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87. 魚釣り
しおりを挟む「えいっ」
遠くに届くように、釣竿を振り上げる。ぽちゃん、と水音がした。
三度目のチャレンジにして、ようやく湖に釣り糸を垂れることができた。
やりきった気持ちで、リリは額の汗を拭う。ふぅ。釣りとはとても難しいものなのだと身を持って理解した。
まず、エサを付けるのが難しい。
曾祖父の釣り具をまとめて持ってきたが、最初は使い方がまったく分からなかった。
正体がドラゴンなルーファスはもちろん、猫の妖精のナイトも日本製の釣り道具の使い方を知るわけがなく。
念のために、とリリが書斎から持ち出していた『釣り初心者入門』の本が多いに役立った。
釣竿の使い方は本のおかげで、何となく理解したが、エサに困った。
異世界の魚は何をエサにすれば食い付きがよくなるのだろう?
リリが難しい顔で思案していると、ナイトが近くの岩を転がしたのだ。
『あ、いた。リリ、エサはこれにしたらいいよ』
親切心からミミズを勧めてくれたナイトには悪いことをしてしまった。
異世界のミミズは赤紫色と黄色のマダラ模様をしており、その毒々しい外見につい悲鳴を上げてしまったのだ。
リリにはとても触れそうになかったので、魚のエサは干し肉を使うことになった。
これはシオンのストレージバングルに収納されていた非常食の干し肉だ。
栄養があり、日持ちもする優れものだが、あいにくとんでもなく不味い。
リリでは噛みちぎることもできない代物だったので、惜しげなく釣りのエサに回した。
「食べられるお魚が釣れると嬉しいです」
日本から持ち込んだアウトドア用のチェアに腰掛けて、リリはのんびりと釣りを楽しむことにした。
湖のすぐ前に、魔法のトランクの家を展開してあるが、せっかくなのでキャンプ気分を味わいたい。
折りたたみ式のテーブルを出して、飲み物と軽食を摘みながら、釣りを楽しむことにした。
汗ばむような陽気なため、冷たい飲み物がいいだろう。
氷を詰めたクーラーボックスを足元に置き、キャンプ用のマグカップを二つ用意する。ルーファスとリリの分だ。
ナイトには猫用のフードボウルに飲み物を入れてあげることにする。
(アイスティーは飲んだから、ここは麦茶にしよう。お茶請けは和菓子がいいかしら)
そういえば、サービスエリアで購入してあった、みたらし団子があった。
冷たい麦茶と一緒にみたらし団子をテーブルに並べる。うん、美味しそう。
ルーファスはリリが貸してあげた釣りの本を熟読していたが、お茶を用意すると、嬉しそうに破顔して、いそいそとチェアに座り直した。
「見たことのない食い物だな。旨いのか?」
「私は好きですよ。みたらし団子といって、甘辛いタレをまぶした和菓子です」
『わがし。串焼き肉みたいだね』
「ふふ。食べ方は同じですよ? ナイトは食べにくいと思うので、ちょっと待ってくださいね」
串を抜いてあげると、黒猫は待ってましたとばかりに、口をぱかりと開けた。
かわいい仕草に、リリはあっさりと陥落する。あーん、と開いた小さな口に団子を差し出してあげた。
むちゃむちゃと団子を咀嚼しながら、ナイトは瞳を細めて味わっている。
『不思議な食感の食べ物だね? 味も不思議。でも、おいしいよ』
「うちでは洋菓子ばかり出していたから、馴染みがないんですね」
「リリィ。俺もそれを食べてみたい」
「どうぞ食べてください。美味しいですよ?」
笑顔ですすめると、途端に捨てられた子犬のような表情を浮かべるのは止めてほしい。
最強のドラゴン(自称)のはずなのに。
最近はちょっとだけ、そんな情けない表情になる大男が可愛く見えてきたので、我ながら重症かもしれない。
「とんだ甘えん坊さんです」
「俺はリリの使い魔になったからな。主には甘えん坊なのだ」
「こんなに態度が大きくて、偉そうな甘えん坊はいないと思います……あーん」
ルーファスの口は大きい。
よく見ると、犬歯のように尖った牙もあるが、不思議と怖くはなかった。
みたらし団子は気に入ってくれたようで、満足そうに麦茶を飲んでいる。
