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月の女神と若き妖精
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楽団の奏でる旋律はさらに熱を帯び、舞踏の広間は一瞬にして競技場のような空気に包まれた。
観客の視線は、二組の男女カルロスとエリザベス、エドワードとレティシアへと釘付けになる。
片や王太子と亡命姫。
片や新侯爵と宰相の娘。
立場も、美も、期待も。
あらゆるものが交錯し、この舞踏の場を“決戦”へと変貌させていた。
カルロスは凛とした気迫を纏い、エリザベスを導く手に一片の迷いもない。
そしてエリザベスは、まるで月の女神のごとき気高さを湛えていた。
その所作には、一朝一夕では身に付けられぬ重みがあった。
かつて大国リンドブルグの王太子妃として扱かれた日々。
徹底的な教育、容赦ない試練、それらを耐え抜いた彼女だからこそ、踊りの一挙手一投足に圧倒的な説得力が宿る。
裾を翻すたびに観客の息が呑まれ、微笑むたびに誰もが心を奪われた。
(……さすがだ)
エドワードは舞いながら、己の婚約者を直視した。
嫉妬を越え、もはや誇りが胸を満たす。
――やはり、彼女は唯一無二だ。
一方のレティシアは、確かに才気に満ちた娘だった。
容姿も華やかで、人を惹きつける笑みも心得ている。
だが、舞踏は笑顔だけでは踊れない。
経験不足。
そして、己を見せつけたいという虚栄が、動きをわずかに硬直させていた。
リズムが遅れ、ステップが乱れれば、そのたびにエドワードが巧みに修正し、優雅に見せかける。
観客はそれを見抜いていた。
「まだまだ未熟だ」「ヴァルメア侯爵に支えられている」と。
だが、逆に言えばエドワードの卓越した実力が鮮やかに際立った。
女性を導き、乱れを正し、なお美しさを損なわせぬ。
その器量は「侯爵」という地位をさらに強固にするには十分だった。
舞踏は佳境を迎え、楽団は最後の力を振り絞るかのように音を重ねる。
旋律の頂点に差しかかると同時に――
カルロスとエリザベスが、まるでひとつの影のように同調した。
裾が広がり、月光を纏ったかのように白と蒼の煌めきが舞う。
その美は圧倒的で、観客の視線を一瞬にして奪い尽くした。
「……っ、美しい……」
「これが……元王太子妃の力……!」
嘆息と拍手が重なり、会場の空気は最高潮に達する。
そして、楽団の音が高らかに鳴り響いた瞬間。
カルロスとエリザベスは完璧なフィナーレを描き切り、その場に静止した。
続けざまにエドワードとレティシアも舞を終える。
彼の優雅な動きは最後まで乱れず、観客に「侯爵としての品格」を見せつけた。
だが、並び立ったその姿を見比べれば、勝敗は火を見るより明らかだった。
圧倒的な実力、美しさ、そして存在感。
全てを兼ね備えたカルロスとエリザベスの勝利。
レティシアは誇らしげに胸を張りつつも、悔しさを隠しきれなかった。
自分が「まだまだ及ばぬ」と痛感させられたのだ。
しかし、その横で微笑むエドワードだけは、確かな評価を得ていた。
彼の舞踏の腕前、導き方、そして余裕ある態度は、誰の目にも明らかに「一流」であった。
(……エドワード・ヴァルメア。やはり噂に違わぬ男だ)
そう囁き合う声が、貴族たちの間を駆け抜ける。
勝者はカルロスとエリザベス。
だが、この夜、もう一人――エドワードもまた己の力を証明したのだった。
楽団の最後の余韻が静かに消えたあとも、会場はざわめきで満ちていた。
拍手が鳴り止まぬまま、カルロスとエリザベスの周りには幾重もの人垣ができる。
「見事なお二人でした!」
「殿下のお導きも素晴らしかったですが何より、エリザベス様のお姿が素晴らしい!」
「まるで舞い降りた月の女神のようだ」
称賛の声は尽きず、口々に賛美が飛び交う。
その中で、ある壮年の伯爵がふと呟いた。
「そういえば、土島の港町で人魚姫が現れたという噂を聞いたが……」
「おお、それは私も耳にした。船乗りたちが『月光の下で踊る人魚姫』を見たと」
