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光の下の人魚姫
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朝の光が、薄いレースのカーテンを透かして差し込んでいた。
金色の粒子がゆるやかに空気の中を舞い、まるで二人を祝福するようだった。
柔らかな寝具の上、エリザベスは小さく身じろぎをした。
すぐそばに感じる温もりに、胸がどきりと鳴る。
振り向けば、すぐそこにエドワードの顔――安らかに目を閉じ、穏やかな呼吸を繰り返している。
その胸の鼓動が、静かに自分の鼓動と重なっていく。
昨夜の出来事が夢ではなかったことを、その音が優しく教えてくれた。
(……なんて、幸せなのでしょう)
頬がふわりと熱を帯びた。
あの夜、彼が見せた優しさも、情熱も――全部、自分だけに向けられたものだった。
“妻”として初めて迎える朝。
その現実が胸の奥でじんわりと広がっていく。
そっと彼の胸元に頬を寄せると、淡い香りがした。
昨夜、自分を包んだあの温もり。
指先で彼の服の端をつまむと、腕がふわりと回される。
「……目が覚めたのか」
低く、寝起きの声が耳元に落ちた。
胸の奥をくすぐるような響きに、エリザベスの心臓が跳ねる。
「は、はい……」
小さく頷くと、エドワードがゆっくりと目を開いた。
金の瞳が、柔らかい朝の光を受けて穏やかに光る。
そして、優しく額に唇が落とされた。
その瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。
まるで“愛している”と何度も語りかけているように。
「痛いところはないか?」
「大丈夫ですわ」
微笑むと、エドワードの指が彼女の頬をそっとなぞった。
熱を帯びた指先が、まるで宝物を扱うように優しい。
「なら、よかった」
安堵の吐息と共に、彼の指先が髪をすく。
エリザベスは目を細め、その温もりに頬を預けた。
昨夜も、こうして髪を撫でてくれた。
けれど今朝は、どこか違う――
互いにすべてを知った後の、深い安らぎがそこにあった。
「……エドワード様」
「なんだ?」
「こうして朝を迎えられるなんて、夢のようです」
エドワードの唇がわずかに緩んだ。
彼は静かにエリザベスの額に口づける。
「夢ではない。これから毎朝、こうして迎える」
「……そんな、贅沢なことを」
「贅沢ではない。妻の当然の権利だ」
軽口を言いながらも、その声には確かな愛情がにじんでいた。
そして彼は、いたずらっぽく囁いた。
「……それに、こうしているとお前を離したくなくなる」
その言葉に、エリザベスの心が一気に跳ね上がる。
視線がぶつかり、今度は唇に口付けされる。
舌が侵入し、絡み合い、息が詰まる。
「んッ、は……お、お仕事の支度を――」
「婚姻した翌日に仕事へ行くなど、馬鹿のすることだ」
言い終わるよりも早く、唇が重なる。
昨夜よりも穏やかで、しかしどこか名残惜しい口づけだった。
離れると、エリザベスの頬はすっかり桃色に染まっている。
「……ずるい方」
「褒め言葉として受け取ろう」
エドワードが肩をすくめて笑い、ふたりの間に柔らかな空気が満ちた。
窓辺の鳥がさえずり、朝の風がカーテンを揺らす。
エドワードは彼女の手を取って立ち上がった。
「食事を摂ろう。今日は一日、君と過ごす」
「えっ……! ご一緒できるのですか?」
ぱっと顔を輝かせたエリザベスに、エドワードが軽く笑う。
「ああ。医療業も侯爵業も、今日は休みだ」
「……嬉しい」
彼女の言葉に、エドワードの目元がやわらかくなる。
「ならば、王都でも散歩しようか」
「ええ!」
朝の光がふたりを包む。
互いの手を取って歩き出す姿は、まるで新しい物語の始まりのようだった。
――あの夜に交わした誓いが、静かに形を結んでいく。
これからの日々が、ふたりにとってどんな運命をもたらそうとも。
この朝だけは、確かに幸福で満たされていた。
◆
陽光がやわらかく降り注ぐ王都ルシエンテス。
街の広場には屋台がずらりと並び、果物や野菜、海産物の香りが混ざり合って、まるで祭りのような賑わいを見せていた。
人々の笑い声、客引きの掛け声、香ばしい焼き魚の匂い――。
