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3 月下の送煞
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家とは、心の最後の港だ。外でどんな嵐に遭おうと、家に戻れば慰めと庇護が得られるはずの場所だ。 しかし今、彼女が家に入ってきた!
「ばあちゃん! 起きてよ!」
崔桂英(サイ・ケイエイ)を揺すっても反応がない。李追遠(リ・ツイエン)は奥の部屋へ走り、雑魚寝している兄弟たちに縋り付いた。
「潘(パン)兄ちゃん! 起きて!」
「雷(レイ)兄ちゃん! 英(イン)姉ちゃん!」
一人ずつ揺すって回るが、彼らもまた、台所の祖母と同じく、泥のように眠ったままだ。
「ポタ……ポタ……ポタ……」
追遠は顔を上げ、台所へ続く扉を見た。小黄鶯(シャオ・ホワンイン)の姿はない。
「ふぅ……」
安堵の息を吐いたのも束の間、足元に水たまりができていることに気づいた。水かさは増し、凸凹の土間を侵食していく。
「ポタ……ポタ……ポタ……」
水滴が頭上から降り注ぎ、服を濡らし、粘りつくような冷たさを伝えてくる。 視界の両端に、二つの手が現れた。 冷え切った手が、ついに彼の首を掴んだ。 追遠は身を震わせた。強烈な窒息感が襲う。 だが、その手は首を絞めるのではなく、ゆっくりと下方へ滑り降りていった。
頭上に影が落ちる。追遠が恐る恐る見上げると、上の人物もまた、ゆっくりと顔を下ろしてきた。 濡れた長髪がカーテンのように垂れ下がり、少年の顔に張り付き、まるで黒い巨大な口のように、彼の頭を少しずつ覆い隠し、やがて……飲み込んだ。
……
「漢侯(カンホウ)、もっとゆっくり! 尻が痛えよ! イテテッ……」
李三江(リ・サンジャン)は李維漢(リ・イカン)の腰にしがみつきながら、痛む尻を浮かせようと必死だった。
「叔父貴、動かないでくれ、転ぶぞ!」
「お前が飛ばしすぎなんだよ!」
葬式の宴席で李三江を拾った維漢は、一刻も早く家へ戻ろうと自転車を飛ばしていた。田舎の小道は狭く、穴だらけだ。老骨の三江には酷な道のりだった。 維漢も仕方なく速度を落とした。もうすぐ家だ。
「やれやれ……」
三江はポケットのタバコを探った。
「漢侯、止まって一服しようや」
「もうすぐ家だ、家に着いてからにしてくれ」
「何をそんなに慌てる? 劉の盲(めくら)に見てもらったんだろ? 小遠侯(シャオユエンホウ)なんざ、今頃ピンピンしてるさ」
「あの婆さん、本当に効くのか?」
維漢は劉金霞(リュウ・キンカ)の力を半信半疑だった。本当に陰陽に通じているなら、あんな悲惨な人生を送るはずがない。それに比べて、現役の「撈屍匠(ろうししょう)」である三江の方がよほど頼りになった。
「まあ、昔は詐欺まがいだったが、今はそれなりに場数を踏んでるさ。『麻縄は細いところから切れる』って言うだろ? 彼女は切れるところから切って、経験を積んだんだ」
「叔父貴、意味がわからんよ」
「わからんでいい。とにかく、小遠侯がもし『祟(たた)られ』てても、あの婆さんならなんとかするさ。昔の恩義もあるしな」
「俺は心配なんだ。いっそ俺が祟られた方がマシだ」
「お前って奴は、本当にえこひいきが激しいな。昔は末娘、今はその息子か。まあ、祟られた側は案外、楽なもんさ。首を吊る人間が、輪っかの中に恍惚とした夢を見るようにな」
「叔父貴、それじゃまるで良いことみたいじゃないか」
「良いことなわけあるか。まあ、墓参りで熱を出した程度の小病で済むってことだ」
「ところで叔父貴、あの“土左衛門”はどうするつもりだ?」
「どうする?」