「もしや、そのお姿……エリクセン公爵令嬢、いや、貴女が」
誰かが声を上げると、まるで火がついたように噂は広がっていく。
「人魚姫……!」
「なんと美しい呼び名だ」
「亡命の影などもはや関係ない。あれは確かに――人魚姫だ」
瞬く間に、「亡命姫」という言葉は空気から消え去り、代わりに「人魚姫」という呼び名が会場を満たした。
エリザベスは困惑を隠しきれずにいたが、カルロスは誇らしげに口元を緩め、その新しい名を誰よりも喜んでいるように見えた。
――その光景を、会場の隅から鋭く見据える影があった。
エドワードと、彼の腕に寄り添うレティシアである。
舞踏を終えた彼らにも称賛の声は寄せられていた。
「ヴァルメア侯爵のご実力はやはり見事」「導き手として完璧だ」と。
だが、その声の多くはエドワードに向けられ、レティシアへの賞賛は明らかに薄い。
(……許せない)
胸の奥が熱く煮え立つ。
エリザベスの姿に観衆の目を奪われ、噂は新たな名を彼女に与えた。
そして自分は“侯爵に支えられて踊った娘”でしかない。
唇を噛みしめたレティシアは、意を決して口を開いた。
「侯爵さま……」
踊りの余韻に濡れた声。
そこには媚びと、確かな熱がこもっていた。
「今宵のご舞踏、わたくしにとって忘れられぬひと時となりました。どうか……この先も、わたくしのことを――」
だが、その言葉は最後まで続かなかった。
エドワードが視線を逸らし、あまりに自然な動作で彼女の手を解いたからだ。
「ご厚意、感謝いたします」
短く礼を述べただけで、彼は歩き出す。
その目が追う先には、エリザベス。
人垣を抜け、彼女の背へと迷いなく近づく。
周囲の視線を集めながら、エドワードは腰へと手を回し、その身を引き寄せた。
突然の接触に、エリザベスの肩が小さく跳ねる。
だが、すぐに彼女の表情は落ち着きを取り戻した。
エドワードはカルロスへと目を向け、低い声で告げる。
「――殿下。素晴らしいダンスでした。彼女のお相手、感謝いたします。ですが、この先は、わたくしの役目ですので」
広間がどよめく。
宣言にも等しいその言葉は、隠すことなく響き渡った。
カルロスの表情が一瞬だけ硬直する。
それは怒りではなく、嫉妬でもなく、己が立場をわきまえる苦悩の色だった。
そして、さらに強烈な衝撃を受けたのはレティシアだった。
手の中から零れ落ちる砂を、掴み返すことはできない。
彼女の瞳には、嫉妬と憤りが入り混じり、やがてその矛先はエリザベスへと向かう。
「……エリザベス様」
絹糸のように張り詰めた声で、レティシアが呼びかけた。
その瞳は炎を宿し、挑戦者の光を放っていた。
「わたくしは、負けません。いつか必ず、あなたを超えてみせます。ヴァルメア侯爵の隣に立つにふさわしいのは、このわたくし――」
宣戦布告。
それはただの少女の虚勢ではなかった。宰相の娘としての誇りと、女としての執念が込められていた。
会場の空気が一瞬にして張り詰める。
誰もが次の一言を待ちわびて息を呑んだ。
だが、エリザベスは――微笑んだ。
挑発に怒りもせず、恐れもせず。
彼女の唇に宿るのは、女王にも等しい余裕と気品だった。
「……ご自由になさって。けれど――」
彼女はエドワードの手を取り、その温もりを確かめるように指を絡めた。
「侯爵の隣に立つ者は、挑戦ではなく“選ばれる”もの。あなたがいくら足掻こうと最後に決めるのは、この人ですわ」
静かに、けれど広間の隅々にまで届くほど澄んだ声だった。
それは、王太子妃として幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼女だけが放てる、圧倒的な器の輝き。
レティシアの瞳が揺らぎ、言葉を失った。
周囲の貴族たちもまた、ため息と共にその光景を見届ける。
――人魚姫。
その新たな呼び名は、もはやただの噂ではない。
エリザベスが己の力で勝ち取った、揺るがぬ地位の象徴となった。
そして、その傍らで静かに微笑むエドワード。