エリザベスはその全てに目を輝かせていた。
「まぁ……こんなに賑やかな市場、久しぶりですわ!」
瞳がまるで宝石のように輝いている。
その隣で、フードを深くかぶったエドワードが、静かに微笑んだ。
「何度か外交で来たのか?」
「ええ。リンドブルグの城下は……あまりにも整然としていて、息苦しくて。屋台ひとつ無いのですもの」
エリザベスは懐かしそうに笑った。
リンドブルグ王国の城下は大国らしい威厳に満ち、整った石畳の上に高級商会が並ぶ。
すべてが洗練され、秩序立ってはいたが――その分、温かみが欠けていた。
対してこのルシエンテスは、庶民の息遣いが生きている。
子どもが走り回り、商人が笑い、魚を捌く音が響く。
生きている“国の鼓動”を感じるのだ。
「わたくしは、このような風景も素敵だと思いますわ」
「私はこちらの方が好ましい」
二人は変装していた。
簡素な布の上衣に、街娘のようなスカート、そして旅人風の外套。
だが――。
(隠しきれませんわね……この方の雰囲気だけは)
背筋の伸びた立ち姿、無意識に漂う威厳。
人々の視線が何度もエドワードの方へ向かい、「どこかの貴族のお忍びだ」とひそひそ声が交わされている。
本人はまったく気にした様子もなく、ただ隣を歩く彼女を穏やかに見つめていた。
だがそれはエリザベスも同じだ。彼女から溢れ出る上品な佇まいは、老若男女目を惹く。その中で若い男に対し、エドワードが牽制していることを本人は気付いていないのだ。
「新鮮なお野菜がいっぱい……!」
屋台をいくつも覗きながら、ふと一軒の八百屋の前で足を止めた。
ひときわ鮮やかな緑の野菜が並んでいる。
値札には他よりもずっと高い金額が書かれていたが――買う人は途切れず、まさに飛ぶように売れていた。
「まぁ、この野菜……! “土島特産”とありますわ!」
エリザベスの声が弾んだ。
彼女が復興に尽力しているあの島の野菜が太陽光に当たり、艶やかに光っている。
風の噂では、あの地の農産物が王都でも人気だと聞いていたが、実際にこの光景を目にして、胸が熱くなる。
「……やはり、君の努力の結果だな」
隣でエドワードが静かに微笑んだ。
その声には、深い誇りと温かさがにじんでいた。
「まさか! わたくしは土台を整えただけですわ。ここまで発展させたのは、島民の皆さんです」
そう言って、真っ直ぐに微笑む彼女の顔。
その清らかさが、まるで光を帯びて見えた。
エドワードの胸の奥で、何かがやさしく疼く。
(……どうして君は、そんなにも眩しいのだろう)
そのとき、屋台の店主が二人のやり取りをじっと見ていた。
そして突然、手を打って声を上げた。
「まさか……おたくら、土島の人じゃないか!? ……人魚姫さんか!?」
「え?」
エリザベスが目を瞬かせた瞬間、周囲がざわめき始めた。
その一言をきっかけに、あっという間に人だかりができる。
「人魚姫だって? 本物か!?」
「まさかあの歌に出てくる……?」
「土島を救ったという――!」
あっという間に囲まれ、声が飛び交う。
エリザベスは頬を染め、困惑したようにエドワードを見上げた。
「え、えっと……どうして皆さん、そんなに――?」
人々の会話の中から、「吟遊詩人」「歌」「人魚姫の伝説」といった言葉が耳に入る。
どうやら最近、街中で人気の歌があるらしい。
“土島を救った人魚姫と、彼女を支えた騎士たち”の物語。
アナスタシア王太子妃と土騎士ヴィクトールの名も添えられ、今や民衆の希望の象徴となっていた。
(……そんな歌が、広まっているのですね)
エリザベスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が関わった小さな奇跡が、誰かの心を照らしている。
それだけで、報われたような気がした。
そのとき――。
「にんぎょさん、あくしゅ!」
澄んだ声に視線を向けると、まだ五つほどの小さな子どもが、両手を一生懸命伸ばしていた。
無垢な瞳が、真っ直ぐに彼女を見つめている。
「……まぁ」
本来なら、軽々しく触れられる立場ではない。
けれど――その瞳のまっすぐさに、断れるはずもなかった。
エリザベスは柔らかく微笑むと、しゃがみ込んで子どもの手をそっと包んだ。
