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甘い誘いに対する答え
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舞踏会場の中央。
カルロスとエリザベスが描く優雅な円は、楽団の音色と重なり、誰もが見惚れるほどに完璧だった。
貴族たちの囁きも、嫉妬の視線も、その美しい光景の前には霞んでしまう。
だが、その場を鋭い眼差しで見据える男がいた。
新侯爵エドワード・ヴァルメア。
彼は冷静を装い、口元に静かな笑みさえ浮かべていた。
侯爵としての威厳、王家お抱え医師としての沈着、その仮面は誰も揺るがせはしない。
しかし内心では、胃の奥から煮えたぎるものが込み上げていた。
(……カルロス。お前が彼女をどう見ているかなど、痛いほど分かる)
舞踏のたびに交わされる視線、囁き。
ほんの一瞬に過ぎぬはずなのに、エドワードの胸には焼けつくような嫉妬が広がっていた。
拳を握れば、骨が鳴りそうだ。
だが彼は微動だにしない。
侯爵当主として、嫉妬に駆られて飛び出すことなど許されぬ。
冷静さを欠いたその瞬間、獲物を狙う貴族たちが牙を剥くことを、彼は誰よりも知っていた。
「ヴァルメア侯爵、久方ぶりだね」
「まぁ、侯爵さま。ようやくおひとりでいらっしゃるのですね」
艶のある声が耳元に忍び寄る。
振り向けば、三大公爵の一人、マリウス公爵とその娘が、声をかけると、周囲にいた貴族たちが場所を譲る。
「ご無沙汰しております、マリウス公爵。その後、夫人の体調はいかがですか」
「かなり回復しているよ。君の治癒と服用している薬のおかげだ。妻は今夜君の晴れ姿を見たいと一緒に途中まで来ていたんだが、まだ体力は戻っていなくてね。来賓室で休んでいるよ」
「そうでしたか。病気は完治しても、体力回復は別の話。部下から報告は受けておりますゆえ、すぐに施術できます。後程訪問しましょう」
「それはありがたい。妻も喜ぶ」
マリウス公爵は、豪奢な衣を揺らしながら、隣に控える娘へ視線を向けた。
すぐに察したのだろう、娘は鮮やかな紅を引いた唇を弧に曲げ、にこりと笑う。
「侯爵殿。……娘の名はレティシア。まだ十八ですが、学問にも芸事にも秀でております」
公爵の声は、会話の体を成しながらも、周囲の耳に届くよう絶妙に響かせていた。
ちらちらとこちらへ向けられる視線。
すぐに噂が飛び交い始める。
「ほう……宰相様が直々に」
「なるほど、ヴァルメア侯爵の婚約者は亡命姫だろう? 王国の正式な承認があるわけでもなし……」
「もし公爵家から縁談がまとまれば、王国にとっても」
ひそひそと漏れる言葉に、エドワードの口元がわずかに歪んだ。
だが、それは不快ゆえではなかった。
(……やはり、こう来るか)
予想の範疇。いや、もとより織り込み済みだ。
王都に戻り、叙爵を受けた時点で、貴族たちが「婚約者を差し替えよう」と動き出すことなど目に見えていた。
むしろ、それこそが己の地位を高める舞台装置となる。
“亡命妃”を退け、公爵家の娘を迎えるのか。
それとも――その思惑を一蹴し、なお彼女を選び続けるのか。
その選択を人々に見せつければ、否応なく「ヴァルメア侯爵」という存在は強固な色を帯びていく。
マリウス公爵は六十を超える老練の政治家であった。そして彼はこの王国の宰相である。
マリウス公爵。この王国で彼に頭脳で敵う者はいないと謳われる老練の宰相。
六十を超えるその身に、なお鋭さと気迫を湛えている。
ただ一つの弱点と呼ばれるのは、後継問題であった。
長男ユリウス・マリウス。
