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第五章 ‐ いつか星の海で ‐
057話「イリーガル・テイクアウト:2」
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第57話「イリーガル・テイクアウト:2」
待機命令を無視した翔子は無線イヤホンの電源を落とし、顔を泣き腫らしながらエレベーターを降りた。
クラヴ・セマガの地上1階7割と地下1階の全ては駐車場となっており、ゲームセンターの利用客に留まらず、その他中華街観光客の駐車スペースとしてももっぱら利用されていて、その収益は決して無視できないものとなっている。
地下駐車場に出た翔子こと武号「夜蜂」は辺りを見回すが、子供を連れた男がどこに行ったのか、わからない。
完全に見失いかけていたが「お母さん!」と助けを求める男児の悲鳴を聞き取った彼女は声の方向へと走る。
勢いの良い足音が地下駐車場にやけに響くせいで、男児を抱える青年も流石に自分を追いかけて来る夜蜂の存在に気が付き、振り向いた。
・草薙 翔子
号「夜蜂」
――――「拡張古武術:夜陰流」無段。合気道██会 四級。
対
・村隈 亜須呂
――――格闘技、武術経験一切無し。
「待ちなさい!」
夜蜂が男を大声で咎めたが、誘拐犯は自分の車に向かって一目散に走り、夜蜂から距離を離そうとする。
「待ってって言ってるでしょうが!!」
涙で瞳を充血させた夜蜂が怒鳴り付け、逃げる誘拐犯を追う。夜蜂はこの年頃の日本人女性としてはかなり背の高い方で足も相応、モデルのように長い。体力も並の女子高生以上にはあり、一方相手は成人男性とはいえ子供一人を抱えた状態、夜蜂はどんどん距離を詰めてゆく。
しかし誘拐犯の青年は自分の車まで辿り着き、キーロックを解除するとドアに手をかける。
「逃がさない!」
翔子は自分のシャツに下から手を突っ込むと、ブラジャーの間に隠した棒手裏剣の一本を引き抜く。
彼女はその場で投擲姿勢を取り――――。
「うっ……」
投擲直前、彼女は自分の愚かさに気が付いて、棒手裏剣攻撃を中断した。
――――今まで手裏剣の練習はどれぐらいしただろうか? 彼女の胸を自問自答が急激に突き抜けたのは幸運な事で、彼女は賢かった。
手裏剣術の会得には相応の訓練、そして設備が必要だ。ゆえに、これまで数えるほどしかその訓練機会が得られておらず、本格的な訓練はここ最近、月照支部に来てから始めたばかりだ。
”直打法”と呼ばれる棒手裏剣投擲は通常のナイフ投げと比較して高い殺傷能力を持つが、完全な体得には相応の訓練を必要とする。彼女はまだ完全には”直打法”を体得しておらず、投擲しても刺さらない恐れがある。
しかし「刺さらない」のなら”ラッキー”だ。五段以上の指導者クラスと比較して、その照準にはまだかなりの乱れがあり、命中率は安定しない。
――――誘拐犯に当てるつもりで投げて、もし「男の子」の方に当ててしまったら?
条件次第では大型拳銃弾並の破壊力を発揮するとも、嘘か真かスイカに命中すれば内部の果肉をぐちゃぐちゃに破砕する事もさえあるとさえ云われる手裏剣。それが万一にも誤射によって5,6歳の子供の側頭部に着弾してしまった場合、子供の命は保障されるだろうか? ――――それよりもその子の葬儀の時に、棺を開けられる状態かどうかを賭けた方が、まだ幾分マシな賭けになるだろう。
夜蜂は咄嗟に投擲方向を変更し、見当違いの方向に棒手裏剣を投擲した。威嚇射撃のつもりで放った棒手裏剣は正しい直打法の投擲軌道を描かず、別の車のサイドドアに不本意な角度で命中し、刺さる事さえなく地面に落ちた。
「動かないで!」
物音で一瞬相手の動きが止まったのを好機とみて、夜蜂が制止を呼びかける。しかし彼女が二本目の棒手裏剣を取り出そうとするのは隙だらけで、誘拐犯は後部座席の扉を開けると男児をその中に放り込んでしまう。
もう一本、夜蜂が棒手裏剣を投擲した。今度も焦りのせいで投擲が上手く行かず、狙っていたよりもずっと飛距離が足りずに地面に落ちてしまう。
(ウソ、なんで!? 練習の時はもうちょっと上手く投げられたのに!!)
