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120. 侯爵家の末娘 3
しおりを挟むディビットはコールマン伯爵家の長男だ。
領地が隣り合うヴェローナ侯爵家とは祖父の時代から当主同士が友人で、その縁から同い年のローザと婚約した。
初めて会ったのは、侯爵家のガーデンパーティの場で、たしか七歳だったか。
侯爵家の末娘ローザはほっそりとした愛らしい少女で、ディビットは一目で好きになってしまった。
「ほら、ディビット。ローザちゃんにご挨拶をなさい」
恥ずかしがって視線を逸らす息子の背を笑いながら母が押し出す。
その小さな女の子はヘーゼルの瞳を好奇心に輝かせながら、にこりと微笑んだ。
「あなたがディビット? ローザよ。仲良くしてね」
覚えたてのカーテシーを披露しようと、スカートの端を摘んで、そっと一礼する少女の愛らしさにガーデンパーティの参加者が微笑ましげに相好を崩す。
一方、ディビットは目の前の魅力的な女の子にドキドキして、目を合わせることさえできないでいた。
(何か、言わなくちゃ。挨拶。挨拶って、どうやってすればいいんだっけ?)
緊張のあまり、頭の中が真っ白になってしまった。
家でずっと練習していたのに、すっかり挨拶の言葉を忘れてしまっている。
(どうしよう? 僕は次期伯爵なのに、挨拶もきちんとできないなんて。この女の子はちゃんとできたのに)
そう考えると、何だかちょっと腹が立ってきた。
(この子が上手に挨拶するから、僕は忘れちゃったんだ!)
完全なる八つ当たりだと、今なら分かる。
だが、未熟な七歳の少年はその女の子に見惚れてしまったことを恥ずかしく思うあまり、暴言を投げ付けてしまったのだ。
「変な髪型だな、お前」
「え……?」
きょとんとした女の子はストロベリーブロンドの持ち主だった。
金髪碧眼の貴族が多い中で、ストロベリーブロンドとヘーゼルの瞳はとても珍しい。
ふわふわの赤みを帯びた巻き毛がまるで妖精のように軽やかで。
触れてみたいと思っていたのに──気付いたら、ディビットは悪態をついていた。
「チリチリのニンジンあたま!」
「ディビット!」
当然のことだが、血相を変えた母にたしなめられ、その場でガーデンパーティはお開きとなった。最悪の出会いの記憶だ。
家に帰ると、父からも叱責され、ディビットはそこでも逆恨みしてしまったのだ。
「なんてことを口にしたの、ディビット。貴方と言う子は……!」
「僕は悪いことは言っていません。見たままのことを告げただけです」
「お前は……」
呆れたような視線を向けられたが、気にしない。
父はやれやれ、とばかりにため息を吐いた。
「せっかく、ローザ嬢との婚約の話がまとまりそうなのに、波風を立てるものではないぞ」
「……婚約? 僕と、ローザ嬢が?」
「ええ、そうですよ。お義父さまと侯爵家の先代当主は幼馴染みだとかで、孫同士を結婚させようと張り切っていらっしゃるの」
「僕とローザが婚約……」
ディビットは途端にだらしなく頬を緩めた。侯爵家のご令嬢が自分の婚約者になるなんて!
あの、妖精みたいに可憐な少女とずっと一緒にいられるのだ。
(僕のものだ。だって、ローザは僕の婚約者だもの。僕のこと、大好きなんだよね?)