まだ十歳にも満たぬ幼子であり、カルロスの年齢から見れば十五歳も下になる。
時期宰相として名高いが、その座を受け継ぐにはあまりに幼い。
だからこそ、マリウスは「繋ぎ」を欲していた。
息子が成長し宰相の座を継ぐその日まで、確かな柱となる人材を傍に置くこと。
そして今、その最有力がエドワード・ヴァルメア。
叙爵を受けて侯爵となり、すでに宮廷で「次代の宰相候補」と囁かれ始めている。
カルロスが王位に就く頃、その右腕として任じられるのは彼ではないか。
だからこそ、マリウスは娘レティシアを差し出すのだ。
ヴァルメア家との縁を繋ぎ、やがて息子ユリウスが宰相を継ぐ時、揺るぎなき基盤を築くために。
一方で、広間では別の噂が渦を巻いていた。
「カルロス殿下は王位に就くまで婚姻も婚約もしない」と宣言した件。
その言葉が今夜になり妙な色を帯び始めている。
「……あれは、亡命姫に心惹かれているからでは?」
「殿下の視線を見ただろう。あれは王太子としての慈愛ではない」
「もしや……」
ひそひそと囁かれるその対象は、舞踏の中心に立つエリザベスだった。
かつて王太子妃教育を受けた彼女の立ち居振る舞いは完璧。
そしてカルロスの眼差しには、時折どうしようもない愛おしさが滲んでいた。
その噂は、やがて大きな波となって広がりつつあった。
そして、ただひとりの娘レティシア・マリウス。
鮮やかな紅を差した唇は「男心を惑わす笑み」と称され、
その強気で妖艶な気質は、王都の貴婦人たちの格好の話題でもある。
彼女はまるで舞台に立つ役者のように、人々の視線を一身に浴びることを楽しんでいた。
その視線を武器にできることも、生まれた時から知っていた。
そんな彼女が、今、侯爵の腕へと絡みついたのだ。
「侯爵さま。……少し、お相手していただけますか?」
声は甘やかで、広間に香を撒き散らすようだった。
衣擦れの音と共に肩から布が滑り落ち、白磁の肌が月明かりのように輝く。
胸元に伸びる細い指、首筋を撫でる吐息。
広間の視線は一斉に釘付けとなった。
若き貴族たちは羨望の息を漏らし、老獪な貴族たちは「さて、どう受け流すか」とその采配を待った。
それは単なる娘の誘惑ではない。
宰相マリウスの意図と、王都の注視が重なった政治的な“罠”でもあった。
レティシアの柔らかな腕が、エドワードの逞しい肘へと絡みつく。
彼女の吐息はわざとらしいほどに甘く、広間の明かりを反射する宝石の首飾りが胸元で揺れた。
その仕草ひとつひとつが「私を受け入れて」と言わんばかりにあからさまだった。
「侯爵さま。……この場でおひとりなのは惜しいこと。よろしければ、今宵だけでも私をエスコートしてくださいませ」
唇に紅を引いた微笑が近くで弾ける。
周囲の視線が熱を帯び、さざ波のように噂が広がる。
「見たか……あのマリウス公爵の娘が」
「なるほど、亡命姫よりもよほど安定した縁ではないか」
「宰相家の血とヴァルメア侯爵……盤石ではないか」
囁きは計算されたものだろう。
宰相家の娘とヴァルメア侯爵の結びつきは、貴族たちにとっても衝撃と興奮をもたらす。
これで彼が頷けば、瞬く間に「エリザベスは捨てられる」という風評が広まるに違いない。
(……なるほど。マリウス公爵、やはり老獪だ)
エドワードは、絡みつく腕を振り払うこともなく、ただ静かに微笑んだ。
まるで、優雅に舞台の幕開けを見守る観客のように。
レティシアは勝ち誇ったように微笑んだ。
侯爵の逞しい腕に自らの身体を預け、人々の視線を浴びる快感に酔っている。
だが、エドワードの唇から紡がれた言葉は、彼女の思惑を易々と裏切った。