取り乱した夜蜂は次の棒手裏剣を取り出そうとするが、胸には二本しか備えておらず、あとはエア・ホッケーの時、地面に置いたポーチの中に入れっぱなしである事に気づく。
拳銃ならまだしも、手裏剣の脅威に馴染みの無い誘拐犯は何かを投げつけられたことには気づくも、その正体までは深く考えないため抑止力にならない。彼は夜蜂を無視して強引に車に乗り込もうとする。
「待って!」
夜蜂はそれをさせまいと走り、車内に逃げ込もうとする男性に組み付いた。
「離せ!」
手を掴まれた男性が少女の手を振りほどこうとする。夜蜂は合気道の「小手返し」に極めて類似する手首関節技「表・木葉」を掛けた。
関節は極まるかと思われたが、未だ無段の彼女は、技の掛け方が無間や銀蘭はおろか、顕教よりもずっと弱く、手首を完全に極められず、成人男性の腕力で強引に跳ね返されてしまう。
「痛っ……てえ!」
これが逃げに徹していた誘拐犯の男性を逆上させてしまう悪手になってしまった。男性はフリーになった左手で夜蜂の胸倉を掴み、隣の乗用車に叩きつける。
「かはっ!」
夜蜂が後頭部を軽く打ち、目を白黒させる。先までとは打って変わり、怒りと破壊衝動に身を委ねようとしている男の表情が視界に入る。相手はもっと歳の行った男だと勝手に思い込んでいた夜蜂は、男がまだ20代から30代前半ぐらいの比較的若く、パワーのある相手である事にようやく気づき、危機感を覚えた。
夜蜂が反撃の拳を放つ、夜蜂の長い腕が相手の頬に届いた。
そのはずなのに、相手は倒れなかった。彼女の放ったのは足腰の載っていない手打ちの拳であり、ノックアウトのためには威力が不足していた。総合的な体格はともかく、夜蜂より背丈の劣る無間であっても技量さえあればノックアウトないし形勢逆転の一撃を放つ事が出来た筈だったが、彼女にはその技量もまだ不足している。
逃げろ、絶対に戦うな。無間の厳しい言葉が夜蜂の心の中でリフレインするが、自ら戦いを仕掛けてしまった現状、逃げる事さえ既に容易な事では無くなっている。
男は翔子の左胸を掴んで離してくれない。こういう時の技はいくつか学んだはずなのに、すぐに技が出てこない。大外掛を仕掛ける事を検討したが、車と車の間の限られたスペースでの格闘中で有効な技ではなく、相手の力の方が強く技に入れない。
相手が体重差にものを言わせ、左手を引き寄せながら強烈な右のテレフォンパンチを放った。
素人のパンチの攻撃速そのものは遅いが間合いが非常に近いため、相対速度の関係で夜蜂の視点からは早い拳のように感じられた。
背筋を凍らせた夜蜂は間一髪、その場で腰を思い切り低くし、左上腕避け体勢による「クラシックスタンス」の構えの一つへと移行していた。思いついたわけではない、命の危機を感じ、体が自然に動いた結果だった。
頭上を大振りの拳が通り抜け、地下の生温い湿気った空気が少女の髪を撫でる。素人の拳とはいえ、まともに喰らっていたら鼻を折られていたかもしれない。緊張と恐怖で少女の心臓が激しい鼓動を打ち、その心音が頭にまで響いてくる。
少女は自身の胸倉を掴んだままの男の手を、掴み返す。彼女の腕力と今の未熟な技量では、性別と体重が生む力の差を覆すことが出来ず、即ち掴み手を切る事が出来ない。
…………だが、今の彼女の技量でも使うことが出来て、かつ状況を脱する事の出来る奥の手が一つあったのだ。
「ヤーッッ!!」
夜蜂が声を震わせながらも気合を込めると、男の小指を掴み、力の限り逆方向に捻った。
・夜陰流 『指限』
『格闘技では禁じ手とされる指関節技。非常に危険であると同時、非力な女性や老人であっても体格差を覆し得るである技でもある為、夜陰式護身術教室でも護身術として教伝される技』
「ぐあっ!」
男性が低い声の悲鳴を小さくあげると仰け反った。男の小指と中指が少女の掌の中にあり、まだ折れてはいないものの、関節の痛みから逃れようと男の踵が自然と浮き上がる。
「影ッッ!!」
夜蜂は相手の指を極めたまま一度左半身を引き、左足で踏み込み直しながらの縦拳を放つ。
・夜陰流 『流星拳』
『いわゆる縦拳による追い突きの変形型で、最も初歩の打撃技。重心を落としながら全体重を拳先に集中させる一撃は強力で、達人級の者が用いた場合、小柄な者であっても瞬間的に力士の一撃に匹敵する運動エネルギーを引き出す事が理論上は可能。初歩技であると同時、極めれば一撃必殺の奥義と化す』