小さな掌の温もりが指先に伝わり、胸がきゅうと締めつけられる。
「こんにちは。元気に育ってくださいね」
「うんっ!」
その無邪気な笑顔が弾けた瞬間、周囲が一気にざわめいた。
「今、人魚姫様が加護を……!」
「うちの子にも!」
「わたしのお腹の赤ん坊にもお願いします!」
声が次々に上がり、人々が押し寄せてくる。
エリザベスの周りは、たちまち熱気に包まれた。
「み、皆さま……落ち着いてくださいませ!」
懸命に呼びかけるが、喜びと信仰の渦は収まらない。
その中心で、彼女の細い肩がわずかに震えた。
「さすがに、少し目立ちすぎたな」
穏やかな声がすぐ背後から届く。
振り向けば、エドワードが苦笑を浮かべていた。
「え、ええ。けれど……身動きがとれませんわ」
人の波がさらに押し寄せ、彼の外套の裾をも巻き込んでいく。
エリザベスは思わず彼の袖を掴んだ。
その瞬間――。
「……しっかり捕まって」
「え? えっ、きゃあっ!」
視界がふっと浮いた。
気づけば、世界が少し高い位置から見下ろせる。
エドワードの逞しい腕の中に、しっかりと抱き上げられていたのだ。
彼の胸元に頬が触れ、心臓が跳ねる。
息を飲む間もなく、周囲から歓声が湧き上がった。
「おおっ! 本物の人魚姫を抱えてる!」
「まるで物語の一場面だ!」
人々の笑顔と拍手が、通りいっぱいに響く。
エドワードは穏やかな微笑を浮かべたまま、ゆっくりと通りの先へ歩み出る。
低くよく通る声が、威圧感のない優しい響きで通りに届いた
「すまない。そろそろ次へ行かなくてはならない。――道を開けてくれ」
彼の声に、人々は自然と左右に分かれていく。
まるで王と王妃の行進を迎える花道のように。
二人が通るたびに、歓声と拍手が後ろから続く。
「ありがとう」「人魚姫さま、どうかお幸せに!」
「また歌にしてもらおうぜ!」
エリザベスは戸惑いながらも、胸の奥にじんと温かいものを感じていた。
こんなふうに、自分が誰かに祝福される日が来るなんて――。
腕の中で、エドワードがそっと囁いた。
「……君はやはり、光の下にいる方が似合う」
その一言に、エリザベスの頬がふわりと紅に染まる。
歓声と拍手が後ろに遠ざかっていく。
陽光が二人の影を包み込み、まるで世界そのものが彼らを祝福しているように見えた。
金色の粒子がゆるやかに空気の中を舞い、まるで二人を祝福するようだった。
柔らかな寝具の上、エリザベスは小さく身じろぎをした。
すぐそばに感じる温もりに、胸がどきりと鳴る。
振り向けば、すぐそこにエドワードの顔――安らかに目を閉じ、穏やかな呼吸を繰り返している。
その胸の鼓動が、静かに自分の鼓動と重なっていく。
昨夜の出来事が夢ではなかったことを、その音が優しく教えてくれた。
(……なんて、幸せなのでしょう)
頬がふわりと熱を帯びた。
あの夜、彼が見せた優しさも、情熱も――全部、自分だけに向けられたものだった。
“妻”として初めて迎える朝。
その現実が胸の奥でじんわりと広がっていく。
そっと彼の胸元に頬を寄せると、淡い香りがした。
昨夜、自分を包んだあの温もり。
指先で彼の服の端をつまむと、腕がふわりと回される。
「……目が覚めたのか」
低く、寝起きの声が耳元に落ちた。
胸の奥をくすぐるような響きに、エリザベスの心臓が跳ねる。
「は、はい……」
小さく頷くと、エドワードがゆっくりと目を開いた。
金の瞳が、柔らかい朝の光を受けて穏やかに光る。
そして、優しく額に唇が落とされた。
その瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。
まるで“愛している”と何度も語りかけているように。
「痛いところはないか?」
「大丈夫ですわ」
微笑むと、エドワードの指が彼女の頬をそっとなぞった。
熱を帯びた指先が、まるで宝物を扱うように優しい。
「なら、よかった」
安堵の吐息と共に、彼の指先が髪をすく。
エリザベスは目を細め、その温もりに頬を預けた。
昨夜も、こうして髪を撫でてくれた。
けれど今朝は、どこか違う――
互いにすべてを知った後の、深い安らぎがそこにあった。
「……エドワード様」
「なんだ?」
「こうして朝を迎えられるなんて、夢のようです」
エドワードの唇がわずかに緩んだ。