「レティシア嬢。……光栄なお誘いです。しかし、あいにく今宵の私には、すでに“伴侶”がございますので」
その言葉は、会場を一瞬にして静めた。
婚約者の存在を明言したこと。
それを、宰相家の娘に向けてはっきりと口にしたこと。
その冷徹な拒絶は、レティシアに恥をかかせるどころか、逆に彼女を「侯爵に心惹かれた純粋な娘」と見せることすらできる。
マリウス公爵の視線が細められる。
だが、その瞳には苛立ちではなく、評価の色が宿っていた。
(……ふむ。やはり、この男か)
軽々しく誘惑に溺れず、それでいて娘を傷つけぬよう逃げ道を残す。
相手の体面も守りつつ、己の立場を強固にする――その采配は、まさしく宰相に匹敵するものだった。
エドワードはゆるやかにレティシアの腕を解き、彼女の手を取って優美に口付けを落とした。
まるで「心から敬意を払っている」と示すかのように。
「美しい令嬢と共に歩けぬのは残念ですが……どうか、今宵はお父上とご一緒に。
私が真に護り抜くべき相手は、ただひとりですので」
その言葉は、レティシアを落とすことなく、むしろ「自らの忠誠心」と「一途さ」を高めるものだった。
周囲の貴族たちはざわめき、誰もが「ヴァルメア侯爵は婚約者に揺るがぬ」と悟る。
だが、会場の熱気は一瞬にして静まり返った。
エドワードの「伴侶はすでにいる」という明言は、まるで冷水を浴びせるかのように人々の囁きを止めたのだ。
だがその場に緊張を残したまま終わらせることこそ、政治的には拙い。
エドワードはすぐさま、柔らかな微笑を浮かべ、声を響かせた。
「ですがレティシア嬢。伴侶を持つ身ながら、ひととき……“踊り”という形で、あなたに敬意を示させてはいただけませんか」
その声音は真摯でありながら、女性を悦ばせる甘やかさを帯びていた。
会場にいる誰もが「ああ、これが侯爵の器か」と納得する。
レティシアの頬が赤らむ。
これまで幾人もの若き貴族に口説かれてきた彼女だったが、誰もが自分を飾り物として扱った。
だが、目の前の男は違う。
毅然と「他には目を向けぬ」と宣言しながらも、女性としての尊厳を完璧に立てたのだ。
(……こんな男性、初めて)
胸を打たれたレティシアは、思わず瞳を潤ませながら、小さく頷いた。
「光栄に……存じます」
その様子に、マリウス公爵の唇がかすかに綻んだ。
そして、広間の奥に控える楽団へと視線を投げ、指先で小さく合図を送る。
刹那――楽団長が弦を鳴らし、終盤に差しかかっていた旋律がふたたび盛り上がりを見せ始めた。
誰もが驚き、そして期待を込めて舞踏の中心を注視する。
そこで踊っていたのは、カルロスとエリザベスだ。
二人の舞は既に完成されていた。
王族としての品位、そして彼女が王太子妃教育で培った所作。
全てが合わさり、まるで絵画の中から抜け出したような美しさを放っていた。
だが、曲が延長されたことで、真価が試される。
長く踊るほどに呼吸は乱れ、動きは鈍る。
即興の変化にどれだけ対応できるか――それこそが“実力”の証。
カルロスは楽しげに目を細め、エリザベスを導く。
彼女もまた、息を乱さず微笑みを崩さぬ。
その完璧な応対に、観客から思わずため息が漏れた。
――そこへ。
新たに加わる二つの影。
エドワードとレティシア。
侯爵の端正な笑み、そしてエスコートされる令嬢の誇らしげな顔。
二人が並び立った瞬間、会場の空気がざわめきに変わった。
「おお……まさか並んで踊るのか」
「殿下と侯爵、二人の舞台か!」
音楽が二組を包み込み、舞踏の中心に眩い光を灯す。
カルロスとエリザベスは揺るぎない美。
エドワードとレティシアは鮮烈な迫力。
四人が描く円は互いに絡み合い、まるで舞台の上で競い合う演者のよう。
