糸と蜘蛛

犬若丸

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4章 闇底で交わす小指

カンダタ、生前 崩れる 17

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 そこからは全てが曖昧だ。幼虫たちが這う感覚も朧げで、夢心地の中にいた。
 はっきりしているのは一つ、耳元で囁くあの声だ。
 「望みのものを手に入れるんだ」「あの子の為に」「幸せの為に」「死んでも構わない」「死んでもいい」
 ゆっくりと穏やかに魂に刻まれていく。囁かれる度に頷き、頷く度にそれらは自分の言葉であると自覚する。
 甘い匂いに包まれ、囁く声が反復する。暗闇に身を委ね、黒蝶が魂を蹂躙する。



 俺に光が差し込んだのは突然の出来事だった。
 光が暗闇を裂き、開かれる。黒に慣れてしまった目にその純白は痛かった。思えず目を瞑り、顔を逸らす。
 「ほら、待ち焦がれた彼だ」
 蝶男の声がした。しかし、俺に向けられたものではない。
 女性が息を呑み、狭い檻に駆け寄る。女性が口を開き、音を漏らす。呼ばれているのか話しかけているのかわからない。女性の声が理解できない音となっている。
 眩しさに俺は呻く。早くあの暗闇に帰してくれと女性に背を向け、身体を丸める。
 女性が手を伸ばし、丸くなった背中に触れた。指が震えている。
 よく聞けば、声に嗚咽が混じっている。更によく聞けば「ごめんなさい」と繰り返している。
 微かに春の匂いがする。それが優しく、俺の姿勢は自然と光に向けられた。
 俺の前にいたのは涙で汚れた女性だった。腰まで伸びた髪は結われておらず、飾り気がない。花丸紋の赤い着物を身に纏っている。
 「だ、れだ?」
 知らない女性がそこにいた。
 俺の問いに女性は悲しく顔を歪め、嗚咽を漏らす。
 「よかったね。賭けに勝った。これで彼は自由だ」
 「黙って!」
 蝶男の嘲笑に女性は怒鳴った。鶯とはほど遠い声だ。
 「二人にさせて」
 怒鳴ったかと思えば次は弱々しく願う。
 「いいだろう。僕はあちら側に行ってくる。別れの言葉をゆっくり考えればいいさ」
 あっさりと承諾した蝶男は小屋から離れ、姿を消す。
 「ごめんなさい、ほんとごめんなさい」
 泣きながら謝る女性は俺の頬を慈しみ撫でる。
 綺麗なのに涙で汚れるのはもったいないなと俺は呆然としながら呑気に思っていた。
 どこからか持ってきた南京錠の鍵で檻を開ける。
 自分を囲むものがなくなり、俺の身体は雪崩れるように檻から出た。
 檻の外に出られたのは上半身だけであり、その半身も起き上がれずに地面に転がったままだ。
 立ち上がれない。脚はある。だが、脚の使い方を思い出せない。
 「これしかなかったの」
 泣きながら許しを乞いているようだ。
 涙を拭った目は強い決意を宿していた。
 立ち上がると外の様子を見、すぐ様、俺のもとへと戻る。
 「立てる?」
 首を横に振る。
 女性は俺の右腕を自身の肩に回し、左腕は左の脇腹に回すと帯を掴む。女性が立ち上がれば、半身を預け背負わされていた。
 「私が連れ行くから。もうあちら側に関わらなくていいから」
 俺を背負う彼女は暗い小屋から外の光へと歩き出す。
 一歩、踏むたびに身体が揺れ、俺の顔は彼女の首筋にすり寄せる。春の匂いが心地よかった。
 数日間のうちに俺の目は暗闇に慣れすぎてしまった。外の光を浴びた目は真面に開けられず、光は容赦なく、瞳の奥を刺激する。
 痛みを伴う刺激から逃れようと彼女の首に額を埋め、僅かな陰を求める。
 そんな俺に彼女は「大丈夫」と「すぐ元通りになる」とを繰り返す。身体は揺らされ、運ばれる。
 俺の意識は朦朧としており、どこを歩いているのかさえも把握できない。登っているのか、それとも下っているのか。
 春が近い風は仄かに冷たく芽生えたばかりの青草を踏む。春の匂いと体温が心地よかった。
 対して、彼女の指先は次第に冷たくなっていく。吐く息も荒い。それでも俺を下ろさず、休まず、歩き続けた。
 一刻も早く人喰い塀から離れないといけない。一歩でも、遠くへと。
 彼女の指が冷たい。
 あぁ、そうだ。彼女はよく指が冷えていた。だから、その手を包んで温めていたんだ。
 いつも、そうしていた。
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