彼は静かにエリザベスの額に口づける。
「夢ではない。これから毎朝、こうして迎える」
「……そんな、贅沢なことを」
「贅沢ではない。妻の当然の権利だ」
軽口を言いながらも、その声には確かな愛情がにじんでいた。
そして彼は、いたずらっぽく囁いた。
「……それに、こうしているとお前を離したくなくなる」
その言葉に、エリザベスの心が一気に跳ね上がる。
視線がぶつかり、今度は唇に口付けされる。
舌が侵入し、絡み合い、息が詰まる。
「んッ、は……お、お仕事の支度を――」
「婚姻した翌日に仕事へ行くなど、馬鹿のすることだ」
言い終わるよりも早く、唇が重なる。
昨夜よりも穏やかで、しかしどこか名残惜しい口づけだった。
離れると、エリザベスの頬はすっかり桃色に染まっている。
「……ずるい方」
「褒め言葉として受け取ろう」
エドワードが肩をすくめて笑い、ふたりの間に柔らかな空気が満ちた。
窓辺の鳥がさえずり、朝の風がカーテンを揺らす。
エドワードは彼女の手を取って立ち上がった。
「食事を摂ろう。今日は一日、君と過ごす」
「えっ……! ご一緒できるのですか?」
ぱっと顔を輝かせたエリザベスに、エドワードが軽く笑う。
「ああ。医療業も侯爵業も、今日は休みだ」
「……嬉しい」
彼女の言葉に、エドワードの目元がやわらかくなる。
「ならば、王都でも散歩しようか」
「ええ!」
朝の光がふたりを包む。
互いの手を取って歩き出す姿は、まるで新しい物語の始まりのようだった。
――あの夜に交わした誓いが、静かに形を結んでいく。
これからの日々が、ふたりにとってどんな運命をもたらそうとも。
この朝だけは、確かに幸福で満たされていた。
◆
陽光がやわらかく降り注ぐ王都ルシエンテス。
街の広場には屋台がずらりと並び、果物や野菜、海産物の香りが混ざり合って、まるで祭りのような賑わいを見せていた。
人々の笑い声、客引きの掛け声、香ばしい焼き魚の匂い――。
エリザベスはその全てに目を輝かせていた。
「まぁ……こんなに賑やかな市場、久しぶりですわ!」
瞳がまるで宝石のように輝いている。
その隣で、フードを深くかぶったエドワードが、静かに微笑んだ。
「何度か外交で来たのか?」
「ええ。リンドブルグの城下は……あまりにも整然としていて、息苦しくて。屋台ひとつ無いのですもの」
エリザベスは懐かしそうに笑った。
リンドブルグ王国の城下は大国らしい威厳に満ち、整った石畳の上に高級商会が並ぶ。
すべてが洗練され、秩序立ってはいたが――その分、温かみが欠けていた。
対してこのルシエンテスは、庶民の息遣いが生きている。
子どもが走り回り、商人が笑い、魚を捌く音が響く。
生きている“国の鼓動”を感じるのだ。
「わたくしは、このような風景も素敵だと思いますわ」
「私はこちらの方が好ましい」
二人は変装していた。
簡素な布の上衣に、街娘のようなスカート、そして旅人風の外套。
だが――。
(隠しきれませんわね……この方の雰囲気だけは)
背筋の伸びた立ち姿、無意識に漂う威厳。
人々の視線が何度もエドワードの方へ向かい、「どこかの貴族のお忍びだ」とひそひそ声が交わされている。
本人はまったく気にした様子もなく、ただ隣を歩く彼女を穏やかに見つめていた。
だがそれはエリザベスも同じだ。彼女から溢れ出る上品な佇まいは、老若男女目を惹く。その中で若い男に対し、エドワードが牽制していることを本人は気付いていないのだ。
「新鮮なお野菜がいっぱい……!」
屋台をいくつも覗きながら、ふと一軒の八百屋の前で足を止めた。
ひときわ鮮やかな緑の野菜が並んでいる。
値札には他よりもずっと高い金額が書かれていたが――買う人は途切れず、まさに飛ぶように売れていた。
「まぁ、この野菜……! “土島特産”とありますわ!」
エリザベスの声が弾んだ。
彼女が復興に尽力しているあの島の野菜が太陽光に当たり、艶やかに光っている。
風の噂では、あの地の農産物が王都でも人気だと聞いていたが、実際にこの光景を目にして、胸が熱くなる。
「……やはり、君の努力の結果だな」
隣でエドワードが静かに微笑んだ。
その声には、深い誇りと温かさがにじんでいた。
「まさか! わたくしは土台を整えただけですわ。ここまで発展させたのは、島民の皆さんです」
