけて貰った後「この人に認めて貰いたい」と、密かに思い始めていた。
なのに、なんで。
翔子がその瞳に涙を浮かべ、涙声で悔しさを口からこぼす。
――――無間センセイの……バカ!!!
翔子は無線イヤホンを外すと、清壱の命令を無視してエレベーターに乗り込み、地下駐車場まで誘拐犯を追いかけた。
「もうここは満足したかい」
かき氷を食べ終え、アジアン雑貨店で小物を見たり、小籠包のつまみ食いをした後に、入口の朝陽門手前で清壱が最終確認のように尋ねる。
「うーん」
小籠包の最後の一つを口に頬張りながらカスミが唸る。中華街もそこそこ見て回った、流石にもう無いか。清壱が胸を撫で下ろしかけた時だった。「あれ!」鶴の一声と共に翔子が指差したのは蒼い朝陽門――――の隣の同じく青い、やや大きな建物だ。
まだ点灯されていない赤いネオンサインには「GAME」と書かれているのは最高だ、何せ一目でこれが何の施設なのかわかる。大手ゲーム会社のSE―MAGA社の経営するゲームセンター「クラヴ・セマガ」の店舗だった。
「ゲームセンター?」
「うん、観たい映画、まだ時間あるから。それまでここ行きましょうよ」
「賛成、音ゲーとかやりたい」
「あのビル、ダンスゲームとか音ゲー無いもんね」
「”ドラム式洗濯機”を置く余裕はウチに無くてな……」
清壱がゲームセンターに置かれたリズムゲームのある筐体の事を揶揄する。
「ガンシューティングはあるのに」
「あれは訓練になる」
「じゃあメタルスラッグは……」
「あれは……楽しい」
月照支部の地下にいくつか置かれたビデオゲーム筐体の事を思い出すと、清壱は古き良き80、90年代のアーケードゲームに思いを馳せた。
ハイエンドPCで遊ぶ外国製のゲームや古き良き80、90年代レトロゲームに肩入れする清壱にとって、ゲームセンターとは基本的には退屈……いや、がっかりさせられるものだ。なぜなら、どこの店に行っても置いてあるものはどれも同じ、クレーンゲームと麻雀ゲームとカードゲーム、通常のアーケードゲームは今やオマケ扱いさえされず、対戦ゲームが少々あれはマシな方。
――――でもまあ、それでもこの店舗はその他の没個性ゲームセンターに比べると二回りは面白みがある。入店してすぐ、体感ゲームやいくつかのアーケードゲームの存在を確認すると清壱はそれらに若干の関心を寄せた。
「イチくん、ゲームするんですよね」
「誰から聞いたんだ?」
「カスミちゃんから。それに――――よく一人でゲームしてるじゃないですか」
「俺、そんなに遊んでるかな……」
本人としてはあまりそうは思っていなかったが「それなりに?」と翔子が答えると、彼は日頃の生活態度を自省せざるを得なくなる。
「まあ、いいじゃないですかあ」
そんな事より遊びましょうよ。と、翔子は清壱とカスミの手を引いてゲームセンターの奥へと進んでいった。
清壱は少女らがダンスゲームやスキーの体感ゲームをプレイするのを見守り、プリクラを三人で撮ろうと言われれば断固拒否。
プライズゲームでは実力を見せろとせがまれるも……古武術の達人であっても確率設定されているような代物はどうにもならず、なんとか諦めさせ……。途中、ゲームコーナーの隅、もはや誰も関心を示さないような古いアーケード筐体の一つに心惹かれるも、少女たちのお守りのために我慢しつつ、少女らがライド型のガンシューティングを遊ぶのを見守ったりする。
そしておよそ30分後……彼は虚無の瞳を湛えながらエア・ホッケーゲームをプレイしていた。
彼は日頃の稽古以上の疲労を感じつつも、対する少女二人相手に無言・無表情で完封し続けていた。二人がかりで挑む少女らは何とか清壱側のゴールに円形・水色のパックを入れようとするが、彼は精確なブロックで確実にこれを防ぎ、少女側は逆に彼の攻撃を防げない。
