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86. 青い湖
しおりを挟む「リリィ、今日は寄り道をしないか? 近くにいい場所があるんだ」
ルーファスの提案で、街道から外れた細道をキャンピングカーで走り抜ける。
あまり人は通らないようで、道の状態は良くなかったが、大魔女シオンが直々に強化魔法を施したタイヤは頑強だった。
タイヤだけでなく、車体も強化されており、道にはみ出した木の枝や茂みを勢いよく弾き飛ばしながら進んでいく。
後で確認してみたが、車体には傷ひとつ付いていなかった。
『シオンさまの結界と強化魔法が施されているんだ。ワイバーンに体当たりされたとしても、びくともしないよ』
えへんと胸を張る黒猫が可愛らしくて、リリは無言で彼を抱き締めた。
「ワイバーンに体当たりされるのはあまり嬉しくはないです……」
艶めいた体毛をそっと撫でていると、不思議と気分が落ち着く。
キャンピングカーはしばらく林の中を走り、三十分ほどで止まった。
「ここからは少し歩くことになる」
ルーファスに促されて、車から降りる。
鬱蒼とした木々の隙間に、幅1メートルほどの小径があった。
この狭さでは車は無理そうだ。
少し考えて、リリは歩きやすい服装に着替えることにした。
集落や村に寄り道する気ままな旅なため、この世界でも通用するワンピースを着ている。
季節は夏なので、パフスリーブの半袖が愛らしい一着だ。
そんな薄着で森に踏み入る度胸はない。
「……もしかして、エルフの隠れ里とか、そういう場所です?」
人と会うなら、最低限は失礼でない格好をしなければならない。
ルーファスに訊ねると、いや、と不思議そうに首を振られた。
「この先に、シオンが気に入っていた場所があるんだ。綺麗な湖があってな、旨い魚が獲れる」
「なるほど。では、動きやすい服に着替えてきますね」
エルフの里ではなく、穴場の絶景スポットだったようだ。
リリは車内に戻り、カーテンを閉めてから服を着替えた。
長袖のTシャツとデニムパンツ。靴下にスニーカー。念の為に、薄手のフード付きジャケットを軽くはおっておく。防水仕様なので、安心だ。
森の中なので、日除けの帽子は不要だろう。心配なら、フードをかぶればいい。
「お待たせしました。行きましょう」
車から降りて、待っていてくれた二人のもとへ歩いていく。
キャンピングカーはルーファスが【アイテムボックス】に収納してくれた。
『ルーファスが睨みをきかせているから、魔獣の心配は不要だよ。さ、行こう』
「疲れたら、俺が運んでやる」
差し出されたルーファスの手にリリは己のそれを重ねた。森の中は薄暗いので、足元が心配だったのだろう。
厚意を素直に受け止めて、手を借りることにした。
ルーファスもナイトもリリを急かすことなく、のんびりと歩いてくれる。
歩幅が小さなリリに合わせてくれているのは明白だ。
おかげで、景色を楽しみながら進めた。
「ハイキングみたいで、楽しいです」
深呼吸すると、空気がとても美味しいと感じた。味なんてしないはずなのに、それが心地よい行為だと肉体が喜んでいるのが分かる。
魔素の多い土地なのか、軽く汗ばむほど歩いているのに、疲れはほとんど感じなかった。
二十分ほど歩くと、目当ての場所に到着した。
ルーファスがわざわざ寄り道を促すだけあり、そこはとても美しい場所だった。
「わぁ……!」
歓声を上げて喜ぶリリを、ルーファスが微笑ましそうに見つめてくる。
木々が途切れたと思ったら、開けた場所に出たのだ。
驚きよりも、喜びが勝ったのは、あまりにも美しい光景が広がっていたからだろう。
「水面が青く染まっていて、とても綺麗……。この場所がおばあさまのお気に入りだったの?」
『シオンさまは人付き合いに疲れると、ここを訪れていたんだ。懐かしいな』
瞳を細めて、湖を見つめるナイト。
湖と黒猫の瞳の色はそっくりだ。どちらも晴れ渡った空と同じ彩度の美しさを誇っている。
