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止む風と強き光
しおりを挟む「砂像が……壊されてる!」
砂像祭最終日、朝の浜辺に悲鳴が響いた。
祭りの象徴、人魚姫の砂像は粉々に崩れ落ちていた。
「誰がこんなことを……!」
「ひどい……!」
ざわめく群衆の中、砂に埋もれた布切れが拾い上げられる。
「これ……ヴェント男爵の従者のマントの布だ!」
騒然とする中、いやらしい笑い声が割り込んだ。
「ほう、布切れ一枚で私を疑うか。下民どもは浅はかだな」
現れたヴェント男爵は痩せた体に擦り切れた外套を纏い、下卑た笑みを浮かべていた。
「砂像が崩れたくらいで国を動かした気になっているとは。お前らの娯楽は安っぽいなあ」
わざとらしい嘲笑に、島民は怒りに燃える。
だが彼はさらに顔を歪め、エリザベスを見据えた。
「おや? 元王太子妃様。高貴ぶった顔で睨んでも、ここではただの流人同然でしょう」
「……卑劣な」
エリザベスが小さく呟いたが、ヴェントは聞き逃さずに口端を吊り上げた。
「今回は見逃してやろう。だが代償は払ってもらうぞ。これまで続けてきた我が領との貿易は、今日限りでお断りだ!」
ざわめきが広がる。
ヴェント領からの食糧・織物・家畜は、この島にとって欠かせないものだ。交易が絶たれれば、暮らしはすぐに苦しくなる。
さらに男爵は、にやりと笑みを深めた。
「ですが私は心優しい領主でね。エリザベス元王太子妃様を私に渡すなら、特別に慈悲を与えましょう!」
その下卑た言葉に、人々の血が沸騰した。
「馬鹿なことを!」
「姫様を渡すだなんて……!」
島民たちは一斉に声を荒げる。
だがヴェントは、従者に顎をしゃくった。
すぐに二人の従者が前に出て、短剣を抜き放つ。
「抵抗するなら、力ずくでもいただくまで」
冷たい刃が陽を反射した瞬間、空気が凍りつく。
「――黙れ、ヴェント」
冷ややかな声がその空気を切り裂いた。
人々が振り返ると、エドワードが一歩前に進み出ていた。
その姿勢は凛として揺るがない。
「貴様、またしても無礼を働くのか! おい、こいつを処刑しろ!」
ヴェントが狼狽し、従者が刃を構える。
「我に矛を向けるか。なら、容赦はせぬ」
エドワードはマントを翻し、胸元の紋章を示した。
「ヴァルメア侯爵、エドワード・フォン・ヴァルメア。ヴェント男爵、貴様の無礼な振る舞い、風島の意向と心得た」
その名が告げられた瞬間、群衆が一斉に息をのむ。
「ヴァルメア侯爵……!? ま、まさか……」
青ざめたヴェントは後ずさり、砂に尻もちをついた。
虚勢を張る余裕すらなく、慌てて砂に両手をつき、額をこすりつける。
「お許しを……侯爵閣下! ほんの冗談でございます! 元王太子妃様を辱める気など毛頭なく……っ! ど、どうか命だけは……!」
声は裏返り、喉を震わせる。従者たちも短剣を投げ捨て、主人と同じように這いつくばった。
「我が領は弱小……交易を絶たれれば民が飢えます! どうか、どうかご慈悲を……!」
だが、返ってきた声は氷の刃だった。
「――下衆」
エドワードの視線は冷え切っていた。
「貴様が飢えさせるのは民ではなく、己の欲だ。そのような領主に、未来などない」
「ひぃ……!」
ヴェントは恐怖に爪を割りながら、さらに縋った。
「ど、奴隷でも犬でも構いません! エリザベス様の御足を舐めよと仰せならば、喜んで……!」
島民が息をのむ。さきほどまで人々を見下していた男が、今は土に額を擦りつけ、哀れな犬のように吠えている。
エドワードは剣を抜いた。
月光を映す刃先が、ヴェントの首筋へと伸びる。
「――処刑せよ」
静かに下された命令に、空気が凍りついた。
従者たちは悲鳴を上げ、ヴェントは泡を吹きそうなほどに喉を鳴らす。