「実力差を人数でカバーしようとするのは良い判断だが――――」
清壱は白いマレットを動かすと、飛来してくる円形のパックを打ち、壁に当たっての反射を利用してまたも少女側のゴールへ叩きこんだ。
「まだまだだな」
憎たらしいファンファーレ音と共にスコア表示が11-0に変化する。翔子は金切声をあげて悔しさをアピールするも、この無慈悲な戦いには何の変化ももたらさない。清壱は以前完封継続中だ。
「えー、ヤダー……、イチさんなんでそんな強いの……」
と、カスミがうんざりした表情でぼやく。
「さあ? 日頃の稽古の成果、かな」
「なんかテキトー……」
「センパイ! 絶対この人から1点取ろう!」
翔子はいつの間にか勝つ事ではなく、1点取る事が目的になっていたが、カスミもこれに同調し気合を入れる。
京子、安斎から特に連絡は無い、15分ごとに「異常なし」の報告が上がって来るのみで、平穏極まる。清壱が一瞬視線を横に逸らす、エアホッケー台から手洗いの入口が見える。
「お母さん、ちょっとお手洗いに行ってくるからね、ここで大人しくしてなさいよ」
クリーム色のサファリハットを被った女性が、まだ5・6歳程度だろうか、息子とおぼしき子供に言い聞かせている光景がチラりと見えた。
「隙あり!」
その隙を狙って翔子が円形のパックを打ちだすものの、清壱は――――飛来してくるパックを白いマレットで上から抑えつけ、キャッチしてみせた。
「悪くないが、相手の誘い込みに気を付ける事だね」
清壱は無表情で憎たらしいアドバイスをすると、パックを打ちだして返却する。間一髪、カスミがパックを弾いて、ゴールさせられる事だけは免れる。
それを起点に激しいラリーの攻防になるが、ひいひい言いながら必死の様子の少女二人に対して清壱の表情は「無」そのもので、何の感情の起伏も感じられず、目も据わっていて目線の動きさえも感じられない……まるでブルタル・エアホッケー・サイボーグだ。
その間も、トイレへと続く通路手前のベンチに座った小さな子供は母親を待っていたが、そこに一人の青年が現れると、子供を抱きかかえた。
「えっ、お母さ」
子供が母親を呼ぼうとしたが、男は子供の口を自分の胸元に押し当てて、大声が出せないようにした。青年は子供を抱きかかえたまま早足でその場を離れ、エア・ホッケーゲームに興じるカスミと翔子の後ろを通り過ぎていく。
――――通り際、青年が一瞬だけこちらを見た。清壱は目を合わせなかった、彼は造り笑顔で乱反射するパックを追い、ホッケーゲームに夢中になっているかのように装った。
彼が清壱から目線を外しこちらに背を向けたのと、ラリー中だったパックをカスミが打ちだしたのは同時の事だった。彼女の放ったパックは清壱側のゴールに吸い込まれ、軽やかなファンファーレ音と共にスコアが11-1へと変化する。
「やったー!」
カスミが白いマレットを置いてガッツポーツを取る。
「やりましたねセンパイ!」
翔子もマレットを置くとカスミを称賛し、互いにハイタッチする。
「「いえーい!」」
「どうですかイチくん! 悔しいですか!? 悔しいですよね!」
翔子が胸を張ってわざと偉そうな態度を取るが、サングラスを外した清壱の表情は底の見えない暗闇のようで、その虚無の瞳を見つめた翔子は、自身の心臓が急に冷えたかのように錯覚する。
清壱は声を発さなかったが、無言で「イヤホンを装着」「追跡」の2つのジェスチャーを出し、子供を抱えた男の背中を一瞬だけ指差す。
「えっ……?」
翔子は呆気に取られるが、声を発しない清壱の「行け」という厳しい催促を唇の動きから読み取ると、彼女はすぐにポケットから無線イヤホンを取り出し、一瞬だけ横を向いた。こうしている間にも青年は子供を連れたままエレベーターへと向かっている。
そこから翔子が状況を完全に理解するまで3秒、呆然とした表情の翔子の瞳が一瞬だけ収縮し、その瞳に突如生気と意思が宿った。