この夜、彼女の隣に立つことを選び、貴族社会に明確な答えを突きつけたのであった。
娘の完敗を認めざるを得なかったマリウス公爵は、重々しい足取りで前へ進み出た。
その視線はまずエリザベスへ。
「……見事でした、エリザベス嬢」
その声は、敗者の父としての悔しさを押し殺し、ただ一人の女性として彼女を讃える響きだった。
周囲が驚きに息を呑む。あの老練な宰相が、若き亡命姫に対してここまでの敬意を示すとは。
「娘にとって、あなたは大きな目標となりましょう。敗北は恥ではない。糧にしてこそ、真の成長がある」
次に視線は、隣に控えるレティシアへと向けられた。
彼女は唇を噛みしめながらも、必死に涙を堪えていた。
「レティシア」
「……はい、お父さま」
「勝ち取りたいのならば、己を磨け。だが、敵視することは許さぬ。尊敬と研鑽の糧として、己を高めよ」
その言葉に、娘の瞳が揺れ、やがて静かに頷いた。
若さゆえの悔しさはある。だが彼女は理解していた。
エリザベスを敵とするより、学びの対象とした方が自らの未来に繋がると。
エリザベスはゆるやかに歩み出る。
舞踏を終えたばかりとは思えぬほど気品ある姿勢で、彼女はレティシアの前に立った。
「マリウス公爵令嬢」
呼びかけに、レティシアは思わず身を固くした。
あまりの失態を嘲笑われるのではないか――そう恐れ、胸の奥に冷たい影が差す。
だが次の瞬間、エリザベスの微笑みがそれを溶かした。
「次も楽しみにしておりますわ」
「……え?」
その声は、まるで春風のように柔らかかった。
「二度と敵わぬ」と切り捨てるのではなく、「また共に舞いましょう」と差し伸べる手。
観衆が驚きにざわめき、レティシアの瞳が大きく見開かれる。
エリザベスは、乱れた彼女の髪にそっと手を伸ばした。
長い舞踏の中で外れかけた一房を指先ですくい取り、自らの頭に留められていた髪飾りを外す。
月光を受けて煌めく宝石の髪ピン、土島で掘られた宝石をあしらった、素朴ながらも美しいピン。
そのままレティシアの髪に添え、優しく整えた。
会場が息を呑む。
「次の舞踏の折には、この飾りに似合う踊りを、きっと披露してくださるのでしょう?」
贈り物ではない。
だが、それは「期待」という名の信頼の証だった。
レティシアの胸に、雷鳴のような衝撃が走る。
敵わぬと悟った相手に、同時に「憧れ」を見てしまったのだ。
この人のようにありたい――そんな気持ちが、敗北の痛みを凌駕して心を満たす。
「……はい。必ず」
若き挑戦者は涙を堪えながらも、強く頷いた。
それは悔恨ではなく、新たな決意の証。
恋敵でありながらも、彼女に憧れを抱かずにはいられなかった。
その光景を見ていたエドワードは、口元にかすかな笑みを浮かべた。
婚約者の度量と気品が、また一人を惹きつけたことを誇らしく思うのだ。
そしてマリウス公爵もまた、深い溜息をつきながら頷く。
――この娘こそ、娘にとって最高の教師となる。
彼の胸に生まれたのは悔しさではなく、静かな感謝だった。
「侯爵殿」
再び、マリウスはエドワードに向き直る。
老獪な瞳に、父としての色が滲む。
「……娘を立ててくれたこと、感謝する。あの場で切り捨てることも容易かっただろうに、体面を保たせてくれた」
エドワードは一歩進み出て、深々と一礼した。
「娘君は才気に溢れています。いずれ必ずや大輪の花を咲かせることでしょう」
その言葉に、公爵の目がわずかに揺れた。
侯爵の婚約者にありながら、同時に娘を励ます言葉を忘れぬ――その姿勢は、父としても宰相としても、信頼に値する。
そして観衆の耳にもそのやり取りは届いた。
広間にいた誰もが、宰相と侯爵の新たな結びつきを意識し始めていた。
だが、ここまで騒ぎを立ててしまった以上、広間に長く留まるのは賢明ではない。
そのことを誰よりも分かっていたのは、エドワードだった。
自然な流れを装いながら、彼はエリザベスの手を取る。
人々の視線が吸い寄せられる中、彼女の腰を支え、ゆるやかに歩き出した。
「エドワード様?」
小声で問いかける彼女に、侯爵は優美な微笑みを浮かべた。