「シオンはここで魚を獲るのが好きだったんだ」
「魚が釣れるんですか?」
「ああ、釣るというか、シオンは魔法で──……もしかして、リリィは魚釣りがしたいのか?」
「はい! したことがないので……」
きょとん、としたルーファスを前にして、勢い込んで訴えてしまった自分が、なんだか少し恥ずかしくなってきた。
(子供っぽすぎた? でも、魚釣りはしてみたかったし……)
ふ、とルーファスが端整な口元を綻ばせた。
「ふむ。悪くないな、魚釣り。俺もしたことがないから、やってみたい」
『ボクはしたことがあるよ! この湖で大物を捕まえたことがあるんだ』
「本当? それは素敵ね、ナイト。私にもやり方を教えてくれる?」
『もちろん! 任せて、リリ』
そういうわけで、皆で魚釣りをすることになった。
◆◇◆
たしか、庭の倉庫に釣竿があった。
曾祖父の趣味の物をまとめて収納していたはずだ。
あれを取ってこようと考えて、リリはまず魔法のトランクを湖の手前に展開することにした。
ちょうど良い広さの土地が拓けていると思ったら、どうやらここをよく訪ねていたシオンが木々を伐採してスペースを作っていたらしい。
「どうりで、魔法のお家がぴったり置ける広さだと思ったわ」
魔法のトランクの家に入ると、さっそく鍵を手にして、リビングに転移のドアを呼び出した。
ナイトは湖の周辺を散策してくると言うので、ルーファスと二人で日本へ向かう。
庭に出ると、荷物が届いていたのでマジックバッグに回収しておく。
「あ、あの倉庫よ。鍵は掛かっていなかったはず」
2メートルサイズの、倉庫というよりは小さな物置きだ。引き戸を開けると、ほんの少し埃っぽい。
中には工具類やゴルフクラブに混じって、釣りのセットが置かれていた。
クーラーボックスに釣竿、その他にもリリにはどういう風に使うのか分からない、道具が入った箱も持っていくことにした。
「面白いな。こんな道具で魚を捕まえるのか」
ルーファスは興味深そうに釣り道具を観察している。収納は彼に任せることにして、定期報告をしよう。
スマホを取り出して、メッセージアプリを開く。新着メッセージが四件。
確認すると、伯父一家からのヘルプだった。
「オークとコッコ鳥のお肉を食べ切ってしまったのね。多めに渡しておいたつもりだったけど……」
あまりにも美味しすぎて、つい食べすぎてしまったらしい。
リクエストされた料理長も嬉々として魔獣肉を毎日使い続けたらしく、あっという間に在庫は尽きたとのこと。
「今は旅行中なので、持っていけません……っと」
せっかくの異世界旅。しかも、今日はこれから念願の釣りを楽しむのだ。
予定を変更するつもりは毛頭ない。
とはいえ、涙目の黒猫イラストのスタンプを連打されると、ちょっとだけ気の毒に思えてきた。
「魔獣肉は美味しいものね。仕方ない」
業務用の冷凍庫の中身をストレージバングルに移動させて、その中に手持ちの魔獣肉を詰めることにした。
入れるのは、鹿肉と、猪肉。コッコ鳥は残り少なかったので、鴨の魔獣、ジャイアントダック肉を選んだ。
これはルーファスが空を散歩中に群れとかち合って、一戦を交えた相手らしい。
巨大な鴨肉を五十キロ分ほど貢がれたので、一割を譲ることにした。
「オークは在庫に余裕がないので、今回はお預けです。代わりにフォレストボアをサービスしちゃいましょう」
アゲットの街で購入した、美味しいお肉だ。ついでに、ネブラムもお裾分けしてあげよう。
冷凍庫に肉を、冷蔵庫にネブラムと野菜を少量、入れておく。
「お肉が欲しかったら、うちに取りに来てくださいね」
そうメッセージを送ると、リリはさっさとスマホの電源を切った。
「さぁ、ルーファス。湖に戻って、魚釣りをしましょう」
釣竿を振って遊んでいた赤毛の大男を手招きすると、リリは颯爽と転移扉を通り抜けた。
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