甘やかされて育った少年は都合の良いように脳内を書き換えていく。
(あの子は僕のことが好きだから、婚約を願ったに違いない)
祖父同士の口約束から派生した、家同士の繋がりでしかなかったのに。
(チリチリのニンジンあたまだから、きっと僕以外に大事にしてくれる人はいないんだ)
歴史ある侯爵家の令嬢なのに伯爵家の嫁入りを希望するなんて、不器量だからに違いない──口の悪い未婚の叔母がそう言っていたことを真に受けて。
ディビットは婚約者同士の交流の場で、ローザをからかうようになったのだ。
「ローザの兄や姉は美しい金の髪なのに、どうしてお前だけ、ニンジンあたまなんだ?」
意地悪な言葉を投げ掛けると、顔を真っ赤にして涙目になる様が可愛くて、会うたびに苛めてしまっていた。
「痩せっぽっちのローザにはそんな服は似合わないぞ。みっともない。肌を隠す服を着たほうがいい」
淡いピンクのドレスは彼女にとてもよく似合っていたけれど、見惚れる連中が大勢いて、腹が立ってそんな言葉を投げ付けてしまった。
「雨が降ると、お前の髪はどこまで広がってしまうのだろう。見苦しいから、きっちりまとめて隠したらどうだ!」
空に浮かぶ雲のように、ふわふわの髪に触れたいと思い、そんな自分に戸惑って、怒鳴りつけていた。
正式に婚約が結ばれた十歳の頃から、ずっとディビットは大好きな少女のことを独り占めしたいがために、そんな態度を取っていたのだ。
いつからか、天真爛漫に笑う、妖精のような愛らしい女の子から笑顔が消えていた。
ふわふわのストロベリーブロンドはきつくひとつにまとめて、大きなリボンで隠された。
流行のドレスは見向きもせずに、祖母が着ていたようなクラシカルな衣装をローザは身に纏うようになっていた。
はにかんだように微笑む天使は姿を消して、人形のように面白みのない女性へと変貌したローザに、ディビットは戸惑った。
自分から「そうしろ」と言ったくせに、地味な格好をした婚約者を蔑ろにするようになったのだ。
「ヒステリックなオールドミスの教師かよ。僕の婚約者なら、もっと美しく装うべきなのに」
「……何を言っているんだよ、ディビット」
「そうだよ。君がローザ嬢に押し付けているくせに」
「はぁ? 向こうが好きでやっているだけだろう。女のくせに男の僕を差し置いて首席だなんて、可愛げもない。侯爵家の後ろ盾がなければ、あんな女は婚約破棄していたところだよ」
友人たちからの諫言も聞き流し、大勢の学友の前で婚約者をけなすのは、いつものこと。
「そのうち、本当に捨てられるぞ、ディビット」
「もう嫌われているだろ」
「まさか! 僕が相手をしてやらないと、ローザは一生結婚なんてできないからな」
そんな風に笑いものにしていたのに。
夏期休暇明けの新学期。
学園に登校して、ディビットは仰天した。教室のいつもの席にいたローザがまるで別人のように変貌していたのだ。
ひっつめていた髪をほどき、ゆるやかなカーヴを描く美しいストロベリーブロンドをなびかせて微笑む少女の周囲には大勢の生徒が集まっていた。
変わったのは、髪型だけではない。
化粧っ気が皆無だったのに、今朝の彼女はうっすらと白粉をはたいていた。
眉毛も細く整えており、いつもより睫毛が長く見える。目元は何やらキラキラと煌めいており、頬は薔薇色。
艶めいた唇には白い肌に映える紅が引かれていた。
「誰だ、あの美少女」
「あんなに可愛い子、このクラスにいたか?」
「いや、待て。あの席はたしか、ローザ嬢の……」
ざわざわと騒ぐ男子生徒を押し退けて、ディビットは慌てて婚約者のもとへ駆け付けた。
「ローザ! まさか、本当にお前なのか……?」
「コールマン伯爵令息、お久しぶりです」
「は……?」
冷ややかな笑みを向けられて、ディビットは戸惑った。
先程まで友人と交わしていた、楽しそうな笑顔とは真逆の、距離を感じさせる笑みだ。
それに、なぜ、いつものように名前で呼んでくれないのか。