三江の声が険しくなった。
「俺が悠々自適な引退生活を捨ててまで、あの『水の上を歩く』ような化け物を退治しに行くとでも思ったか?」
維漢はギクリとして、再びペダルを強く踏み込んだ。
「おいおい! ゆっくり行けって! 漢侯、また発作か! 逃げ切ったんだから、家まで追ってくるわけないだろう!」
「着いた!」
自転車が庭先に入ると、維漢は飛び降りた。三江も降りて尻をさする。
「桂英(ケイエイ)、桂英!」
「はいはい、大きな声出さないでよ、子供たちが寝てるんだから」
崔桂英が出てきて、三江を迎えた。
「叔父さん、よく来てくれました」
「おう。とりあえず、伢児(ヤーアル)を見せろ」
三江は門板(※即席のベッド)の横にしゃがみ込み、李追遠を診た。
「起こそうか?」
と桂英。
「いい、祟りは落ちてる。劉の婆さんがやったな?」
「ええ」
桂英が午後の顛末を話すと、三江は頷いた。
「桂英、お前が昔、あの母娘に良くしてやったおかげだ。徳が孫に返ってきたな」
「そんな、大したことじゃ」
「いや、大したことさ。普通なら断られる案件だぞ。あの婆さん、今頃家で『貧乏くじ引いた』って泣いてるはずだ」
「叔父貴、座ってくれ」
維漢が椅子とタバコを出し、妻に言った。
「何か腹にたまるものを」
桂英は鍵付きの棚からビスケットやカステラを出し、三江の前に並べた。
「明日は肉を買ってきて、ちゃんとお酒をご馳走しますから」
「そんな気を使うな」
三江はビスケットを平らげ、維漢が差し出したお代わりは断った。
「もういい。伢児も無事だ、俺は帰るよ」
「送るよ。桂英、懐中電灯だ」
その時だった。 熟睡していたはずの李追遠が突然痙攣し、荒い息を吐き始めた。額には脂汗が滲んでいる。 三江がすぐに戻り、様子を見る。
「叔父貴、これは……」
「大丈夫だ、悪夢を見てるだけだ。最初は魅入られて良い夢を見るが、正気に戻れば怖くなる。数日もすれば忘れるさ」
「ああっ!」
追遠が叫び声を上げて飛び起きた。
「小遠侯、大丈夫だよ、ばあちゃんだよ」
桂英が抱きしめる。追遠は祖母、祖父、そして見知らぬ老人(三江)を見た。
「小遠侯、ひい爺ちゃんだぞ」
三江が赤鼻を指して笑った。 追遠は瞬きをし、夢を思い出したのか、急に裏口を指差して叫んだ。
「小黄鶯(シャオ・ホワンイン)だ! 彼女が家に来た!」
「いい子だね、悪い夢を見たんだよ。ばあちゃんが追い払ったからね」
桂英が宥める。
「本当に?」
「ああ、夢で怖かっただけだ」
維漢も安堵して言った。 夫婦は胸を撫で下ろしたが、李三江だけは違った。彼は孫が指差した裏口を凝視し、顔から笑みが消えていた。
「漢侯、懐中電灯をよこせ」
「叔父貴、送ってくよ」
「よこせ!」
三江は電灯を奪い取り、維漢を押しのけて裏口へ直行した。川辺へ降り、水面を照らす。 三江は地面に唾を吐き、声を潜めた。
「どんな夢なら構わんが、土左衛門が家に来る夢なんぞ、洒落にならん」
「えっ、本当に来たのか?」
「静かに!」
三江は川を照らし続けたが、何も見つからない。
「叔父貴、何もいないぞ」
「漢侯、音が聞こえるか?」
維漢は耳を澄ませた。
「……いや、何も」
「フン。真夏の川辺が、こんなに静かなわけがあるか?」
維漢はハッとした。カエルも虫も鳴いていない。死のような静寂。あの「土左衛門」が近くに潜んでいる証拠だ。
三江は家に戻った。
「桂英、黄酒(ホワンチュウ)を一杯くれ」
「ピーナッツも炒めましょうか?」
「酒だけでいい、急げ!」
三江は酒を受け取ると、追遠の前にしゃがんだ。
「小遠侯、ちょっと痛いぞ。我慢しろよ」