次第に観衆の目には、それが「舞踏会」ではなく――まるで「舞踏戦」のように映り始めていた。
カルロスとエリザベスが描く優雅な円は、楽団の音色と重なり、誰もが見惚れるほどに完璧だった。
貴族たちの囁きも、嫉妬の視線も、その美しい光景の前には霞んでしまう。
だが、その場を鋭い眼差しで見据える男がいた。
新侯爵エドワード・ヴァルメア。
彼は冷静を装い、口元に静かな笑みさえ浮かべていた。
侯爵としての威厳、王家お抱え医師としての沈着、その仮面は誰も揺るがせはしない。
しかし内心では、胃の奥から煮えたぎるものが込み上げていた。
(……カルロス。お前が彼女をどう見ているかなど、痛いほど分かる)
舞踏のたびに交わされる視線、囁き。
ほんの一瞬に過ぎぬはずなのに、エドワードの胸には焼けつくような嫉妬が広がっていた。
拳を握れば、骨が鳴りそうだ。
だが彼は微動だにしない。
侯爵当主として、嫉妬に駆られて飛び出すことなど許されぬ。
冷静さを欠いたその瞬間、獲物を狙う貴族たちが牙を剥くことを、彼は誰よりも知っていた。
「ヴァルメア侯爵、久方ぶりだね」
「まぁ、侯爵さま。ようやくおひとりでいらっしゃるのですね」
艶のある声が耳元に忍び寄る。
振り向けば、三大公爵の一人、マリウス公爵とその娘が、声をかけると、周囲にいた貴族たちが場所を譲る。
「ご無沙汰しております、マリウス公爵。その後、夫人の体調はいかがですか」
「かなり回復しているよ。君の治癒と服用している薬のおかげだ。妻は今夜君の晴れ姿を見たいと一緒に途中まで来ていたんだが、まだ体力は戻っていなくてね。来賓室で休んでいるよ」
「そうでしたか。病気は完治しても、体力回復は別の話。部下から報告は受けておりますゆえ、すぐに施術できます。後程訪問しましょう」
「それはありがたい。妻も喜ぶ」
マリウス公爵は、豪奢な衣を揺らしながら、隣に控える娘へ視線を向けた。
すぐに察したのだろう、娘は鮮やかな紅を引いた唇を弧に曲げ、にこりと笑う。
「侯爵殿。……娘の名はレティシア。まだ十八ですが、学問にも芸事にも秀でております」
公爵の声は、会話の体を成しながらも、周囲の耳に届くよう絶妙に響かせていた。
ちらちらとこちらへ向けられる視線。
すぐに噂が飛び交い始める。
「ほう……宰相様が直々に」
「なるほど、ヴァルメア侯爵の婚約者は亡命姫だろう? 王国の正式な承認があるわけでもなし……」
「もし公爵家から縁談がまとまれば、王国にとっても」
ひそひそと漏れる言葉に、エドワードの口元がわずかに歪んだ。
だが、それは不快ゆえではなかった。
(……やはり、こう来るか)
予想の範疇。いや、もとより織り込み済みだ。
王都に戻り、叙爵を受けた時点で、貴族たちが「婚約者を差し替えよう」と動き出すことなど目に見えていた。
むしろ、それこそが己の地位を高める舞台装置となる。
“亡命妃”を退け、公爵家の娘を迎えるのか。
それとも――その思惑を一蹴し、なお彼女を選び続けるのか。
その選択を人々に見せつければ、否応なく「ヴァルメア侯爵」という存在は強固な色を帯びていく。
マリウス公爵は六十を超える老練の政治家であった。そして彼はこの王国の宰相である。
マリウス公爵。この王国で彼に頭脳で敵う者はいないと謳われる老練の宰相。
六十を超えるその身に、なお鋭さと気迫を湛えている。
ただ一つの弱点と呼ばれるのは、後継問題であった。
長男ユリウス・マリウス。
まだ十歳にも満たぬ幼子であり、カルロスの年齢から見れば十五歳も下になる。
時期宰相として名高いが、その座を受け継ぐにはあまりに幼い。
