糸と蜘蛛

犬若丸

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7章 赤い珠が映す空想未来

白い鬼、幼い記憶 14

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 「寒かったね。中に入ろう」
 声も低くて顔も違う。けど、言い方や見慣れた微笑だったので、彼が誰なのかすぐにわかった。
 「ちょう、おとこ」
 その呼び名の通りに男性になった蝶男が正解だと頷いた。
 蝶男の言葉が頭に入らず、彼の足元に転がっている乳母を見つめた。
 乳母さんの顔は恐怖で固まっていて、その目には涙が溜まっていた。
 「死んでるよ」
 何も聞いていないのに蝶男が答えた。
 「死体は片付けておくよ」
 「なんで、ころしたの」
 呼吸が苦しい口で蝶男に問いかける。
 「もういらないからね」
 私が理解できずにいるのを蝶男は不思議になって首を傾げた。
 「紅柘榴だってそうしてきただろう」
 蝶鬼はまだ子供の私に目線を合わせてしゃがんだ。私を呑んでしまいそうな黒くて底無しの闇が怖かった。
 「盗人も生活に困っていた村人も、塀の中に入ってきた者を殺してきたじゃないか」
 「だって、それは、みんなにおね、がい、されたから」
 「なら、僕も紅柘榴の為に殺した。殺されそうになっていたからね」
 塀の外の人たちは危険だと乳母さんから教わった。危険なら守らないとと思って殺してきた。
 蝶男も私と同じことをした。乳母さんが私を殺そうとしたから、私を守るために殺した。
 「何も悪いことじゃない。僕も君も正しいことをしたんだ」
 今までの私を認めてくれたからほっとして安心する。けど、眠ってしまった兄や乳母さんを見てすぐに安心が消えた。
 兄は私を傷つけようとしなかったし、殺そうとしなかった。将来の話をする兄は輝いていた。
 今まで私が殺してきた人たちもそうだ。
 村人が私に殺意を向けたのは私が侵入者と変わりないからだ。塀の中に侵入した盗人は盗まないと生きていけない。
 危険ではない。皆、生きるのに必死なだけ。私が殺して良い理由にはならない。
 私が死にたくないと思う気持ちは相手も思っている。
 兄も叔母さんも殺されたくはなかった。それを私と蝶男が奪った。
 「大切な、人だったんでしょ」
 乳母さんにとって蝶男はそうだった。彼女は蝶男を慕っていたし、私と兄とは違う親しみが二人にはあった。
 私は兄を殺してこんなに苦しいのに蝶男は平然と笑っている。
 「違うよ」
 蝶男はあっさりと否定して、そこで私はこの人が受け入れられない理由をはっきりと自覚した。
 蝶男には情がない。心もないから共感もしない。
 相手が悲しんでいる時、同じように悲しむのが人間、という知識があるだけで、心があるように動いて見せてるだけ。
 「羽織一枚では寒いだろう。本当に風邪をひいてしまう」
 動こうとしない私に蝶男は手を差し伸べる。
 「いやっ」
 はっきりとした拒絶でも蝶男は笑っていた。私にはそれが強かった。
 「なんで助けてくれなかったの」
 蝶男が兄を止めてくれれば、戻ってくる意思があることを乳母さんに言ってくれれば、私が塀を出ることもなかったし、私が兄を殺すこともなかったし、乳母さんが私を殺そうともしなかった。
 「観察者が手を出したらいけないからさ」
 私は乳母さんも兄も家族だと思っている。蝶男だって苦手なだけど私たちの生活に関わっているから少なくても仲間意識があった。でも、蝶男にはほんの少しの情も持ち合わせていない。
 笑顔を向けても乳母さんに愛情を向けても蝶男にあるのは無だ。
 今も笑う蝶男が得体の知れない化け物に見えた。
 再び蝶男が手を伸ばす。私は触れられたくなくて、地面に尻をついたまま後退する。蝶男が私の頭を掴んで即座に首を絞めた。
 乳母さんが私を殺そうとしたのを思い出して、鬼になって抵抗しようとした。
 けど熱が上がる感覚はやってこなかった。
 私が鬼になれないとわかった蝶男は首から手を離し、代わりに脇に手を差し入れ持ち上げる。
 「嫌だっ放して」
 私は子供らしく腹這いになって地面に張り付いて抵抗しようとしても大人の身体を持つ蝶男にはかなわない。
 どうしてと戸惑っていても蝶男は笑ったままだ。
 「君に好意を持ってもらうのは無理そうだから痛みで制御するしかないね」
 平坦な蝶男から出た痛みと言う言葉。今日一日だけで受けた様々な痛みがこれからも続くと想像してしまう。
 優しいと思っていた蝶男から暴力を受けた事はない。けどこいつなら痛みも痺れも、私が苦しいと思えるものなら何でも与えてくると確信していた。
 蝶男は暴れる私を離れに運ぶ。
 見られているはずの離れが死刑場に見えた。



 体液塗れになっていた。座敷楼の中で倒れ、汗などで汚れた私の額を蝶男は撫でるように拭う。
 私は指一本も動かせないくらい疲れていて、蝶男の手を払えなかった。
 その手つきは優しく、ついさっきまであんな酷いことをしていた本人だとは思えない。
 「よく頑張ったね」
 蝶男が何か言っていたが、私には何も響かなかった。
 「外には出ない、人とは関わらない。中に入った人間は必ず殺すこと」
 最中に何度も言われたことを蝶男は大切だからと繰り返し約束させる。
 私は僅かに首を動かした。蝶男はそれを肯定と受け取った。
 目蓋を上げ続けるのも困難になって、意識を手放すように目を閉じた。静かに眠りにつく心の内は蝶男に「死ね」と吐き捨てていた。
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