追遠が頷くと、三江は酒を子供の首にかけ、ゴシゴシと力任せに擦り始めた。紙やすりで削られるような痛みだったが、追遠は唇を噛んで耐えた。 首が真っ赤になったところで、三江は鼻を近づけ、思い切り息を吸い込んだ。 カッ! と目を見開き、三江は尻餅をついた。
「叔父貴!」
「タバコだ、漢侯、タバコをくれ」
三江の手は震えていた。
「桂英、伢児を部屋に入れろ。戸を閉めろ」
「一体どうしたの?」
「言われた通りにしろ!」
維漢が怒鳴った。
女たちが消え、台所には男二人だけになった。
「漢侯、厄介なことになった。劉の婆さんは確かに祓(はら)ったはずだ。だが今、子供の首からまた死臭がした。俺の鼻は誤魔化せん」
三江は維漢を見た。
「あの土左衛門、マジで追ってきやがった」
維漢は棚から薪割り用の斧を取り出した。
「畜生、ぶち殺してやる!」
三江はタバコを深く吸い、煙を吐いた。
「彼女が出てこなかったらどうする?」
「え?」
「奴は家の周りに潜んで、じっと待ってるんだ。今日、明日、明後日……まず小遠侯、次は他の孫たち、最後にお前ら夫婦だ。家ごと呪い殺されるぞ」
「じゃあ、逃げるか?」
「一度ついてきた奴が、二度目についてこない保証があるか?」
「どうすりゃいいんだ、叔父貴、助けてくれ!」
「方法は、ある」
三江はタバコをもみ消した。
「奴は、あの小黄鶯だな? 村人は大髭(おおひげ)の息子と消えたのを見たと言ったな」
「ああ」
「なら話は早い。冤罪には債務者がいる。債務者が見つからないから、最初に触れたお前の孫に取り憑いたんだ」
三江はビスケットをもう一枚かじった。
「このビスケット、美味いな。高いんだろ?」
維漢は目を真っ赤にして言った。
「叔父貴、俺の人格を信じてくれるか?」
「……」
「昔、俺は金に困って叔父貴の世話になった。でも、ズルズル甘えるのは恥だと思って離れたんだ。俺は、恩を忘れる男じゃない。俺の人格を信じてくれ」
三江は頷いた。
「へへっ」
維漢が安心してビスケットに手を伸ばすと、パシッ! と叩かれた。
「食うな、供物にするんだ」
「桂英! 供物台をセットしろ!」
維漢が供物台を裏口の外へ運び出すと、三江が怒鳴った。
「馬鹿野郎! 近所に見せびらかす気か! 中に入れろ!」
田舎の夜は暗い。外で火を使えば遠くからでも丸見えだ。 維漢は慌てて机を戻し、裏口近くの壁際に置いた。ビスケット、カステラ、ピーナッツ、そして肉鬆(肉でんぶ)。 三江は蝋燭と紙銭を燃やし、空き缶の中で焚き上げた。その後、ポケットから鈴を取り出し、詰めてあった綿を取り除いた。 チリン……と澄んだ音が鳴る。
「小遠侯、右手を出せ」
鈴が少年の手首に結ばれた。
「これを持て」
三江は火のついた線香を短く折り、香炉に立てて追遠に持たせた。 桂英が青ざめて止めようとするが、維漢が強く引き止めた。
「やるしかないんだ!」
「よし、小遠侯」
三江が孫の耳元で囁く。
「これからひい爺ちゃんが前を歩く。お前は後ろをついてくるんだ。ゆっくりな、香炉を落とすなよ」
「うん」
「いい子だ」
三江は追遠を連れて裏口を出た。
「お前らは家の中で待ってろ。絶対についてくるな。戸を閉めろ」
維漢たちは言われた通りにした。
夜の川辺に、老人と子供が残された。
「待ってろよ」
三江は川辺へ降り、水をかき回しながら何かをブツブツと呟いた。時折、逃げるような仕草を見せる。 やがて彼は戻ってきた。息が切れている。
「よし、小遠侯。何があっても、どんな音がしても、絶対に振り返るなよ」
「わかった」
三江は二十メートルほど先へ行き、手招きした。 だが、追遠は動かない。
「おいで、小遠侯」
「でも……」
追遠は空いた手で川の方を指差した。
「彼女を待たないの?」
「誰を?」