だからこそ、マリウスは「繋ぎ」を欲していた。
息子が成長し宰相の座を継ぐその日まで、確かな柱となる人材を傍に置くこと。
そして今、その最有力がエドワード・ヴァルメア。
叙爵を受けて侯爵となり、すでに宮廷で「次代の宰相候補」と囁かれ始めている。
カルロスが王位に就く頃、その右腕として任じられるのは彼ではないか。
だからこそ、マリウスは娘レティシアを差し出すのだ。
ヴァルメア家との縁を繋ぎ、やがて息子ユリウスが宰相を継ぐ時、揺るぎなき基盤を築くために。
一方で、広間では別の噂が渦を巻いていた。
「カルロス殿下は王位に就くまで婚姻も婚約もしない」と宣言した件。
その言葉が今夜になり妙な色を帯び始めている。
「……あれは、亡命姫に心惹かれているからでは?」
「殿下の視線を見ただろう。あれは王太子としての慈愛ではない」
「もしや……」
ひそひそと囁かれるその対象は、舞踏の中心に立つエリザベスだった。
かつて王太子妃教育を受けた彼女の立ち居振る舞いは完璧。
そしてカルロスの眼差しには、時折どうしようもない愛おしさが滲んでいた。
その噂は、やがて大きな波となって広がりつつあった。
そして、ただひとりの娘レティシア・マリウス。
鮮やかな紅を差した唇は「男心を惑わす笑み」と称され、
その強気で妖艶な気質は、王都の貴婦人たちの格好の話題でもある。
彼女はまるで舞台に立つ役者のように、人々の視線を一身に浴びることを楽しんでいた。
その視線を武器にできることも、生まれた時から知っていた。
そんな彼女が、今、侯爵の腕へと絡みついたのだ。
「侯爵さま。……少し、お相手していただけますか?」
声は甘やかで、広間に香を撒き散らすようだった。
衣擦れの音と共に肩から布が滑り落ち、白磁の肌が月明かりのように輝く。
胸元に伸びる細い指、首筋を撫でる吐息。
広間の視線は一斉に釘付けとなった。
若き貴族たちは羨望の息を漏らし、老獪な貴族たちは「さて、どう受け流すか」とその采配を待った。
それは単なる娘の誘惑ではない。
宰相マリウスの意図と、王都の注視が重なった政治的な“罠”でもあった。
レティシアの柔らかな腕が、エドワードの逞しい肘へと絡みつく。
彼女の吐息はわざとらしいほどに甘く、広間の明かりを反射する宝石の首飾りが胸元で揺れた。
その仕草ひとつひとつが「私を受け入れて」と言わんばかりにあからさまだった。
「侯爵さま。……この場でおひとりなのは惜しいこと。よろしければ、今宵だけでも私をエスコートしてくださいませ」
唇に紅を引いた微笑が近くで弾ける。
周囲の視線が熱を帯び、さざ波のように噂が広がる。
「見たか……あのマリウス公爵の娘が」
「なるほど、亡命姫よりもよほど安定した縁ではないか」
「宰相家の血とヴァルメア侯爵……盤石ではないか」
囁きは計算されたものだろう。
宰相家の娘とヴァルメア侯爵の結びつきは、貴族たちにとっても衝撃と興奮をもたらす。
これで彼が頷けば、瞬く間に「エリザベスは捨てられる」という風評が広まるに違いない。
(……なるほど。マリウス公爵、やはり老獪だ)
エドワードは、絡みつく腕を振り払うこともなく、ただ静かに微笑んだ。
まるで、優雅に舞台の幕開けを見守る観客のように。
レティシアは勝ち誇ったように微笑んだ。
侯爵の逞しい腕に自らの身体を預け、人々の視線を浴びる快感に酔っている。
だが、エドワードの唇から紡がれた言葉は、彼女の思惑を易々と裏切った。
「レティシア嬢。……光栄なお誘いです。しかし、あいにく今宵の私には、すでに“伴侶”がございますので」
その言葉は、会場を一瞬にして静めた。
婚約者の存在を明言したこと。
