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36. ルチア・グリフィス辺境伯
しおりを挟むルチア・グリフィスは、エルフの麗人だ。女性ながらにして立派に辺境の地を治めている。
風魔法と水魔法を得意としており、かつてこの地を魔物の氾濫から守ったことから、爵位と土地を国から賜った。
(私なぞより、もっと国に貢献したシオンさまにこそ相応しいのに)
ルチアは魔物を弾く結界を展開しただけなので、褒賞を辞退しようとしたのだが、当の英雄に止められたのだ。
『私は爵位や土地なんて必要ない。縛られるのは嫌なの。だから、面倒なことはすべて貴方に任せるわ。私の代わりにこの地の領主になってちょうだい』
魔物が氾濫したダンジョンを攻略し、見事にスタンピードを制したシオン。
彼女は大魔女の称号と莫大な褒賞金だけ手にすると、後の始末をルチアに任せてくれた。
エルフの中では出来損ないと軽視されていたルチアを、シオンは「とても賢くて勇気のある子よ」と認めてくれたのだ。
居場所を与えてくれたシオンのことを、ルチアは崇拝に近い感情で慕っていた。
だから、魔力過多症に苦しめられた彼女が姿を消した時には大いに嘆き悲しんだものだった。
異世界に転移など、できるはずがない。
賢者と呼ばれるエルフの長老でさえ、成功するなんて信じていなかったのだ。
(それが、まさか成功していたなんて。しかも、転移した世界で伴侶を見つけていらしたとは……)
病により寿命が削られていたため、エルフとしては短命だったようだが、幸せに生きた証をこうして残してくれたことが何より嬉しかった。
とはいえ、物申したいことはある。
ルチアは顔見知りの黒猫を恨めしげに見下ろした。
「シオンさまのことが知れたのは嬉しいけれど、もっと他の方法も取れたんじゃないのかい? ナイトくん」
黒猫は器用に肩を竦めてみせた。
『だって、この方が手っ取り早いもの。実際、キミは飛んできてくれたじゃないか』
「そりゃそうだろう! 私の大切な領内で突然、ドラゴンの魔力を感知したんだ。焦るに決まっている」
「まぁ、そう怒るな。リリィが怯えてしまう」
「それは失礼、レディリリィ。無作法で申し訳ない」
しれっとした表情で元凶の古竜に宥められて、ルチアは憮然とする。
辺境伯邸の執務室で書類仕事に励んでいたところ、ジェイドの街中で突然、強い魔力を感じたのだ。
ダンジョンスタンピードの際の魔物のそれとは比べようもない、恐ろしい魔力。
これはドラゴン──しかも、純血の厄介な相手だと悟り、執務室の窓から飛び出した。
風魔法を操って、魔力が放たれている場所まで大慌てで向かったのだが、そこにいたのは赤毛の大男と顔見知りの黒猫。
そして、空に浮かぶルチアを驚いたように見上げる少女だったのだ。
◆◇◆
少女は大魔女シオンの曾孫だと、その使い魔たる黒猫が教えてくれた。
赤毛の大男はルーファスと名乗った。
「ルーファス……。シオンさまと共にダンジョンで戦った仲間の名だな」
「ああ、俺だ」
まさか、あの英雄の一人がドラゴンだったとは。
『急に呼んだのは悪かったよ。でも、リリの頼りになりそうな知り合いはキミしか思いつかなくて』
「頼りに、とは?」
「ごめんなさい。私が原因のようです」
申し訳なさそうに少女に謝られた。
君が、とつぶやいて、ルチアはあらためて少女を見やった。
ぱっと見たところ、あまりシオンには似ていない。玲瓏とした美貌の持ち主だったエルフの大魔女と比べると、あまりにも幼く、稚くさえ見える。
髪色はエルフ特有の黄金や白銀ではなく、明るい栗色。背も低く、華奢すぎる。
長身痩躯なエルフ族だが、実はしなやかな筋肉を秘めた肢体の持ち主なのだ。
エルフと言うには、このリリと名乗った少女はあまりにも弱々しかった。
(少し力を込めただけで、骨を折ってしまいそうだ……)