「小黄鶯。ついてきてないよ」
三江は凍りついた。戻ってきて、孫の顔を覗き込む。
「お前、あいつを感じるのか?」
「うん」
「あいつは……今どこにいる?」
追遠は少し待ってから言った。
「来たよ」
「どこだ?」
三江が身構える。
「さっきまで水の中にいたけど……今は、僕の後ろ」
三江は追遠の後ろを見ようとして、堪えた。 見るまでもない。鼻をつく強烈な死臭が漂ってきたからだ。 来た。本当についてきた。
「小遠侯、行くぞ」
「うん」
三江は前を歩き始めた。チリン、チリンと鈴の音が続く。 彼は村道を避け、川沿いの林の中を進んだ。 半分ほど来たところで、三江は立ち止まり、振り返った。 二十メートル後方、追遠が香炉を抱えて立っている。 その背後に、人影が見えた。密着するように、立っている。
「小遠侯、ついてこい」
「うん」
再び歩き出す。大髭の家の裏にある養魚池が見えてきた。 三江は池の縁を歩きながら、ゆっくりと振り返った。 月明かりの下、追遠が足元を気にしながら歩いている。 その後ろに、チャイナドレスの女がいた。 彼女は盲目の人が案内人にすがるように、両手を少年の肩に乗せている。少年が揺れるたび、彼女もまた体を揺らし、一歩一歩ついてきていた。 三江は恐怖で足がもつれそうになったが、必死で耐えた。
「止まるな、もうすぐだ!」
ついに、大髭の家の前に着いた。 深夜で灯りはない。 三江は横向きになり、左手を大髭の家へ、右手を追遠の方へ差し出し、口上を述べた。
「今日は供物を捧げ、来年は祭ってやる。義理はこれまでだ。陰だろうが陽だろうが、道理を通せ! 怨みには頭(かしら)があり、借金には主がいる。関係ない者を巻き込むな!」
しかし、二つの人影は重なったままだ。
「小遠侯、跪(ひざまず)け」
追遠は立ったままだ。
「ひい爺ちゃん……跪けないよ」
肩を掴む力で、体が下がらないのだ。 三江は激昂し、地面に指を突き立てた。
「俺は水の上を漂う者だ! 顔を立ててやればつけ上がりやがって! ならいいさ、ちゃぶ台返しだ! 竜王様のところへ行って白黒つけようじゃねえか!」
その時、「ギィーッ」と鉄の門が開いた。 大髭とその息子が出てきた。二人ともパンツ一丁で、裸足だ。 見つかったか? 三江は身構えた。 だが、二人は三江を無視し、虚ろな目で養魚池へ向かっていく。 その歩き方は異様だった。踵(かかと)を浮かせ、つま先だけで歩いている。 二人はフラフラと、しかし倒れることなく池へ入り、膝、腰、肩……そして頭まで沈んでいった。
「ドスン!」
肩の重みが消え、追遠は尻餅をついた。 三江が駆け寄る。
「伢児!」
追遠は呆然と前を指差した。
前方には、小黄鶯がいた。 彼女は両手を前へ伸ばし、探るように歩いて池へ入っていく。水に入ると動きが滑らかになり、あの拙(つたな)いダンスを踊り始めた。 関節は強張り、動きはギクシャクしているが、没頭している。 水が腰を、胸を隠していく。 彼女は両手を空へ掲げ、踊り続けた。 やがて頭が見えなくなり、水面には両腕だけが残り、それも手首、指先となり……最後に黒い水草のような髪が一瞬揺らめいて、消えた。
最後の波紋と共に、すべてが終わった。
三江は追遠を背負い、小走りで逃げ去った。安全圏まで離れてから子供を下ろし、腰を叩きながらタバコを取り出した。
「いいか、夢だ。明日の朝には全部忘れてる」
追遠は頷いたが、あの光景を忘れることはないだろうと思った。 三江はタバコの灰を落とし、沈んでいる孫を励ました。
「小遠侯、楽しいことを考えろ」
「楽しいこと?」
三江はタバコを持った指で、大髭の家の方角を指差した。
「宴席(※葬式の飯)が食えるぞ!