「さあ、我が愛しき婚約者。舞踏はもう十分。次は退場という舞を」
その一言に、彼女の頬が紅潮する。
人々の前で手を取り合い、まるで王と妃のごとく優雅に退室する二人。
会場に残された貴族たちは、その姿にうっとりと見入った。
噂の余韻はさらに広がり、「人魚姫と侯爵」という絵図が彼らの脳裏に焼き付けられていく。
ただ一人、カルロスを除いて。
(……気付いているぞ、エドワード)
彼の瞳に燃え盛る嫉妬の炎を。
誰よりも冷静を装いながら、その奥底にある獣のごとき独占欲を。
カルロスは、胸にほろ苦い痛みを抱えながらも、その真実を見抜いていた。
◆
その頃、舞踏の様子を最初から最後まで上階から見下ろしていた人物がいた。
国王である。
彼は、舞踏の終わりを見届けると、近衛に命じてカルロスを呼び寄せた。
「カルロス」
「はい、陛下」
父王の前に進み出たカルロスは、背筋を伸ばして恭しく頭を垂れる。
だが国王の問いは、あまりに率直だった。
「エリザベス嬢のこと……どう思っている」
一瞬、カルロスは言葉を失った。
脳裏に蘇るのは、あの舞踏の光景。手を取って踊った時に感じた温もり。微笑まれた時に胸を貫いた衝動。
それは、王太子としての責務ではなく、ただ一人の男としての心の叫びだった。
だが、彼はあえて微笑んでみせる。
「――甘酸っぱい初恋の味がしただけです」
国王の目が細められる。
その真意を測るように。
だが、実際のところカルロスの婚約はすでに進んでいた。
新たに同盟国となる隣国の姫君との政略婚。
その事実を人々の目から隠すため、彼はあえてエリザベスを「心惹かれる相手」として利用したに過ぎない。
もちろん、国王夫妻はすでに気付いていた。
王妃は小さく溜息をつき、そして微笑んだ。
「カルロス。……わたくしのエリザベスちゃんをいじめないで頂戴ね」
思わずカルロスは目を見張ったが、すぐに苦笑へと変わる。
「ご安心を。彼女は皆に愛される“人魚姫”ですから」
そう言って、王太子は静かに頭を垂れた。その言葉には皮肉ではなく、真実が含まれていた。
――誰もが彼女を愛さずにはいられない。
それは、嫉妬すら凌駕する存在感だった。
観客の視線は、二組の男女カルロスとエリザベス、エドワードとレティシアへと釘付けになる。
片や王太子と亡命姫。
片や新侯爵と宰相の娘。
立場も、美も、期待も。
あらゆるものが交錯し、この舞踏の場を“決戦”へと変貌させていた。
カルロスは凛とした気迫を纏い、エリザベスを導く手に一片の迷いもない。
そしてエリザベスは、まるで月の女神のごとき気高さを湛えていた。
その所作には、一朝一夕では身に付けられぬ重みがあった。
かつて大国リンドブルグの王太子妃として扱かれた日々。
徹底的な教育、容赦ない試練、それらを耐え抜いた彼女だからこそ、踊りの一挙手一投足に圧倒的な説得力が宿る。
裾を翻すたびに観客の息が呑まれ、微笑むたびに誰もが心を奪われた。
(……さすがだ)
エドワードは舞いながら、己の婚約者を直視した。
嫉妬を越え、もはや誇りが胸を満たす。
――やはり、彼女は唯一無二だ。
一方のレティシアは、確かに才気に満ちた娘だった。
容姿も華やかで、人を惹きつける笑みも心得ている。
だが、舞踏は笑顔だけでは踊れない。
経験不足。
そして、己を見せつけたいという虚栄が、動きをわずかに硬直させていた。
リズムが遅れ、ステップが乱れれば、そのたびにエドワードが巧みに修正し、優雅に見せかける。
観客はそれを見抜いていた。
「まだまだ未熟だ」「ヴァルメア侯爵に支えられている」と。
だが、逆に言えばエドワードの卓越した実力が鮮やかに際立った。
女性を導き、乱れを正し、なお美しさを損なわせぬ。
その器量は「侯爵」という地位をさらに強固にするには十分だった。
舞踏は佳境を迎え、楽団は最後の力を振り絞るかのように音を重ねる。
旋律の頂点に差しかかると同時に――
カルロスとエリザベスが、まるでひとつの影のように同調した。
裾が広がり、月光を纏ったかのように白と蒼の煌めきが舞う。