やれやれとチェアに座り直して、リリも団子を口にした。甘辛いタレが絡まった団子はもちもちとしており、とても美味しい。
魔力が正常に体を巡り始めたおかげで、最近はよくお腹が空く。
たっぷりと美味しい食事を平らげると、よく眠れるようにもなった。
慢性的な貧血の症状もなくなり、青白かった肌も健康的な色を取り戻している。
華奢な骨格はどうにもならないけれど、骨が浮いていた箇所がふっくらとしてきたのは嬉しい。
ルーファスやナイトの目にはまだ痩せ細って見えているようだが、リリはようやく自分の身体を好きになれそうだった。
(そのためにも、もっとたくさん食べて、運動をしないと)
この釣りも、体力作りの一環だ。
素敵な景色も楽しめるし、魚が釣れたら一石三鳥。あいにく、今のところは釣竿はぴくりとも反応しないけれど。
「ふむ。釣りとは奥深いな。人間は面倒なことを面白がる」
「面倒?」
「ああ。針に餌を付けて、魚が引っ掛かるのを待つのは面倒だろう? そんなことをせずとも、魔法を使えば簡単に獲れる」
「絶対に使わないでくださいね? そんなことをしたら、ルーファスだけオヤツは抜きにします」
「なに⁉︎ オヤツ抜きだと! それはひどいぞ、リリィ。俺はいつも魚が食いたくなったら、そうしているのだが……」
「ここで実行したら、もう二度と「あーん」もしません。膝にも座ってあげませんよ?」
「分かった。絶対に魔法で魚は獲らない。約束しよう」
青くなったルーファスがそっと釣竿を手に取った。干し肉をちぎって、針に引っ掛ける。リリを真似て、釣竿を大きく振った。
鋭い音を立てながら、釣竿がしなる。
ぽちゃん、と水が弾けた場所を目にした黒猫が欠伸まじりにつぶやいた。
『リリが投げた場所より遠くに飛んだね』
「むぅ……」
魚が釣れたら起こしてね、とナイトはリリの膝の上で丸くなった。
「……のんびり楽しむことが大事だと、本には書いていたぞ」
「そうですね。太陽の光が湖面に反射して、綺麗なので飽きることはなさそうです」
ゆらゆらと揺れる水面がただ眺めているだけでも楽しい。
美しい湖の畔で釣りをするなんて、優雅なバカンスそのものだ。
一時間ほど、そうやって釣り糸を垂らしていると、リリの釣竿に動きがあった。
「また、エサだけ取られたのかしら……?」
「ん、いや違うぞ、リリィ。魚影が見える」
「えっ。ど、どうしましょう?」
「落ち着け。ゆっくりと引き上げよう」
ルーファスがタモ網を手にして、立ち上がる。おろおろしていると、膝の上の黒猫が目を覚ました。
『釣れたの?』
「まだです。釣っている最中というか……」
本で読んだとおりに、リールを巻いていくと湖面近くで魚が勢いよく跳ねた。
すかさずルーファスが手を伸ばし、網で掬い上げる。
「獲ったぞ、リリィ!」
「やりましたね、ルーファス!」
釣った魚は、初めてにしてはかなり大きい個体のように思える。三十センチはありそうだ。魚の種類には詳しくないので、【鑑定】スキルを使ってみる。
「レインボーサーモン。食用可、美味」
魔物図鑑と薬草図鑑には目を通したが、あいにく魚図鑑は読んでいない。
なので、今のリリの鑑定で読み取れるのはこれだけだ。だが、それで充分。
「食べられるお魚みたいです! しかも、美味!」
「やったな、リリィ」
『すごいじゃないか、リリ』
レインボーサーモンは文字通りに虹色の鱗をもつ、美しい淡水魚だった。
見た目はニジマスによく似ているが、額に小さなツノのようなものがある。
『長生きした個体みたいだね。魔素を長年取り込んで、魔魚になりかけている』
「まぎょ」
「食えるから、安心しろ。むしろ、旨いぞ」
それは素晴らしい。
レインボーサーモンはルーファスに締めてもらい、クーラーボックスで冷やすことにした。
「リリィに負けてられないな」
『ふぅん。じゃあ、ボクも魚を獲ろうかな』
「魔法はダメですよ?」
『ええ~っ? それはひどいよ、リリ』
空色の瞳をまんまるにする黒猫を宥めながら、リリは再び釣竿を振った。
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