「ばあちゃん! 起きてよ!」
崔桂英(サイ・ケイエイ)を揺すっても反応がない。李追遠(リ・ツイエン)は奥の部屋へ走り、雑魚寝している兄弟たちに縋り付いた。
「潘(パン)兄ちゃん! 起きて!」
「雷(レイ)兄ちゃん! 英(イン)姉ちゃん!」
一人ずつ揺すって回るが、彼らもまた、台所の祖母と同じく、泥のように眠ったままだ。
「ポタ……ポタ……ポタ……」
追遠は顔を上げ、台所へ続く扉を見た。小黄鶯(シャオ・ホワンイン)の姿はない。
「ふぅ……」
安堵の息を吐いたのも束の間、足元に水たまりができていることに気づいた。水かさは増し、凸凹の土間を侵食していく。
「ポタ……ポタ……ポタ……」
水滴が頭上から降り注ぎ、服を濡らし、粘りつくような冷たさを伝えてくる。 視界の両端に、二つの手が現れた。 冷え切った手が、ついに彼の首を掴んだ。 追遠は身を震わせた。強烈な窒息感が襲う。 だが、その手は首を絞めるのではなく、ゆっくりと下方へ滑り降りていった。
頭上に影が落ちる。追遠が恐る恐る見上げると、上の人物もまた、ゆっくりと顔を下ろしてきた。 濡れた長髪がカーテンのように垂れ下がり、少年の顔に張り付き、まるで黒い巨大な口のように、彼の頭を少しずつ覆い隠し、やがて……飲み込んだ。
……
「漢侯(カンホウ)、もっとゆっくり! 尻が痛えよ! イテテッ……」
李三江(リ・サンジャン)は李維漢(リ・イカン)の腰にしがみつきながら、痛む尻を浮かせようと必死だった。
「叔父貴、動かないでくれ、転ぶぞ!」
「お前が飛ばしすぎなんだよ!」
葬式の宴席で李三江を拾った維漢は、一刻も早く家へ戻ろうと自転車を飛ばしていた。田舎の小道は狭く、穴だらけだ。老骨の三江には酷な道のりだった。 維漢も仕方なく速度を落とした。もうすぐ家だ。
「やれやれ……」
三江はポケットのタバコを探った。
「漢侯、止まって一服しようや」
「もうすぐ家だ、家に着いてからにしてくれ」
「何をそんなに慌てる? 劉の盲(めくら)に見てもらったんだろ? 小遠侯(シャオユエンホウ)なんざ、今頃ピンピンしてるさ」
「あの婆さん、本当に効くのか?」
維漢は劉金霞(リュウ・キンカ)の力を半信半疑だった。本当に陰陽に通じているなら、あんな悲惨な人生を送るはずがない。それに比べて、現役の「撈屍匠(ろうししょう)」である三江の方がよほど頼りになった。
「まあ、昔は詐欺まがいだったが、今はそれなりに場数を踏んでるさ。『麻縄は細いところから切れる』って言うだろ? 彼女は切れるところから切って、経験を積んだんだ」
「叔父貴、意味がわからんよ」
「わからんでいい。とにかく、小遠侯がもし『祟(たた)られ』てても、あの婆さんならなんとかするさ。昔の恩義もあるしな」
「俺は心配なんだ。いっそ俺が祟られた方がマシだ」
「お前って奴は、本当にえこひいきが激しいな。昔は末娘、今はその息子か。まあ、祟られた側は案外、楽なもんさ。首を吊る人間が、輪っかの中に恍惚とした夢を見るようにな」
「叔父貴、それじゃまるで良いことみたいじゃないか」
「良いことなわけあるか。まあ、墓参りで熱を出した程度の小病で済むってことだ」
「ところで叔父貴、あの“土左衛門”はどうするつもりだ?」
「どうする?」
三江の声が険しくなった。
「俺が悠々自適な引退生活を捨ててまで、あの『水の上を歩く』ような化け物を退治しに行くとでも思ったか?」
維漢はギクリとして、再びペダルを強く踏み込んだ。
「おいおい! ゆっくり行けって! 漢侯、また発作か! 逃げ切ったんだから、家まで追ってくるわけないだろう!」