状況を理解できず、目をぱちくりとさせるカスミをよそに「わかりました」と、翔子は頷いて追跡に向かう。
男を追跡する翔子が無線イヤホンを左耳に装着したのを確認して、清壱が通信を送った。
『無間から夜蜂へ、聴こえている場合ノックで返答しろ』
翔子は声で返答する代わりに、一度だけイヤホンを指で叩いた。通信時に発声できない状況下のプロトコルで、YESなら1回、NOなら2回、それ以外は3回のノックで返答する決まりになっていた。
『よし、追跡対象は子供を抱えた男だ、わかるか』
するとトン、とノック音のノイズが返って来る。
『こちらワカウカ2、一体何事ですか?』
『トラブル発生、誘拐とおぼしき事案、加害者・被害者共に最優先事項との関連は無し、重要護衛対象は問題なし。私が護衛に付き、ニニギ18に追跡を行わせている』
『さらったのも、さらわれたのも、無関係の子、ということですか?』
『済みません、放ってもおけず』
正直、無関係の事件に首を突っ込むことを清壱は余り良い事と思っていない。優先事項と天秤にかけた場合、通常は見殺しにすべき事案であるが……つい「欲」が出た。
清壱自身は最重要護衛対象のカスミの傍を離れる訳にはいかない。だが翔子はと言うと、申し訳無いが彼女の存在は戦力としては元々勘定されていないため、行かせるだけの余裕があると判断した。
『何故謝るのです。あなたの判断は正しいです』
『顕教、18のカバーに向かえるか』
『はいはい、いつでも行けますよ』
と、顕教からもすぐに応答が返って来る。
翔子は早足で男を追うが、追跡対象がエレベーターに乗り込んでしまった。扉が閉まると翔子はエレベーターの近くまで走り……エレベーターが3階から下に向かっていくランプを見ると、舌打ちしてから階段を駆け下りる。
『交戦規定を述べる。ニニギ1が到着するまでニニギ18は交戦禁止、追跡に徹しろ』
清壱がそのように指示したが、耳にした翔子は顔をしかめた。
「そんな! 攻撃されたら?」
『逃げろ、絶対に戦うな。繰り返す。ニニギ1が来るまで戦闘は禁止』
「無理ですよ!」
一階に降りた翔子が抗議する。エレベーターは地下一階にまで降りていた、地下にはゲームコーナーは無い、彼女はクラヴ・セマガの案内看板を見た。地下一階は……駐車場だ。
『命令だ、厳守。復唱できないなら追跡を中断しろ』
翔子の顔が蒼ざめたが、それを知ってか知らずか清壱が厳しい口調で翔子に命令し、交戦規定の順守を強制する。
「中断!? 本気ですか!?」
『本気だ』
翔子はエレベーターのボタンを押した、無線には気まずい沈黙が流れる。
「地下駐車場に行ったと思います。……私、追います、放って置けません」
翔子が報告と同時、追跡を決心する。しかし…………
『駄目だ。ニニギ18その場で待機』
清壱の裁定は厳しかった。彼は翔子がこれ以上の追跡任務には適さないと判断し、彼女から追跡の役割を取り上げたのだ。
『ニニギ1へ、急ぎで駐車場出口を抑えて、出て行く車をチェックしろ』
『了解、超急ぐッス』
そして代わりに顕教を走らせた。こうすれば現行犯で捕まえる事こそできないが、映像記録によって誘拐犯の車両を後で割り出すことが出来るからだ。
だが…………翔子にとっては、初めて感じる屈辱だった。
「……どうしてそういう事、言うんですか」
巌石師範代から彼の話を何度聞かされただろう、彼の武勇伝を聞かされ、ずっと密かに憧れていた。実際に出会ってみると、話に聞かされていた以上だった。
彼に初めて稽古をつけて貰った後「この人に認めて貰いたい」と、密かに思い始めていた。
なのに、なんで。
翔子がその瞳に涙を浮かべ、涙声で悔しさを口からこぼす。
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