そう言って、真っ直ぐに微笑む彼女の顔。
その清らかさが、まるで光を帯びて見えた。
エドワードの胸の奥で、何かがやさしく疼く。
(……どうして君は、そんなにも眩しいのだろう)
そのとき、屋台の店主が二人のやり取りをじっと見ていた。
そして突然、手を打って声を上げた。
「まさか……おたくら、土島の人じゃないか!? ……人魚姫さんか!?」
「え?」
エリザベスが目を瞬かせた瞬間、周囲がざわめき始めた。
その一言をきっかけに、あっという間に人だかりができる。
「人魚姫だって? 本物か!?」
「まさかあの歌に出てくる……?」
「土島を救ったという――!」
あっという間に囲まれ、声が飛び交う。
エリザベスは頬を染め、困惑したようにエドワードを見上げた。
「え、えっと……どうして皆さん、そんなに――?」
人々の会話の中から、「吟遊詩人」「歌」「人魚姫の伝説」といった言葉が耳に入る。
どうやら最近、街中で人気の歌があるらしい。
“土島を救った人魚姫と、彼女を支えた騎士たち”の物語。
アナスタシア王太子妃と土騎士ヴィクトールの名も添えられ、今や民衆の希望の象徴となっていた。
(……そんな歌が、広まっているのですね)
エリザベスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が関わった小さな奇跡が、誰かの心を照らしている。
それだけで、報われたような気がした。
そのとき――。
「にんぎょさん、あくしゅ!」
澄んだ声に視線を向けると、まだ五つほどの小さな子どもが、両手を一生懸命伸ばしていた。
無垢な瞳が、真っ直ぐに彼女を見つめている。
「……まぁ」
本来なら、軽々しく触れられる立場ではない。
けれど――その瞳のまっすぐさに、断れるはずもなかった。
エリザベスは柔らかく微笑むと、しゃがみ込んで子どもの手をそっと包んだ。
小さな掌の温もりが指先に伝わり、胸がきゅうと締めつけられる。
「こんにちは。元気に育ってくださいね」
「うんっ!」
その無邪気な笑顔が弾けた瞬間、周囲が一気にざわめいた。
「今、人魚姫様が加護を……!」
「うちの子にも!」
「わたしのお腹の赤ん坊にもお願いします!」
声が次々に上がり、人々が押し寄せてくる。
エリザベスの周りは、たちまち熱気に包まれた。
「み、皆さま……落ち着いてくださいませ!」
懸命に呼びかけるが、喜びと信仰の渦は収まらない。
その中心で、彼女の細い肩がわずかに震えた。
「さすがに、少し目立ちすぎたな」
穏やかな声がすぐ背後から届く。
振り向けば、エドワードが苦笑を浮かべていた。
「え、ええ。けれど……身動きがとれませんわ」
人の波がさらに押し寄せ、彼の外套の裾をも巻き込んでいく。
エリザベスは思わず彼の袖を掴んだ。
その瞬間――。
「……しっかり捕まって」
「え? えっ、きゃあっ!」
視界がふっと浮いた。
気づけば、世界が少し高い位置から見下ろせる。
エドワードの逞しい腕の中に、しっかりと抱き上げられていたのだ。
彼の胸元に頬が触れ、心臓が跳ねる。
息を飲む間もなく、周囲から歓声が湧き上がった。
「おおっ! 本物の人魚姫を抱えてる!」
「まるで物語の一場面だ!」
人々の笑顔と拍手が、通りいっぱいに響く。
エドワードは穏やかな微笑を浮かべたまま、ゆっくりと通りの先へ歩み出る。
低くよく通る声が、威圧感のない優しい響きで通りに届いた
「すまない。そろそろ次へ行かなくてはならない。――道を開けてくれ」
彼の声に、人々は自然と左右に分かれていく。
まるで王と王妃の行進を迎える花道のように。
二人が通るたびに、歓声と拍手が後ろから続く。
「ありがとう」「人魚姫さま、どうかお幸せに!」
「また歌にしてもらおうぜ!」
エリザベスは戸惑いながらも、胸の奥にじんと温かいものを感じていた。
こんなふうに、自分が誰かに祝福される日が来るなんて――。
腕の中で、エドワードがそっと囁いた。
「……君はやはり、光の下にいる方が似合う」
その一言に、エリザベスの頬がふわりと紅に染まる。
歓声と拍手が後ろに遠ざかっていく。
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