「着いた!」
自転車が庭先に入ると、維漢は飛び降りた。三江も降りて尻をさする。
「桂英(ケイエイ)、桂英!」
「はいはい、大きな声出さないでよ、子供たちが寝てるんだから」
崔桂英が出てきて、三江を迎えた。
「叔父さん、よく来てくれました」
「おう。とりあえず、伢児(ヤーアル)を見せろ」
三江は門板(※即席のベッド)の横にしゃがみ込み、李追遠を診た。
「起こそうか?」
と桂英。
「いい、祟りは落ちてる。劉の婆さんがやったな?」
「ええ」
桂英が午後の顛末を話すと、三江は頷いた。
「桂英、お前が昔、あの母娘に良くしてやったおかげだ。徳が孫に返ってきたな」
「そんな、大したことじゃ」
「いや、大したことさ。普通なら断られる案件だぞ。あの婆さん、今頃家で『貧乏くじ引いた』って泣いてるはずだ」
「叔父貴、座ってくれ」
維漢が椅子とタバコを出し、妻に言った。
「何か腹にたまるものを」
桂英は鍵付きの棚からビスケットやカステラを出し、三江の前に並べた。
「明日は肉を買ってきて、ちゃんとお酒をご馳走しますから」
「そんな気を使うな」
三江はビスケットを平らげ、維漢が差し出したお代わりは断った。
「もういい。伢児も無事だ、俺は帰るよ」
「送るよ。桂英、懐中電灯だ」
その時だった。 熟睡していたはずの李追遠が突然痙攣し、荒い息を吐き始めた。額には脂汗が滲んでいる。 三江がすぐに戻り、様子を見る。
「叔父貴、これは……」
「大丈夫だ、悪夢を見てるだけだ。最初は魅入られて良い夢を見るが、正気に戻れば怖くなる。数日もすれば忘れるさ」
「ああっ!」
追遠が叫び声を上げて飛び起きた。
「小遠侯、大丈夫だよ、ばあちゃんだよ」
桂英が抱きしめる。追遠は祖母、祖父、そして見知らぬ老人(三江)を見た。
「小遠侯、ひい爺ちゃんだぞ」
三江が赤鼻を指して笑った。 追遠は瞬きをし、夢を思い出したのか、急に裏口を指差して叫んだ。
「小黄鶯(シャオ・ホワンイン)だ! 彼女が家に来た!」
「いい子だね、悪い夢を見たんだよ。ばあちゃんが追い払ったからね」
桂英が宥める。
「本当に?」
「ああ、夢で怖かっただけだ」
維漢も安堵して言った。 夫婦は胸を撫で下ろしたが、李三江だけは違った。彼は孫が指差した裏口を凝視し、顔から笑みが消えていた。
「漢侯、懐中電灯をよこせ」
「叔父貴、送ってくよ」
「よこせ!」
三江は電灯を奪い取り、維漢を押しのけて裏口へ直行した。川辺へ降り、水面を照らす。 三江は地面に唾を吐き、声を潜めた。
「どんな夢なら構わんが、土左衛門が家に来る夢なんぞ、洒落にならん」
「えっ、本当に来たのか?」
「静かに!」
三江は川を照らし続けたが、何も見つからない。
「叔父貴、何もいないぞ」
「漢侯、音が聞こえるか?」
維漢は耳を澄ませた。
「……いや、何も」
「フン。真夏の川辺が、こんなに静かなわけがあるか?」
維漢はハッとした。カエルも虫も鳴いていない。死のような静寂。あの「土左衛門」が近くに潜んでいる証拠だ。
三江は家に戻った。
「桂英、黄酒(ホワンチュウ)を一杯くれ」
「ピーナッツも炒めましょうか?」
「酒だけでいい、急げ!」
三江は酒を受け取ると、追遠の前にしゃがんだ。
「小遠侯、ちょっと痛いぞ。我慢しろよ」
追遠が頷くと、三江は酒を子供の首にかけ、ゴシゴシと力任せに擦り始めた。紙やすりで削られるような痛みだったが、追遠は唇を噛んで耐えた。 首が真っ赤になったところで、三江は鼻を近づけ、思い切り息を吸い込んだ。 カッ! と目を見開き、三江は尻餅をついた。
「叔父貴!」
「タバコだ、漢侯、タバコをくれ」