ローザと会話を交わしていた令嬢たちが浮かべる嫌悪の表情も気になるが、まずはその格好をやめさせなければ。
「学園内でみっともない髪型をするものではないぞ、ローザ。それに、そんな派手な化粧をするとは、見損なった」
「さようでございますか」
素っ気なく返されて、ディビットは驚いた。つまらないものを目にした、とばかりにローザは彼から顔を背けて、友人との会話に戻っている。
「な……っ! 無視をするな、ローザ! 僕を誰だと思っているっ」
「コールマン伯爵令息ですわね。それが何か?」
「何か、だと! 婚約者に向かって、その態度とは信じられんっ! 婚約破棄されたいのか!」
「婚約は既に白紙解消されておりますわよ?」
「…………は?」
ぱかり、と口を開くディビットをローザは冷ややかに一瞥する。
「婚約してからの四年間。いえ、初めて顔を合わせた七歳の時から数えると七年間の貴方からの暴言はすべて書き留めておりましたの。もちろん、周囲の方からの証言もきっちり取ってあります」
「え、あ……?」
「両親と祖父母にこれまでの貴方の態度を伝えましたところ、無事に婚約を解消されました。もちろんコールマン伯爵からもきちんと謝罪の言葉をいただいております」
「まさか、そんな……」
愕然とする。
両親は社交界のオフシーズンである夏は王都から出て、領地に戻るのが常だった。
ディビットは田舎を嫌い、王都のタウンハウスで過ごしていたので、家族とは顔を合わせていない。
(まさか、婚約解消されたなんて、嘘だろう……⁉︎ そんな話、聞かされてはいない……いや、待て。タウンハウスの執事から手紙を渡されていたような)
一週間前に手渡された両親からの手紙を開封せずに放置したままだった。
どうせまた小言が綴られているだろうからと、読まずにライティングデスクに置いたまま忘れていた──
「なので、もう私の名を呼ばないでください。貴方もずっと婚約を破棄したがっていましたもの。せいせいしているでしょう?」
「なっ……! そんなわけ…っ」
「あら。私、何度も聞きましたわ。貴方がローザ嬢を口汚く罵る言葉を」
「私も見ておりました。婚約者をあれほど蔑ろにされる殿方がいるなんて、信じられませんでしたわ」
次々とローザを擁護する声が上がって、ディビットは焦った。
縋るようにローザを見やるが、こちらを見てもくれない。
「ぼ、僕と結婚できなかったら、困るのはお前だろう!」
「困りません。貴方と結婚するくらいなら、一生独身を選びます」
「そ、そんな……」
「私はもう我慢することはやめたのです。祖父の決めた婚約に嫌々従うのは、もうおしまい。一度きりの人生ですもの」
ヘイゼルの瞳には、もはやディビットを映すことはないだろう。
「今はやりがいのある仕事に打ち込める楽しみを見出せたので、とても幸せなのです」
「仕事……?」
何のことだ、と混乱するディビットがどん、と突き飛ばされる。
わっと歓声を上げて女生徒たちがローザを取り囲む。
「雑貨店『紫苑』の王都店ですわよね? わたくし、楽しみにしていますのよ!」
「私も絶対にお邪魔しますわ。頑なに王都に出店しなかった店主を口説き落としたなんて。さすが、ローザさま」
もはや、ディビットに目の色を変えた女生徒たちを掻き分ける気力はない。
「店……? あの、ローザが?」
「お前、そんなことも知らないのか」
友人たちにも白い目で見られて、いたたまれない。
授業開始の鐘が鳴り、よろよろと席に着く。教師の言葉はまったく耳に入らなかった。どうにか一限のみ授業を受けたが、すぐに早退した。
タウンハウスに戻り、父親からの手紙を開封して、ディビットは絶望の呻き声を上げた。
後日、しつこくローザ嬢に付き纏った行為が問題視され、ディビットは領地に連れ戻されることになる。
コールマン伯爵家は優秀な次男が後継となるようだ、と社交界ではもっぱらの噂になっていた。
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