売れ残りオメガの従僕なる日々

灰鷹

文字の大きさ
49 / 83
王弟騎士の思い人

王弟騎士の思い人(3)

しおりを挟む



 痛いほどに空気が張りつめる。
 時間が止まったかのように目に映る全てのものが静止していて、耳の奥で鼓動だけが煩く響いていた。
 今すぐ走って逃げ去りたいのに、体が石になったみたいに瞬き一つできなかった。 

「殿下?」

 緊迫した静寂を破ったのは、カレンだった。
 目を見開き、硬直していたラインハルトが、我に返ったように立ち上がった。表情を険しくし、こちらに近づいてくる。
 張りつめた空気が少しだけやわらぎ、息ができるようになる。息苦しかったのは無意識に息を止めていたせいだと遅れて気が付いた。
 膝が震え、踏ん張りがきかなくなる。
 崩れ落ちる前に、地面に片膝をついた。

「ユリウスではないか。どうして君がここにいる?」

 ユリウスの前で足を止めると、ラインハルトは他人行儀にそう言った。
 ここにいることを知られてしまったことよりも、彼に愛称ではなく正式な名前で呼ばれたことのほうが辛かった。
 ユリウスはそろそろと顔を上げる。
 剣呑な表情から、歓迎されていないだけでなく、もっと強い拒絶の意志があることを察していた。
 平坦な声とは裏腹に、こちらを見下ろす明らかな怒気を孕んだ眼差しに、そのことを痛切に思い知らされた。

「あら。もしかして、殿下のお知り合いなの?」

 昨日とは打って変わった鈴の音のような声が聞こえてくる。

 ――あぁ。僕はここに来てはいけなかったのだ……。

 ラインハルトが初めて見せた冷ややかな眼差しに、その事実を痛感させられた。

 認識されなくても、近くで働いて、間接的にでも彼の役に立てるのなら、それでよかった。
 けれど、その眼差しの強さは、「迷惑」を通り越して、明らかに拒絶の意志を示している。

「従兄弟のご令室の弟君です。この者は庶子なので平民ですが、実家はカッシーラー辺境伯領の伯爵家です」

 顔はユリウスに向けたまま、ラインハルトがカレンの問いに答える。

「まぁ、そうでしたの! 何も仰らないから、ただの使用人だと思っておりましたわ。では、殿下ともお知り合いなのね?」
「もしかして、『今日は使用人をお茶に招いている』と仰っていたのは、この者のことですか?」

 ラインハルトが体ごと振り返ったため、壁のように視界を遮っていた体が横にずれる。カレンと、その隣で男の子の人形を抱えて座っている夫人の姿が、ユリウスの位置からも見えるようになった。

「ええ。昨日、その者が薬草を探して庭に迷い込んで来ましたの。お菓子をあげたらとても喜んでいたから、欲しかったらまた明日もおいでなさいと言っておきましたのよ」

 なんだかまるで、ユリウスがお菓子欲しさにここに来たようではないか。
 そんな引っかかりも、怒りに変える気力は持ち合わせていなかった。

「この者が都に出てきたときに、従兄弟の家で一度会ったことがあります。従兄弟の結婚式のときにも会っているはずですが、そのときのことは私は覚えておりません。あのときは初めて会ったウェルナー辺境伯の姫君に心を奪われておりましたから」

「まぁ」

 カレンが、ぱあっと顔を綻ばせ、頬に両手をあてた。
 最後の言葉は、ユリウスとの関係を説明するものではなく、彼女に好意を伝えるためのものだった。あるいは、彼女に好意があることを、ユリウスに知らしめるためのもの。
 ラインハルトが嘘を吐くのも初めて聞いた。
 自身の従僕だったことを隠したのは、万が一、ユリウスがオメガであることが発覚したときに、仲を疑われたくないからだろう。

 泣かずにすんだのは、なんだか全く知らない誰かを見ているようだったからだ。
 ラインハルトの表情も声も、まるで別人だった。
 初めて会った時でさえ、その威圧感に圧倒されたものの、これほど酷薄な印象は受けなかった。
 冷水を浴びせられたというより、冷たい湖の中へ背後から蹴り落とされたような、そんな気分だった。
 急速に体中の熱が引いていき、指先が冷たくなっていくのがわかる。

 カレンに向けていた顔を戻し、ラインハルトがふたたび厳しい眼差しでユリウスを見据えた。

「なぜ、君がここにいるのだと訊いている。ご両親はご存知なのか?」
「はい……」

 ユリウスはうなだれ、消え入るような声で答える。

「働き口を探すにあたり、都や故郷では外聞が悪いかと思いまして……。ここならば、故郷に近いですし、ラインハルト殿下もおられて、知人が誰もいないところよりは安心できたので、十日前からこちらで働いておりました。両親には手紙で報告しております」
「いくら身分が平民とはいえ、君は伯爵家の庶子だ。こんなところで使用人として働けば、ご両親や姉君の名誉を傷つけることになる。後ほど路銀を届けさせるから、即刻、故郷に帰りたまえ」

 何も考えられない。考えたくない。
 ただ、自分が答えるべきことだけはわかっていた。

「……路銀は……以前働いていたときの給金がまだ残っているので……いりません。殿下の仰る通りに致します……」

 これ以上、恩を仇で返すようなことはしたくなかった。
 ラインハルトは、ユリウスがここからいなくなることを望んでいる。
 ユリウスが彼のためにできる唯一のことは、一刻も早くここから去ることだけだ。

しおりを挟む
感想 20

あなたにおすすめの小説

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

【bl】砕かれた誇り

perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。 「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」 「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」 「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」 彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。 「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」 「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」 --- いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。 私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、 一部に翻訳ソフトを使用しています。 もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、 本当にありがたく思います。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

もう一度君に会えたなら、愛してると言わせてくれるだろうか

まんまる
BL
王太子であるテオバルトは、婚約者の公爵家三男のリアンを蔑ろにして、男爵令嬢のミランジュと常に行動を共にしている。 そんな時、ミランジュがリアンの差し金で酷い目にあったと泣きついて来た。 テオバルトはリアンの弁解も聞かず、一方的に責めてしまう。 そしてその日の夜、テオバルトの元に訃報が届く。 大人になりきれない王太子テオバルト×無口で一途な公爵家三男リアン ハッピーエンドかどうかは読んでからのお楽しみという事で。 テオバルドとリアンの息子の第一王子のお話を《もう一度君に会えたなら~2》として上げました。

【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

【完結済】極上アルファを嵌めた俺の話

降魔 鬼灯
BL
 ピアニスト志望の悠理は子供の頃、仲の良かったアルファの東郷司にコンクールで敗北した。  両親を早くに亡くしその借金の返済が迫っている悠理にとって未成年最後のこのコンクールの賞金を得る事がラストチャンスだった。  しかし、司に敗北した悠理ははオメガ専用の娼館にいくより他なくなってしまう。  コンサート入賞者を招いたパーティーで司に想い人がいることを知った悠理は地味な自分がオメガだとバレていない事を利用して司を嵌めて慰謝料を奪おうと計画するが……。  

処理中です...