三江の手は震えていた。
「桂英、伢児を部屋に入れろ。戸を閉めろ」
「一体どうしたの?」
「言われた通りにしろ!」
維漢が怒鳴った。
女たちが消え、台所には男二人だけになった。
「漢侯、厄介なことになった。劉の婆さんは確かに祓(はら)ったはずだ。だが今、子供の首からまた死臭がした。俺の鼻は誤魔化せん」
三江は維漢を見た。
「あの土左衛門、マジで追ってきやがった」
維漢は棚から薪割り用の斧を取り出した。
「畜生、ぶち殺してやる!」
三江はタバコを深く吸い、煙を吐いた。
「彼女が出てこなかったらどうする?」
「え?」
「奴は家の周りに潜んで、じっと待ってるんだ。今日、明日、明後日……まず小遠侯、次は他の孫たち、最後にお前ら夫婦だ。家ごと呪い殺されるぞ」
「じゃあ、逃げるか?」
「一度ついてきた奴が、二度目についてこない保証があるか?」
「どうすりゃいいんだ、叔父貴、助けてくれ!」
「方法は、ある」
三江はタバコをもみ消した。
「奴は、あの小黄鶯だな? 村人は大髭(おおひげ)の息子と消えたのを見たと言ったな」
「ああ」
「なら話は早い。冤罪には債務者がいる。債務者が見つからないから、最初に触れたお前の孫に取り憑いたんだ」
三江はビスケットをもう一枚かじった。
「このビスケット、美味いな。高いんだろ?」
維漢は目を真っ赤にして言った。
「叔父貴、俺の人格を信じてくれるか?」
「……」
「昔、俺は金に困って叔父貴の世話になった。でも、ズルズル甘えるのは恥だと思って離れたんだ。俺は、恩を忘れる男じゃない。俺の人格を信じてくれ」
三江は頷いた。
「へへっ」
維漢が安心してビスケットに手を伸ばすと、パシッ! と叩かれた。
「食うな、供物にするんだ」
「桂英! 供物台をセットしろ!」
維漢が供物台を裏口の外へ運び出すと、三江が怒鳴った。
「馬鹿野郎! 近所に見せびらかす気か! 中に入れろ!」
田舎の夜は暗い。外で火を使えば遠くからでも丸見えだ。 維漢は慌てて机を戻し、裏口近くの壁際に置いた。ビスケット、カステラ、ピーナッツ、そして肉鬆(肉でんぶ)。 三江は蝋燭と紙銭を燃やし、空き缶の中で焚き上げた。その後、ポケットから鈴を取り出し、詰めてあった綿を取り除いた。 チリン……と澄んだ音が鳴る。
「小遠侯、右手を出せ」
鈴が少年の手首に結ばれた。
「これを持て」
三江は火のついた線香を短く折り、香炉に立てて追遠に持たせた。 桂英が青ざめて止めようとするが、維漢が強く引き止めた。
「やるしかないんだ!」
「よし、小遠侯」
三江が孫の耳元で囁く。
「これからひい爺ちゃんが前を歩く。お前は後ろをついてくるんだ。ゆっくりな、香炉を落とすなよ」
「うん」
「いい子だ」
三江は追遠を連れて裏口を出た。
「お前らは家の中で待ってろ。絶対についてくるな。戸を閉めろ」
維漢たちは言われた通りにした。
夜の川辺に、老人と子供が残された。
「待ってろよ」
三江は川辺へ降り、水をかき回しながら何かをブツブツと呟いた。時折、逃げるような仕草を見せる。 やがて彼は戻ってきた。息が切れている。
「よし、小遠侯。何があっても、どんな音がしても、絶対に振り返るなよ」
「わかった」
三江は二十メートルほど先へ行き、手招きした。 だが、追遠は動かない。
「おいで、小遠侯」
「でも……」
追遠は空いた手で川の方を指差した。
「彼女を待たないの?」
「誰を?」
「小黄鶯。ついてきてないよ」
三江は凍りついた。戻ってきて、孫の顔を覗き込む。
「お前、あいつを感じるのか?」
「うん」
「あいつは……今どこにいる?」