だが、微かに感じる魔力には覚えがある。
そう考えて、あらためて観察すると、肌の色や瞳の色がシオンとそっくりだった。
故郷の森にある湖と同じ、澄んだ翡翠色の双眸。
懐かしい色彩に見惚れていると、ベリーのように艶やかで小さな唇で遠慮がちに説明してくれた。
「この街で雑貨店を開きたいのですが、保証人が必要らしいのです。この世界には知り合いがいないので困っていたら、ルーファスが……」
「ナイトがここの領主は信用できる顔見知りだと教えてくれたからな。それで呼んだのだ」
えへん、と胸を張る赤毛の大男は少しも悪いことをしたという意識はないようだ。
まぁ、ドラゴンだから仕方ない。
使い魔の黒猫とリリの二人が詳しく理由を説明してくれて、それでようやく状況を知ることができた。
異世界へ行った後のシオンのこと。その曾孫であるリリがこの世界に移住したこと。
生きていくために、この街で雑貨店をやりたいのだが、商業ギルドの許可が降りないことまで説明されて、ルチアは即座に頷いた。
「そういうことなら、私がリリの保証人になろう。ついでに、君の後見人として名乗らせてもらいたい」
「え、いいんですか?」
ぱちり、と瞳を瞬かせる様が愛らしい。
「もちろん。私に居場所を与えてくれたシオンさまは大恩人なんだ。返せないくらいの恩があるから、代わりに君に返したい」
奇しくも、曽祖母とは真逆の、だが同じほどに辛い病に苦しめられてきた少女なのだ。
この街に暮らすなら、彼女も大切な領民になる。ならば、困っている少女に手を伸ばすのは当然のことだった。
「その血族である君も、同じくらい大切にすると誓おう」
そっと肩に触れて、懐かしい翡翠色の瞳を見つめながら囁く。
細い肩だ。やわらかな、甘い花のような芳香のする少女はふわりと笑った。
「ありがとうございます、辺境伯さま」
ルチアは微かに目をみはった。
その笑みに、かつての恩人の姿を見出したのだ。
ああ、彼女はちゃんと、この少女の中に宿っているのだと唐突に理解する。
「ふふ。水臭いな。私のことはルチアと呼んでくれたまえ」
『急に馴れ馴れしいぞ、キミ』
その顎に触れようとしたところで、黒猫が割って入ってきた。残念。
「やぁ、すまない。シオンさまと同じ瞳の色が嬉しくて、近くで見たくなってしまったんだ」
ルチアは笑顔を浮かべると、ぱっと手を上げて少女から離れた。
心配性の使い魔はもちろんのこと、背後で腕を組んでこちらを睨み付けてくるドラゴンの怒りを買うのが面倒だったので。
(嫉妬しているのかな? 執着心の薄いドラゴンにしては珍しい)
いや、ドラゴンはもともと執着心が強い種族だったか。
めったに心を動かされず、同族以外には無関心だから、そう思われているだけなのだ。
むしろ、何かに執着した際にはおそろしく厄介だと聞いたことがある。
(そういえば、シオンさまも昔、ドラゴンの仔に懐かれたことがあると聞いたことがあったが。……まさか、な)
それから三人と一匹で商業ギルドに向かい、無事に営業許可を手に入れることができた。
大いに感謝したリリは手作りの焼き菓子と美味しい紅茶をご馳走してくれ、帰り際には素敵なリボンをプレゼントしてくれた。
「とても立派な巻き髪ですが、お仕事の邪魔になりそうなので、良ければこれを」
リリはルチアを屈ませると、背伸びをして髪にリボンを結んでくれた。
伸縮性のある髪ゴムでまとめて、幅広の天鵞絨のリボンで飾ってくれて、ルチアは大喜びした。
「これは素敵だね。ありがとう。私の髪は見ての通り、とても奔放で、紐で結んでもすぐに外れていたのだが、これはいい」
「とってもゴージャスな縦ロールですからね」
焼き菓子も紅茶も、そして店主である少女も大いに気に入ったルチアは暇を見つけては、彼女の雑貨店『紫苑』へ足を運ぶようになったのだった。
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