その美は圧倒的で、観客の視線を一瞬にして奪い尽くした。
「……っ、美しい……」
「これが……元王太子妃の力……!」
嘆息と拍手が重なり、会場の空気は最高潮に達する。
そして、楽団の音が高らかに鳴り響いた瞬間。
カルロスとエリザベスは完璧なフィナーレを描き切り、その場に静止した。
続けざまにエドワードとレティシアも舞を終える。
彼の優雅な動きは最後まで乱れず、観客に「侯爵としての品格」を見せつけた。
だが、並び立ったその姿を見比べれば、勝敗は火を見るより明らかだった。
圧倒的な実力、美しさ、そして存在感。
全てを兼ね備えたカルロスとエリザベスの勝利。
レティシアは誇らしげに胸を張りつつも、悔しさを隠しきれなかった。
自分が「まだまだ及ばぬ」と痛感させられたのだ。
しかし、その横で微笑むエドワードだけは、確かな評価を得ていた。
彼の舞踏の腕前、導き方、そして余裕ある態度は、誰の目にも明らかに「一流」であった。
(……エドワード・ヴァルメア。やはり噂に違わぬ男だ)
そう囁き合う声が、貴族たちの間を駆け抜ける。
勝者はカルロスとエリザベス。
だが、この夜、もう一人――エドワードもまた己の力を証明したのだった。
楽団の最後の余韻が静かに消えたあとも、会場はざわめきで満ちていた。
拍手が鳴り止まぬまま、カルロスとエリザベスの周りには幾重もの人垣ができる。
「見事なお二人でした!」
「殿下のお導きも素晴らしかったですが何より、エリザベス様のお姿が素晴らしい!」
「まるで舞い降りた月の女神のようだ」
称賛の声は尽きず、口々に賛美が飛び交う。
その中で、ある壮年の伯爵がふと呟いた。
「そういえば、土島の港町で人魚姫が現れたという噂を聞いたが……」
「おお、それは私も耳にした。船乗りたちが『月光の下で踊る人魚姫』を見たと」
「もしや、そのお姿……エリクセン公爵令嬢、いや、貴女が」
誰かが声を上げると、まるで火がついたように噂は広がっていく。
「人魚姫……!」
「なんと美しい呼び名だ」
「亡命の影などもはや関係ない。あれは確かに――人魚姫だ」
瞬く間に、「亡命姫」という言葉は空気から消え去り、代わりに「人魚姫」という呼び名が会場を満たした。
エリザベスは困惑を隠しきれずにいたが、カルロスは誇らしげに口元を緩め、その新しい名を誰よりも喜んでいるように見えた。
――その光景を、会場の隅から鋭く見据える影があった。
エドワードと、彼の腕に寄り添うレティシアである。
舞踏を終えた彼らにも称賛の声は寄せられていた。
「ヴァルメア侯爵のご実力はやはり見事」「導き手として完璧だ」と。
だが、その声の多くはエドワードに向けられ、レティシアへの賞賛は明らかに薄い。
(……許せない)
胸の奥が熱く煮え立つ。
エリザベスの姿に観衆の目を奪われ、噂は新たな名を彼女に与えた。
そして自分は“侯爵に支えられて踊った娘”でしかない。
唇を噛みしめたレティシアは、意を決して口を開いた。
「侯爵さま……」
踊りの余韻に濡れた声。
そこには媚びと、確かな熱がこもっていた。
「今宵のご舞踏、わたくしにとって忘れられぬひと時となりました。どうか……この先も、わたくしのことを――」
だが、その言葉は最後まで続かなかった。
エドワードが視線を逸らし、あまりに自然な動作で彼女の手を解いたからだ。
「ご厚意、感謝いたします」
短く礼を述べただけで、彼は歩き出す。
その目が追う先には、エリザベス。
人垣を抜け、彼女の背へと迷いなく近づく。
周囲の視線を集めながら、エドワードは腰へと手を回し、その身を引き寄せた。
突然の接触に、エリザベスの肩が小さく跳ねる。
だが、すぐに彼女の表情は落ち着きを取り戻した。
エドワードはカルロスへと目を向け、低い声で告げる。
「――殿下。素晴らしいダンスでした。彼女のお相手、感謝いたします。ですが、この先は、わたくしの役目ですので」
広間がどよめく。
宣言にも等しいその言葉は、隠すことなく響き渡った。
カルロスの表情が一瞬だけ硬直する。
それは怒りではなく、嫉妬でもなく、己が立場をわきまえる苦悩の色だった。