もっとも夜蜂のそれは流星支部長の流星師範の放つ、力士の身体さえ浮かせる一撃必殺の縦拳には程遠い。それでも形がそこまでひどいわけではなく、実際重心はきちんと落ちていた、カルチャー教室でならその点は評価されただろう。
彼女の拳の狙いは良く、左拳が敵の胸骨を捉えた。千枚通しで骨を削られるかのような未知の痛みに呻き、男は胸を抑えてよろめいた。有効打だ。
――――だがやはり、師範クラスの目線での合格点には届かなかった。打撃の姿勢に乱れあり、肩関節の固定がうまくいっていない為に打撃によって生じる運動エネルギーが左背中の肩甲骨から後ろに漏れてしまう。
そのため全力で放った急所への縦拳突きのはずが、男をノックアウトさせるに至らない。これは体格や性差を論じる以前の問題で、単純な格闘技量の不足によって発生した運動エネルギーのロスに起因するトラブルだった。
「痛……っっ!!」
悲鳴の大きかったのは夜蜂の方だった。相手の体勢が崩れた絶好の追撃チャンスにありながら、少女はなぜか退いてしまう。夜蜂が苦悶の表情で自身の左手に目をやった。外見上の変化はなかったものの左拳は痛み、とくにひどいのは左手首で、痛みが奔り力が入らない。
打撃の際に手首の固定がしっかり出来ておらず、手首の曲がった状態で無理に打った結果負う事となった自爆ダメージだ。
――――人間は欠陥動物だ。獣と比べてその牙は弱く、その爪は脆く、熊やゴリラのような怪力さえもなく非力そのもの、拳で相手を殴ればその非力にさえ耐えられず、簡単に拳を壊す、手首を壊す、肘を壊す、肩を壊す…………素人が安易に人を殴った時、相手が壊れるより自分の壊れる危険性の方が高いぐらいだ。
「ウオアあああああっ!」
誘拐犯の男は狂った獣のように吼え、少女の腹部に蹴りを入れた。素人特有のキックであったがスニーカーの先端が少女の柔らかい腹部に刺さり、夜蜂は苦し気な声を漏らす。
追い討ちの右のテレフォンパンチが飛んできたのは、その直後だった。
待機命令を無視した翔子は無線イヤホンの電源を落とし、顔を泣き腫らしながらエレベーターを降りた。
クラヴ・セマガの地上1階7割と地下1階の全ては駐車場となっており、ゲームセンターの利用客に留まらず、その他中華街観光客の駐車スペースとしてももっぱら利用されていて、その収益は決して無視できないものとなっている。
地下駐車場に出た翔子こと武号「夜蜂」は辺りを見回すが、子供を連れた男がどこに行ったのか、わからない。
完全に見失いかけていたが「お母さん!」と助けを求める男児の悲鳴を聞き取った彼女は声の方向へと走る。
勢いの良い足音が地下駐車場にやけに響くせいで、男児を抱える青年も流石に自分を追いかけて来る夜蜂の存在に気が付き、振り向いた。
・草薙 翔子
号「夜蜂」
――――「拡張古武術:夜陰流」無段。合気道██会 四級。
対
・村隈 亜須呂
――――格闘技、武術経験一切無し。
「待ちなさい!」
夜蜂が男を大声で咎めたが、誘拐犯は自分の車に向かって一目散に走り、夜蜂から距離を離そうとする。
「待ってって言ってるでしょうが!!」
涙で瞳を充血させた夜蜂が怒鳴り付け、逃げる誘拐犯を追う。夜蜂はこの年頃の日本人女性としてはかなり背の高い方で足も相応、モデルのように長い。体力も並の女子高生以上にはあり、一方相手は成人男性とはいえ子供一人を抱えた状態、夜蜂はどんどん距離を詰めてゆく。
しかし誘拐犯の青年は自分の車まで辿り着き、キーロックを解除するとドアに手をかける。
「逃がさない!」
翔子は自分のシャツに下から手を突っ込むと、ブラジャーの間に隠した棒手裏剣の一本を引き抜く。
彼女はその場で投擲姿勢を取り――――。
「うっ……」
投擲直前、彼女は自分の愚かさに気が付いて、棒手裏剣攻撃を中断した。
――――今まで手裏剣の練習はどれぐらいしただろうか? 彼女の胸を自問自答が急激に突き抜けたのは幸運な事で、彼女は賢かった。
手裏剣術の会得には相応の訓練、そして設備が必要だ。ゆえに、これまで数えるほどしかその訓練機会が得られておらず、本格的な訓練はここ最近、月照支部に来てから始めたばかりだ。
”直打法”と呼ばれる棒手裏剣投擲は通常のナイフ投げと比較して高い殺傷能力を持つが、完全な体得には相応の訓練を必要とする。彼女はまだ完全には”直打法”を体得しておらず、投擲しても刺さらない恐れがある。
しかし「刺さらない」のなら”ラッキー”だ。五段以上の指導者クラスと比較して、その照準にはまだかなりの乱れがあり、命中率は安定しない。
――――誘拐犯に当てるつもりで投げて、もし「男の子」の方に当ててしまったら?
