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10. 黒猫のナイト
しおりを挟む大魔女シオンがかつて精霊王から賜った、実り豊かな森──『聖域』には悪意あるものは足を踏み入れることができない。
魔素に満ちたその地は、魔法を使う者には垂涎の場所だ。使った魔力を回復するには最適の安全地帯なのだから。
だが、肝心の『聖域』の持ち主であるシオンにはその地はむしろ毒になった。
魔力過多症。使う魔力よりも回復量がそれを上回り、滞った魔力が体内で荒れ狂う。
まるで身に宿った寄生蟲に内臓を食い荒らされるような激痛に彼女はずっと苛まれていた。
美しい黄金の髪は色が抜け、げっそりと窶れてしまい、快活に笑っていた頃の面影はもう見当たらない。
のたうち、血の塊を吐きながら、彼女はそれでも生きることを諦めていなかった。
「未来視のスキルを使ったわ。私が生き延びる唯一の方法を見つけた。魔素のない世界へ移住することにする」
そうして彼女はこの世界を捨てて、異なる世界へと旅立ったのだ。
溢れる魔力を持て余す大魔女にとっても一世一代の大魔術。
ダンジョンの最奥で手に入れた転移の扉を魔改造して、異なる世界へと空間を繋げて、笑顔で旅立っていった。
残された者たちは呆然と彼女を見送るしかなかった。
このまま、この世界に残ったとしても、苦しみながら死んでいくしかない。そんな彼女の命を賭けた決断なのだ。
親しい者たちは、誰も止めることはできなかった。
だから、大魔女シオンの筆頭使い魔である黒猫のナイトも渋々と彼女の決断を応援した。
主である彼女がいなくなって、ナイトは『聖域』に引きこもった。
何をする気もおきなくて、日々をただ眠って過ごした。
あれからどのくらいの年月が経ったのか。
ふいに、懐かしい気配を感じた。
知っている魔法の術式が展開したのだと、すぐに理解して、慌てて飛び起きた。
これは、シオンのお気に入りのトランクが『開かれた』気配だ。
『シオンさまが帰って来た……!』
ぶわわっと背中の毛が興奮で逆立つのが分かる。こうしてはいられない。誰よりも真っ先に彼女のもとに駆け付けなくては。
(だってボクは大魔女シオンさまの筆頭使い魔だもの!)
精霊王が管轄する『聖域』は広大だ。
魔法のトランクが開かれた土地はここからかなり遠い場所にある。
ナイトは全身を魔力で強化して、風魔法を併用しながら素早く駆け出した。
久しぶりに全力を出し切ったから疲れそうなものなのに、気分はとんでもなく昂揚していた。
早く、彼女に会いたい。その胸に飛び込んで、全力で甘えてやるのだ。
そうして、少しばかり文句をぶつけて、最後には「おかえりなさい」と告げよう。
あれだけ苦しめられていた魔力過多症もきっと彼女ならどうにかして克服ができたのだろう。
ああ、彼女の帰還を知ったら、うるさい奴らが大勢駆け付けてきそうだ。
だけど、いま彼女にいちばん近い場所にいるのは、この自分。真っ先に「おかえり」を言えることが嬉しい。
湖を軽々と飛び越えて、着地する。
懐かしい彼女の家が見えた。
うっすらと弱々しいけれど、シオンの魔力を確かに感じる。
見たことのない形のイスに座る人影に気付いた。きっと、シオンだ。待ちくたびれて眠ってしまったのだろう。
『シオンさま……!』
ぴょん、と眠るその人の膝の上に飛び乗って、その体勢のままナイトは硬直した。
『──シオンさまじゃ、ない』
まだ年若い少女が深い眠りに耽っていた。明るい栗色の髪が青白い頬を彩っている。
目を瞑っているため、瞳の色は分からないが、その少女が痩せ細っていることにはすぐに気付いた。
おそらくは、未成年。あどけない表情をした、化粧っけもない小娘だ。
エルフの中でもとびきりの麗人であったシオンとは似ても似つかない──はずだったが。
(シオンさまと同じ色を纏っている……。魔力の質も同じ。どうして?)
分からない。
害意のある異物を排除するはずの『聖域』で、こんなにも無防備に熟睡するのだから、悪い奴ではないことは確かだろうけれど。
叩き起こして問いただしてもいいのだが、少女の様子を見て諦めた。
(体内の魔力が少なすぎる。生きているのが不思議なくらい。今は本能で『聖域』の魔素を吸収している真っ最中みたいだし、もう少しだけ待っていてやろう。ボクは紳士だからね)
ふすん、と鼻を鳴らすと、ナイトはその少女の膝の上で丸くなった。
少女が膝掛け代わりにしているブランケットはきっとシオンが使っていたものだ。
懐かしい匂いと心地よいぬくもりに包まれて、ナイトは自然と喉を鳴らしていた。
◆◇◆
そうして目覚めた少女により、ナイトは衝撃の事実を知る。
異世界に渡ったシオンはそこで現地の男と結ばれて八十年を楽しく生き抜いて、子や孫、曾孫たちに囲まれて亡くなったのだという。
エルフとしては短命だが、残りの人生を悔いなく全力で生きたことが知れて、寂しくはあったが、良かったと思う。
そうして、この少女こそが大魔女シオンの曾孫にして遺産相続人だと説明され、ナイトは肩を落としてしまった。
これは間違いない。しおらしく使い魔の任を解くなんて伝言をしておきながら、シオンはこの曾孫を自分に丸投げしたのだ。
(こんな頼りなくて、すぐに死んじゃいそうな子供を、ボクが放り出せるわけがないって自信満々に送り出したんだ!)
曾祖母とは真逆の、魔力枯渇症に苦しめられて育った、痩せっぽちの弱々しい少女。
このままナイトが知らん顔で放置していたら、きっとすぐに死んでしまう。
悪いニンゲンは何処にでもいるのだ。街の外には魔獣もいる。
詳しく聞き出した向こうの世界には魔素が皆無で、魔獣や魔物のような危険な生き物はいないと言う。
お屋敷で大事に囲われるようにして育ったお嬢さまが生きていくには過酷な世界なのだ、ここは。
(仕方ない。ボクが面倒を見てやらなきゃ。シオンさまの曾孫なら、ボクにとっても大事なニンゲンだもの)
どうせ、大慌てですっ飛んでくるシオンの友人たちも彼女の保護者になろうと躍起になるに違いない。
美味しいホットミルクに釣られたわけではないが。
「この世界のこと、色々教えてね? ナイト」
シオンと同じ色彩の翡翠色の瞳を細めて、優しい声音で名前を呼んでくれた少女のために。
すべてを包み込む夜、或いは騎士の名を持つ彼は「ナーゥ」と鳴いて頷いた。
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