そして、さらに強烈な衝撃を受けたのはレティシアだった。
手の中から零れ落ちる砂を、掴み返すことはできない。
彼女の瞳には、嫉妬と憤りが入り混じり、やがてその矛先はエリザベスへと向かう。
「……エリザベス様」
絹糸のように張り詰めた声で、レティシアが呼びかけた。
その瞳は炎を宿し、挑戦者の光を放っていた。
「わたくしは、負けません。いつか必ず、あなたを超えてみせます。ヴァルメア侯爵の隣に立つにふさわしいのは、このわたくし――」
宣戦布告。
それはただの少女の虚勢ではなかった。宰相の娘としての誇りと、女としての執念が込められていた。
会場の空気が一瞬にして張り詰める。
誰もが次の一言を待ちわびて息を呑んだ。
だが、エリザベスは――微笑んだ。
挑発に怒りもせず、恐れもせず。
彼女の唇に宿るのは、女王にも等しい余裕と気品だった。
「……ご自由になさって。けれど――」
彼女はエドワードの手を取り、その温もりを確かめるように指を絡めた。
「侯爵の隣に立つ者は、挑戦ではなく“選ばれる”もの。あなたがいくら足掻こうと最後に決めるのは、この人ですわ」
静かに、けれど広間の隅々にまで届くほど澄んだ声だった。
それは、王太子妃として幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼女だけが放てる、圧倒的な器の輝き。
レティシアの瞳が揺らぎ、言葉を失った。
周囲の貴族たちもまた、ため息と共にその光景を見届ける。
――人魚姫。
その新たな呼び名は、もはやただの噂ではない。
エリザベスが己の力で勝ち取った、揺るがぬ地位の象徴となった。
そして、その傍らで静かに微笑むエドワード。
この夜、彼女の隣に立つことを選び、貴族社会に明確な答えを突きつけたのであった。
娘の完敗を認めざるを得なかったマリウス公爵は、重々しい足取りで前へ進み出た。
その視線はまずエリザベスへ。
「……見事でした、エリザベス嬢」
その声は、敗者の父としての悔しさを押し殺し、ただ一人の女性として彼女を讃える響きだった。
周囲が驚きに息を呑む。あの老練な宰相が、若き亡命姫に対してここまでの敬意を示すとは。
「娘にとって、あなたは大きな目標となりましょう。敗北は恥ではない。糧にしてこそ、真の成長がある」
次に視線は、隣に控えるレティシアへと向けられた。
彼女は唇を噛みしめながらも、必死に涙を堪えていた。
「レティシア」
「……はい、お父さま」
「勝ち取りたいのならば、己を磨け。だが、敵視することは許さぬ。尊敬と研鑽の糧として、己を高めよ」
その言葉に、娘の瞳が揺れ、やがて静かに頷いた。
若さゆえの悔しさはある。だが彼女は理解していた。
エリザベスを敵とするより、学びの対象とした方が自らの未来に繋がると。
エリザベスはゆるやかに歩み出る。
舞踏を終えたばかりとは思えぬほど気品ある姿勢で、彼女はレティシアの前に立った。
「マリウス公爵令嬢」
呼びかけに、レティシアは思わず身を固くした。
あまりの失態を嘲笑われるのではないか――そう恐れ、胸の奥に冷たい影が差す。
だが次の瞬間、エリザベスの微笑みがそれを溶かした。
「次も楽しみにしておりますわ」
「……え?」
その声は、まるで春風のように柔らかかった。
「二度と敵わぬ」と切り捨てるのではなく、「また共に舞いましょう」と差し伸べる手。
観衆が驚きにざわめき、レティシアの瞳が大きく見開かれる。
エリザベスは、乱れた彼女の髪にそっと手を伸ばした。
長い舞踏の中で外れかけた一房を指先ですくい取り、自らの頭に留められていた髪飾りを外す。
月光を受けて煌めく宝石の髪ピン、土島で掘られた宝石をあしらった、素朴ながらも美しいピン。
そのままレティシアの髪に添え、優しく整えた。
会場が息を呑む。
「次の舞踏の折には、この飾りに似合う踊りを、きっと披露してくださるのでしょう?」
贈り物ではない。
だが、それは「期待」という名の信頼の証だった。
レティシアの胸に、雷鳴のような衝撃が走る。
