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160. 魔族
しおりを挟む「この世界に存在する、どんな刃物でも私に傷ひとつ与えることはできない」
くつり、と魔族の女が笑うのを、シェラは呆然と眺めることしかできなかった。
本気を出したトーマにあれほどの勢いで攻撃されていたのに、褐色の艶めかしい肌にはかすり傷ひとつ見当たらない。
恐ろしく強い女だ。
レイは彼女が魔族だと言っていた。
魔法に長けた、残虐な魔物。集落では、魔族のことをそう教えられていたが。
(まさか、ダンジョンで遭遇するなんて)
魔法があまり得意ではないシェラでさえ感じ取れるほどの魔力量。
褐色の肢体はまるで鍛え上げられた鋼のように引き締まっており、魔法だけでなく武芸にも優れていることは明白で。
そして、何より彼女は美しかった。
目の前にいる魔族の女性は纏う色彩は違えども、トーマと同じくらい──否、それ以上の美貌を誇っている。
女性的というよりも、あまり性別を感じさせない中性的な美しさだが、ハイエルフ族だったと聞いて納得した。
エルフの上位種で、もはや御伽話でしか聞いたことのない幻の種族。
(魔族が、元ハイエルフ? しかも、トーマさんと同胞……? トーマさんはハーフエルフだって聞いたのに)
シェラの小さな頭はもう飽和状態だった。情報過多で、混乱してしまう。
呆然と見守るだけの彼女の目前で、戦闘が続く。
ダンジョンボスであったはずのブラックドラゴンは冒険者姿のレイに襲い掛かる。
それを長槍で軽くいなす姿はさすがだ。
シェラとコテツは保護者二人に離れているようにと厳命されていたので、はらはらしながら見守ることしか出来ないでいた。
この世界の、どんな刃物も彼女を傷付けることはできない。
その言葉通りに、トーマが繰り出す魔剣は彼女にダメージを与えることはなかった。
白銀色の艶やかな髪が揺れる。
「……ッ!」
力負けし、武器を弾き飛ばされたトーマを悠々と見下ろして、女が愉悦に満ちた声音で囁く。
「髪の一本も残さず、灼け落ちろ」
褐色の指先に現れた灼熱の炎の塊を、魔族の女がトーマの頭上に振り下ろすのが見えた。
『トーマさん!』
灼熱。まるで小さな太陽が爆発したかのような、熱風と衝撃に息ができなくなる。
魔族の女の宣告通りに髪の毛一本残さずに溶けてしまいそうなほどの衝撃に、シェラは飛行が困難になった。
岩壁に叩きつけられる寸前に、どうにか風の魔法をクッション代わりにして回避する。
周囲には蒸気が溢れ、濃霧のごとく一寸先も見えない。
高温の炎が弾けた勢いで、洞窟内に満ちていた魔素さえ綺麗さっぱり消え失せた状態で。
魔族の女は哄笑していた。
背を仰け反らせ、心底楽しそうに。
混乱して天井近くを旋回する白銀のカラスであるシェラを。
尻尾を倍ほどの大きさに膨らませて威嚇する子猫を眺めては、それがとても楽しい見せ物であるかのように嘲り笑っていた。
(ひどい……! どうして、こんなことを!)
不壊のはずのダンジョンが深く抉れるほどの火魔法での攻撃を受けて、彼が無事なはずはない。
岩陰に隠れていた猫の妖精の子猫が、哄笑する魔族の女に向けて威嚇の声を上げている。
(いけない、あの女に殺される……!)