条件次第では大型拳銃弾並の破壊力を発揮するとも、嘘か真かスイカに命中すれば内部の果肉をぐちゃぐちゃに破砕する事もさえあるとさえ云われる手裏剣。それが万一にも誤射によって5,6歳の子供の側頭部に着弾してしまった場合、子供の命は保障されるだろうか? ――――それよりもその子の葬儀の時に、棺を開けられる状態かどうかを賭けた方が、まだ幾分マシな賭けになるだろう。
夜蜂は咄嗟に投擲方向を変更し、見当違いの方向に棒手裏剣を投擲した。威嚇射撃のつもりで放った棒手裏剣は正しい直打法の投擲軌道を描かず、別の車のサイドドアに不本意な角度で命中し、刺さる事さえなく地面に落ちた。
「動かないで!」
物音で一瞬相手の動きが止まったのを好機とみて、夜蜂が制止を呼びかける。しかし彼女が二本目の棒手裏剣を取り出そうとするのは隙だらけで、誘拐犯は後部座席の扉を開けると男児をその中に放り込んでしまう。
もう一本、夜蜂が棒手裏剣を投擲した。今度も焦りのせいで投擲が上手く行かず、狙っていたよりもずっと飛距離が足りずに地面に落ちてしまう。
(ウソ、なんで!? 練習の時はもうちょっと上手く投げられたのに!!)
取り乱した夜蜂は次の棒手裏剣を取り出そうとするが、胸には二本しか備えておらず、あとはエア・ホッケーの時、地面に置いたポーチの中に入れっぱなしである事に気づく。
拳銃ならまだしも、手裏剣の脅威に馴染みの無い誘拐犯は何かを投げつけられたことには気づくも、その正体までは深く考えないため抑止力にならない。彼は夜蜂を無視して強引に車に乗り込もうとする。
「待って!」
夜蜂はそれをさせまいと走り、車内に逃げ込もうとする男性に組み付いた。
「離せ!」
手を掴まれた男性が少女の手を振りほどこうとする。夜蜂は合気道の「小手返し」に極めて類似する手首関節技「表・木葉」を掛けた。
関節は極まるかと思われたが、未だ無段の彼女は、技の掛け方が無間や銀蘭はおろか、顕教よりもずっと弱く、手首を完全に極められず、成人男性の腕力で強引に跳ね返されてしまう。
「痛っ……てえ!」
これが逃げに徹していた誘拐犯の男性を逆上させてしまう悪手になってしまった。男性はフリーになった左手で夜蜂の胸倉を掴み、隣の乗用車に叩きつける。
「かはっ!」
夜蜂が後頭部を軽く打ち、目を白黒させる。先までとは打って変わり、怒りと破壊衝動に身を委ねようとしている男の表情が視界に入る。相手はもっと歳の行った男だと勝手に思い込んでいた夜蜂は、男がまだ20代から30代前半ぐらいの比較的若く、パワーのある相手である事にようやく気づき、危機感を覚えた。
夜蜂が反撃の拳を放つ、夜蜂の長い腕が相手の頬に届いた。
そのはずなのに、相手は倒れなかった。彼女の放ったのは足腰の載っていない手打ちの拳であり、ノックアウトのためには威力が不足していた。総合的な体格はともかく、夜蜂より背丈の劣る無間であっても技量さえあればノックアウトないし形勢逆転の一撃を放つ事が出来た筈だったが、彼女にはその技量もまだ不足している。
逃げろ、絶対に戦うな。無間の厳しい言葉が夜蜂の心の中でリフレインするが、自ら戦いを仕掛けてしまった現状、逃げる事さえ既に容易な事では無くなっている。
男は翔子の左胸を掴んで離してくれない。こういう時の技はいくつか学んだはずなのに、すぐに技が出てこない。大外掛を仕掛ける事を検討したが、車と車の間の限られたスペースでの格闘中で有効な技ではなく、相手の力の方が強く技に入れない。
相手が体重差にものを言わせ、左手を引き寄せながら強烈な右のテレフォンパンチを放った。
素人のパンチの攻撃速そのものは遅いが間合いが非常に近いため、相対速度の関係で夜蜂の視点からは早い拳のように感じられた。