「ま、待ってください! どうかっ……!」
だが、そのとき。
「お待ちくださいませ、エドワード様!」
エリザベスが声を張り上げた。
その瞳は真剣で、彼の腕を掴んで止める。
「血で砂祭りを終わらせてはなりません。島民にとっては祝祭なのです……!」
エドワードはしばし彼女を見つめ、そして微かに口端を緩めた。
「君がそう望むのなら」
刃が音を立てて収められる。
その瞬間、島民は気づいた――冷酷無比の侯爵が、唯一甘さを見せるのは、この姫に対してだけだと。
ヴェントは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、なおも許しを乞い続けた。
「か、閣下……! ありがとうございます!」
その哀れな姿に、島民は軽蔑の笑みを浮かべ、誰も手を差し伸べることはなかった。
ただ、エドワードだけが静かに告げた。
「命拾いしたのは、彼女の慈悲によるものだ。二度とこの島に足を踏み入れるな――さもなくば、次は彼女すら止められぬ。」
「ひぃ……っ、し、失礼を……!」
ヴェントは従者に引きずられるようにして逃げ去った。
ヴェント男爵一行が砂煙を上げて逃げ去ると、浜辺に静けさが戻った。
島民たちは胸を撫で下ろし、次々と声を上げる。
「侯爵様が俺たちを守ってくれた!」
真っ先に叫んだのはラウルだった。
だが彼は拳を握りしめたまま、隣に立つ姫へと顔を向ける。
「でも……本当に救ってくださったのはエリザベス姫様です。あのお方が止めなければ、砂浜は血に染まっていた……」
その声に、群衆が頷き、感嘆の声を漏らす。
その言葉に島民たちはざわめき、やがて頷きが波のように広がっていく。
マーシャは涙をぬぐい、声を震わせた。
「エリザベス様……あの時、私たちのために命を賭けて止めてくださったのでしょう? なんてお優しいお方……」
視線が集まる。尊敬と感謝が重なり合い、彼女を包み込んだ。
エリザベスは戸惑いながらも背筋を伸ばし、凛と受け止めた。
ふと隣を見る。エドワードの姿があった。
先ほどまで冷酷に処刑を言い渡した男と同じはずなのに――今の彼は、ただ静かに彼女を見守る瞳をしていた。
「……やはり、あなたなのですね」
小さな声で呟いた瞬間、エドワードの瞳がわずかに揺れた。
だが彼はすぐにいつもの冷徹な仮面をかぶり直す。
「何のことだ?」
とぼける声音。だが、彼女を拒む鋭さはなかった。
「昔……王宮で舞の練習をしていた折。
痛めた足を癒してくださった少年がいました。
誰にも言えず、心の奥に仕舞って……けれど、ずっと忘れられなかったのです」
城の砂像に照らされ、彼女の頬が赤らんでいる。
その姿に、エドワードはしばし言葉を失った。
「その少年が……あなた、エドワード様だったのでしょう?」
沈黙。
波の音だけが寄せては返す。
やがて彼は、ふっと口端を緩めた。
「……君はよく覚えていたな。
あのときは、ただ……泣きそうな顔をしているのを放っておけなかっただけだ」
冷たく突き放すような言い方。
だが、声はかすかに震えていた。
エリザベスは瞳を潤ませ、息を呑む。
「でも……あなたは、今も私を助けてくださった」
「君だからだ」
その一言は、刃よりも鋭く胸に突き刺さる。
彼が誰にも見せぬ弱さを、エリザベスだけに明かしていると、島民たちすら気づいてしまうほどに。
彼は冷酷無比の侯爵。だが、彼女にだけは甘い。
その事実が、誰の目にも明らかになった瞬間だった。
氷のように冷酷な侯爵が、ただ一人に向けて告げる甘さ。
その落差に、島民は息を呑み、確信した。
――この姫こそ、彼の心を縛る唯一の存在なのだと。
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