それを、宰相家の娘に向けてはっきりと口にしたこと。
その冷徹な拒絶は、レティシアに恥をかかせるどころか、逆に彼女を「侯爵に心惹かれた純粋な娘」と見せることすらできる。
マリウス公爵の視線が細められる。
だが、その瞳には苛立ちではなく、評価の色が宿っていた。
(……ふむ。やはり、この男か)
軽々しく誘惑に溺れず、それでいて娘を傷つけぬよう逃げ道を残す。
相手の体面も守りつつ、己の立場を強固にする――その采配は、まさしく宰相に匹敵するものだった。
エドワードはゆるやかにレティシアの腕を解き、彼女の手を取って優美に口付けを落とした。
まるで「心から敬意を払っている」と示すかのように。
「美しい令嬢と共に歩けぬのは残念ですが……どうか、今宵はお父上とご一緒に。
私が真に護り抜くべき相手は、ただひとりですので」
その言葉は、レティシアを落とすことなく、むしろ「自らの忠誠心」と「一途さ」を高めるものだった。
周囲の貴族たちはざわめき、誰もが「ヴァルメア侯爵は婚約者に揺るがぬ」と悟る。
だが、会場の熱気は一瞬にして静まり返った。
エドワードの「伴侶はすでにいる」という明言は、まるで冷水を浴びせるかのように人々の囁きを止めたのだ。
だがその場に緊張を残したまま終わらせることこそ、政治的には拙い。
エドワードはすぐさま、柔らかな微笑を浮かべ、声を響かせた。
「ですがレティシア嬢。伴侶を持つ身ながら、ひととき……“踊り”という形で、あなたに敬意を示させてはいただけませんか」
その声音は真摯でありながら、女性を悦ばせる甘やかさを帯びていた。
会場にいる誰もが「ああ、これが侯爵の器か」と納得する。
レティシアの頬が赤らむ。
これまで幾人もの若き貴族に口説かれてきた彼女だったが、誰もが自分を飾り物として扱った。
だが、目の前の男は違う。
毅然と「他には目を向けぬ」と宣言しながらも、女性としての尊厳を完璧に立てたのだ。
(……こんな男性、初めて)
胸を打たれたレティシアは、思わず瞳を潤ませながら、小さく頷いた。
「光栄に……存じます」
その様子に、マリウス公爵の唇がかすかに綻んだ。
そして、広間の奥に控える楽団へと視線を投げ、指先で小さく合図を送る。
刹那――楽団長が弦を鳴らし、終盤に差しかかっていた旋律がふたたび盛り上がりを見せ始めた。
誰もが驚き、そして期待を込めて舞踏の中心を注視する。
そこで踊っていたのは、カルロスとエリザベスだ。
二人の舞は既に完成されていた。
王族としての品位、そして彼女が王太子妃教育で培った所作。
全てが合わさり、まるで絵画の中から抜け出したような美しさを放っていた。
だが、曲が延長されたことで、真価が試される。
長く踊るほどに呼吸は乱れ、動きは鈍る。
即興の変化にどれだけ対応できるか――それこそが“実力”の証。
カルロスは楽しげに目を細め、エリザベスを導く。
彼女もまた、息を乱さず微笑みを崩さぬ。
その完璧な応対に、観客から思わずため息が漏れた。
――そこへ。
新たに加わる二つの影。
エドワードとレティシア。
侯爵の端正な笑み、そしてエスコートされる令嬢の誇らしげな顔。
二人が並び立った瞬間、会場の空気がざわめきに変わった。
「おお……まさか並んで踊るのか」
「殿下と侯爵、二人の舞台か!」
音楽が二組を包み込み、舞踏の中心に眩い光を灯す。
カルロスとエリザベスは揺るぎない美。
エドワードとレティシアは鮮烈な迫力。
四人が描く円は互いに絡み合い、まるで舞台の上で競い合う演者のよう。
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