背筋を凍らせた夜蜂は間一髪、その場で腰を思い切り低くし、左上腕避け体勢による「クラシックスタンス」の構えの一つへと移行していた。思いついたわけではない、命の危機を感じ、体が自然に動いた結果だった。
頭上を大振りの拳が通り抜け、地下の生温い湿気った空気が少女の髪を撫でる。素人の拳とはいえ、まともに喰らっていたら鼻を折られていたかもしれない。緊張と恐怖で少女の心臓が激しい鼓動を打ち、その心音が頭にまで響いてくる。
少女は自身の胸倉を掴んだままの男の手を、掴み返す。彼女の腕力と今の未熟な技量では、性別と体重が生む力の差を覆すことが出来ず、即ち掴み手を切る事が出来ない。
…………だが、今の彼女の技量でも使うことが出来て、かつ状況を脱する事の出来る奥の手が一つあったのだ。
「ヤーッッ!!」
夜蜂が声を震わせながらも気合を込めると、男の小指を掴み、力の限り逆方向に捻った。
・夜陰流 『指限』
『格闘技では禁じ手とされる指関節技。非常に危険であると同時、非力な女性や老人であっても体格差を覆し得るである技でもある為、夜陰式護身術教室でも護身術として教伝される技』
「ぐあっ!」
男性が低い声の悲鳴を小さくあげると仰け反った。男の小指と中指が少女の掌の中にあり、まだ折れてはいないものの、関節の痛みから逃れようと男の踵が自然と浮き上がる。
「影ッッ!!」
夜蜂は相手の指を極めたまま一度左半身を引き、左足で踏み込み直しながらの縦拳を放つ。
・夜陰流 『流星拳』
『いわゆる縦拳による追い突きの変形型で、最も初歩の打撃技。重心を落としながら全体重を拳先に集中させる一撃は強力で、達人級の者が用いた場合、小柄な者であっても瞬間的に力士の一撃に匹敵する運動エネルギーを引き出す事が理論上は可能。初歩技であると同時、極めれば一撃必殺の奥義と化す』
もっとも夜蜂のそれは流星支部長の流星師範の放つ、力士の身体さえ浮かせる一撃必殺の縦拳には程遠い。それでも形がそこまでひどいわけではなく、実際重心はきちんと落ちていた、カルチャー教室でならその点は評価されただろう。
彼女の拳の狙いは良く、左拳が敵の胸骨を捉えた。千枚通しで骨を削られるかのような未知の痛みに呻き、男は胸を抑えてよろめいた。有効打だ。
――――だがやはり、師範クラスの目線での合格点には届かなかった。打撃の姿勢に乱れあり、肩関節の固定がうまくいっていない為に打撃によって生じる運動エネルギーが左背中の肩甲骨から後ろに漏れてしまう。
そのため全力で放った急所への縦拳突きのはずが、男をノックアウトさせるに至らない。これは体格や性差を論じる以前の問題で、単純な格闘技量の不足によって発生した運動エネルギーのロスに起因するトラブルだった。
「痛……っっ!!」
悲鳴の大きかったのは夜蜂の方だった。相手の体勢が崩れた絶好の追撃チャンスにありながら、少女はなぜか退いてしまう。夜蜂が苦悶の表情で自身の左手に目をやった。外見上の変化はなかったものの左拳は痛み、とくにひどいのは左手首で、痛みが奔り力が入らない。
打撃の際に手首の固定がしっかり出来ておらず、手首の曲がった状態で無理に打った結果負う事となった自爆ダメージだ。
――――人間は欠陥動物だ。獣と比べてその牙は弱く、その爪は脆く、熊やゴリラのような怪力さえもなく非力そのもの、拳で相手を殴ればその非力にさえ耐えられず、簡単に拳を壊す、手首を壊す、肘を壊す、肩を壊す…………素人が安易に人を殴った時、相手が壊れるより自分の壊れる危険性の方が高いぐらいだ。
「ウオアあああああっ!」
誘拐犯の男は狂った獣のように吼え、少女の腹部に蹴りを入れた。素人特有のキックであったがスニーカーの先端が少女の柔らかい腹部に刺さり、夜蜂は苦し気な声を漏らす。
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