敵わぬと悟った相手に、同時に「憧れ」を見てしまったのだ。
この人のようにありたい――そんな気持ちが、敗北の痛みを凌駕して心を満たす。
「……はい。必ず」
若き挑戦者は涙を堪えながらも、強く頷いた。
それは悔恨ではなく、新たな決意の証。
恋敵でありながらも、彼女に憧れを抱かずにはいられなかった。
その光景を見ていたエドワードは、口元にかすかな笑みを浮かべた。
婚約者の度量と気品が、また一人を惹きつけたことを誇らしく思うのだ。
そしてマリウス公爵もまた、深い溜息をつきながら頷く。
――この娘こそ、娘にとって最高の教師となる。
彼の胸に生まれたのは悔しさではなく、静かな感謝だった。
「侯爵殿」
再び、マリウスはエドワードに向き直る。
老獪な瞳に、父としての色が滲む。
「……娘を立ててくれたこと、感謝する。あの場で切り捨てることも容易かっただろうに、体面を保たせてくれた」
エドワードは一歩進み出て、深々と一礼した。
「娘君は才気に溢れています。いずれ必ずや大輪の花を咲かせることでしょう」
その言葉に、公爵の目がわずかに揺れた。
侯爵の婚約者にありながら、同時に娘を励ます言葉を忘れぬ――その姿勢は、父としても宰相としても、信頼に値する。
そして観衆の耳にもそのやり取りは届いた。
広間にいた誰もが、宰相と侯爵の新たな結びつきを意識し始めていた。
だが、ここまで騒ぎを立ててしまった以上、広間に長く留まるのは賢明ではない。
そのことを誰よりも分かっていたのは、エドワードだった。
自然な流れを装いながら、彼はエリザベスの手を取る。
人々の視線が吸い寄せられる中、彼女の腰を支え、ゆるやかに歩き出した。
「エドワード様?」
小声で問いかける彼女に、侯爵は優美な微笑みを浮かべた。
「さあ、我が愛しき婚約者。舞踏はもう十分。次は退場という舞を」
その一言に、彼女の頬が紅潮する。
人々の前で手を取り合い、まるで王と妃のごとく優雅に退室する二人。
会場に残された貴族たちは、その姿にうっとりと見入った。
噂の余韻はさらに広がり、「人魚姫と侯爵」という絵図が彼らの脳裏に焼き付けられていく。
ただ一人、カルロスを除いて。
(……気付いているぞ、エドワード)
彼の瞳に燃え盛る嫉妬の炎を。
誰よりも冷静を装いながら、その奥底にある獣のごとき独占欲を。
カルロスは、胸にほろ苦い痛みを抱えながらも、その真実を見抜いていた。
◆
その頃、舞踏の様子を最初から最後まで上階から見下ろしていた人物がいた。
国王である。
彼は、舞踏の終わりを見届けると、近衛に命じてカルロスを呼び寄せた。
「カルロス」
「はい、陛下」
父王の前に進み出たカルロスは、背筋を伸ばして恭しく頭を垂れる。
だが国王の問いは、あまりに率直だった。
「エリザベス嬢のこと……どう思っている」
一瞬、カルロスは言葉を失った。
脳裏に蘇るのは、あの舞踏の光景。手を取って踊った時に感じた温もり。微笑まれた時に胸を貫いた衝動。
それは、王太子としての責務ではなく、ただ一人の男としての心の叫びだった。
だが、彼はあえて微笑んでみせる。
「――甘酸っぱい初恋の味がしただけです」
国王の目が細められる。
その真意を測るように。
だが、実際のところカルロスの婚約はすでに進んでいた。
新たに同盟国となる隣国の姫君との政略婚。
その事実を人々の目から隠すため、彼はあえてエリザベスを「心惹かれる相手」として利用したに過ぎない。
もちろん、国王夫妻はすでに気付いていた。
王妃は小さく溜息をつき、そして微笑んだ。
「カルロス。……わたくしのエリザベスちゃんをいじめないで頂戴ね」
思わずカルロスは目を見張ったが、すぐに苦笑へと変わる。
「ご安心を。彼女は皆に愛される“人魚姫”ですから」
そう言って、王太子は静かに頭を垂れた。その言葉には皮肉ではなく、真実が含まれていた。
――誰もが彼女を愛さずにはいられない。
それは、嫉妬すら凌駕する存在感だった。
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