叶うわけはないけれど、風魔法を纏って降下すれば、コテツが逃げる時間くらいは稼げるかもしれない。
蒸気と土煙で視界が塞がっている今なら、どうにか一矢報いることができるのではないか。
唸る子猫を疎ましく思ったのか、魔族の女がコテツに忌々しそうな視線を向ける。
無造作に片手を上げたところで、シェラは残る魔力を込めて、風を纏ったが。
「小蝿が煩わしいな」
真紅の瞳がまっすぐシェラを射抜いた。
「小さき四つ脚も鬱陶しい。それほどに飼い主が恋しいなら、すぐに後を追わせてやろうか」
くつり、と喉を鳴らした女が再び炎を生み出そうとした、その瞬間。
「っ、貴様……!」
魔族の女が憎々しげに叫んだ。
「うちの可愛い子たちに何をする気だ。許すわけないだろ」
その飄々とした口調は。
『トーマさん……⁉︎』
生きていた。
あの苛烈な攻撃を受けて、ダメージは受けたようだが、生きている。
「かはっ……! おのれ、おのれ……なぜ、こんな」
身を折り曲げて、苦しげに咳き込む魔族の女の腹は血塗れだった。
まるで優雅にダンスを踊るかのように、トーマが女の背を優しく支えていた。
そうして、もう片方の利き腕で短刀を更に奥へと、深く突き刺したのである。
「なぜ、刃が私を傷付けるの、だ。ありえない……」
「あり得るよ。だって、このナイフはこの世界の物ではないから」
「なんだと……」
愕然とした表情で、女がトーマを見上げる。もう、その足にはほとんど力が入っていないようだ。
トーマが淡々とした口調で語る。
「これは勇者召喚に巻き込まれた際に、向こうの世界から持ち込んだナイフなんだ。しかも、創造神からの祝福済み」
「……っ、創造神の仕込み、か……!」
「さぁ、そこまで考えていたかは不明だけど。これ、鑑定によると『破壊不可の、何でも切れるサバイバルナイフ』なんだ」
に、と笑うトーマへ、魔族の女は唇を歪めて笑う。
「なんだ、それは……ふざける、な…」
「こっちのセリフ。この世界に存在する、どんな刃物でも傷ひとつ与えることはできない──だっけ?」
小さく息を吐き出して、力なく身を投げだす女から、トーマは愛用のナイフを引き抜いた。
「……魔族でも巧く斬れたな」
血溜まりの中、名も知らぬ魔族の女の身体が淡く光って──真紅の魔石を残して消えた。
同時に、黄金竜のレイがあしらっていたブラックドラゴンも黒い霧に包まれて消えていく。
「片付いたな」
槍を消すと、平然と声を掛けるレイ。
ドロップした拳大の大きさの魔石を無言で見下ろしていたトーマに、コテツが飛び付いた。
ミャオミャオと何やら忙しなく訴え鳴いている。
興奮し過ぎて、念話も疎かになっているようで、トーマが戸惑っているのが分かった。
(良かった。いつものトーマさんです)
ホッとすると同時に、何だか悔しくなって、感情のままに彼の顔に飛び付いてやる。
「うわっ⁉︎ おい、シェラっ?」
『トーマさんのばかばか! 心配したんですよっ?』
バサバサと翼で顔をはたいてやると、苦笑まじりにそっと抱き締められた。
「ふたりとも、ごめんって。心配かけたな」
「私は心配はしていなかったが」
「……レイ、お前そんな薄情な奴だったんだ」
冷ややかな一瞥を向けられたレイが慌てて釈明をしている。
「違うぞ? 私はトーマを信頼していただけだ。お前なら、あの魔族を倒せると。それに、創造神さまからの加護があるだろう?」
「あー……魔獣や魔物からの攻撃を弾く盾ね」
ふぅ、とため息を吐くトーマ。
創造神さまからの加護とは初耳だ。
「たしかに、直接的な攻撃からは守ってくれるけど、衝撃は殺せないからな? おかげで魔法の余波で吹っ飛ばされて、怪我を負ったぞ」
どうやら、あの激しい爆発に巻き込まれて、岩壁に叩きつけられたようだ。
魔獣や魔物からの直接攻撃以外のダメージは躱わせないようで、しっかり怪我を負ったらしい。
「すぐに治癒魔法を使ったけど、肋骨が何本も折れていたんだからな?」
じろり、とトーマがレイを睨み付ける。
「……まぁ、幸いこのサバイバルナイフがあったから良かったけど」
「最初から、その短剣で戦えば良かったのでは?」
「油断させる必要があったの。あいつ、レベルいくつだよ。魔法の威力もえげつなかったけど、普通に強かったぞ?」
ナイフを鑑定、警戒されていたら、あんなに簡単に闇討ちはできなかったよ、とぼやいている。
肩にしがみつくコテツとシェラを優しく撫でながら、トーマが笑う。
「ふたりがアイツの意識を逸らしてくれたから、攻撃できたんだ。ありがとな」
にゃーん、とコテツが甘えた声音で応える。シェラもくるるっと喉を鳴らした。
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