追遠は少し待ってから言った。
「来たよ」
「どこだ?」
三江が身構える。
「さっきまで水の中にいたけど……今は、僕の後ろ」
三江は追遠の後ろを見ようとして、堪えた。 見るまでもない。鼻をつく強烈な死臭が漂ってきたからだ。 来た。本当についてきた。
「小遠侯、行くぞ」
「うん」
三江は前を歩き始めた。チリン、チリンと鈴の音が続く。 彼は村道を避け、川沿いの林の中を進んだ。 半分ほど来たところで、三江は立ち止まり、振り返った。 二十メートル後方、追遠が香炉を抱えて立っている。 その背後に、人影が見えた。密着するように、立っている。
「小遠侯、ついてこい」
「うん」
再び歩き出す。大髭の家の裏にある養魚池が見えてきた。 三江は池の縁を歩きながら、ゆっくりと振り返った。 月明かりの下、追遠が足元を気にしながら歩いている。 その後ろに、チャイナドレスの女がいた。 彼女は盲目の人が案内人にすがるように、両手を少年の肩に乗せている。少年が揺れるたび、彼女もまた体を揺らし、一歩一歩ついてきていた。 三江は恐怖で足がもつれそうになったが、必死で耐えた。
「止まるな、もうすぐだ!」
ついに、大髭の家の前に着いた。 深夜で灯りはない。 三江は横向きになり、左手を大髭の家へ、右手を追遠の方へ差し出し、口上を述べた。
「今日は供物を捧げ、来年は祭ってやる。義理はこれまでだ。陰だろうが陽だろうが、道理を通せ! 怨みには頭(かしら)があり、借金には主がいる。関係ない者を巻き込むな!」
しかし、二つの人影は重なったままだ。
「小遠侯、跪(ひざまず)け」
追遠は立ったままだ。
「ひい爺ちゃん……跪けないよ」
肩を掴む力で、体が下がらないのだ。 三江は激昂し、地面に指を突き立てた。
「俺は水の上を漂う者だ! 顔を立ててやればつけ上がりやがって! ならいいさ、ちゃぶ台返しだ! 竜王様のところへ行って白黒つけようじゃねえか!」
その時、「ギィーッ」と鉄の門が開いた。 大髭とその息子が出てきた。二人ともパンツ一丁で、裸足だ。 見つかったか? 三江は身構えた。 だが、二人は三江を無視し、虚ろな目で養魚池へ向かっていく。 その歩き方は異様だった。踵(かかと)を浮かせ、つま先だけで歩いている。 二人はフラフラと、しかし倒れることなく池へ入り、膝、腰、肩……そして頭まで沈んでいった。
「ドスン!」
肩の重みが消え、追遠は尻餅をついた。 三江が駆け寄る。
「伢児!」
追遠は呆然と前を指差した。
前方には、小黄鶯がいた。 彼女は両手を前へ伸ばし、探るように歩いて池へ入っていく。水に入ると動きが滑らかになり、あの拙(つたな)いダンスを踊り始めた。 関節は強張り、動きはギクシャクしているが、没頭している。 水が腰を、胸を隠していく。 彼女は両手を空へ掲げ、踊り続けた。 やがて頭が見えなくなり、水面には両腕だけが残り、それも手首、指先となり……最後に黒い水草のような髪が一瞬揺らめいて、消えた。
最後の波紋と共に、すべてが終わった。
三江は追遠を背負い、小走りで逃げ去った。安全圏まで離れてから子供を下ろし、腰を叩きながらタバコを取り出した。
「いいか、夢だ。明日の朝には全部忘れてる」
追遠は頷いたが、あの光景を忘れることはないだろうと思った。 三江はタバコの灰を落とし、沈んでいる孫を励ました。
「小遠侯、楽しいことを考えろ」
「楽しいこと?」
三江はタバコを持った指で、大髭の家の方角を指差した。
「宴席(※葬式の飯)が食えるぞ!
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