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ヴァルメアの誓い
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翌朝。
まだ王都の鐘が二度しか鳴っていない早朝、エドワードは通い慣れた王城の一室、カルロス殿下の執務室へと足を運んでいた。
豪奢でありながらも余計な飾りを排した空間に、冷たい空気と紙の匂いが漂っている。
窓際で書簡を手にしていたカルロスが、顔を上げた。
彼の手元には、一通の封蝋を割った手紙が置かれている。
「来てくれて感謝するよ、エドワード。
昨日のうちに時間を作ってもらって助かった」
「いえ。内容が内容ですから」
エドワードは静かに応じ、深緑の外套を脱いで椅子に腰を下ろした。
カルロスが軽く指を鳴らすと、侍従が下がり、部屋には二人きりとなる。
「だが婦人には悪いことをしたね。明けの数日は、そばにいて欲しいだろうに」
「それに関しては同意見だ。だから、早く帰らせてもらう」
「そうだね。私もアナスタシアが待っている」
ふと、二人の間に柔らかな微笑が交わされた。
かつては互いに刃を隠した策略家同士。
だが今は、同じ未来を見つめる“盟友”である。
薄い陽光が差し込む中、カルロスは机の上の手紙を軽く叩き、眉を寄せた。
「――これが、リンドブルグから届いた正式な文だ」
淡い羊皮紙には王家の紋章。
だが、もはやその威厳は薄れ、ただ古びた印のようにしか見えなかった。
「“聖女とウィリアム王子の婚約発表”」
予想通りだ。
エドワードの目に一瞬、冷たい光が走る。
「そして、影からの報告は“国王陛下と宰相はいまだ意識不明”。“現状、王妃が国政を掌握している”。」
カルロスの声は淡々としていた。
だがその指先は、無意識に書簡の端を押し潰していた。
「“ウィリアム王子と聖女の結婚式の招待状”。
それに――“リンドブルグでは増税と外交圧力により、各国から不満と不信が噴出している”」
カルロスが視線を上げる。
その双眸の奥には、怒りとも冷笑ともつかぬ鋭い光が宿っていた。
「そして……聖女がいるのに、国王と宰相が伏せったまま。
“聖女の偽物疑惑”が囁かれている、らしい」
部屋の空気が一瞬にして張りつめる。
カルロスは書簡を机に置き、ふっと肩をすくめた。
「極めつけは――“悪役令嬢エリザベス・エリクセンは無実ではないか”と、な。
……皮肉なものだ」
エドワードはわずかに唇の端を上げた。
その笑みは冷たくもあり、どこか誇らしげでもあった。
「今さら気づいたとて、後の祭り」
その言葉には、刃を含んだ静けさがあった。
エドワードはゆっくりとカップを置き、続ける。
「彼らが罪を作り上げ、追放した“令嬢”は、もうこの世にはいない」
カルロスの眉がわずかに動いた。
「……というと?」
「――彼女の名は、すでに変わった。
“エリザベス・ヴァルメア”。
ルシエンテス王国の人魚姫、今や“俺”の妻だ」
沈黙。
それは、祝福と同時に、ひとつの戦の終焉を意味する静寂だった。
カルロスは堪えきれずに笑い声を漏らす。
「はは……やはり、“お前”は恐ろしいな」
その声は笑いを含みながらも、どこか誇らしげだった。
「“お前”を敵に回す恐ろしさを、一番知っているのは私だろうね」
ふと、二人の間に言葉ではない共鳴が走る。
“お前”――カルロスがそう呼ぶのは、わずかな者にしか許されない。
かつて王家に忠誠を誓う前、互いが若き戦略家として誓った“男の約束”。
――どちらかの悲願が果たされた時、もう片方が次に歩を進める。
エドワードが「俺」と言い、カルロスが「お前」と返した瞬間。
それは、エドワードの長年の悲願――エリザベス救出と新たな家の礎が完成した合図でもあった。
そして今度は、カルロスの番。
エドワードは静かに目を細め、笑みを深めた。
「殿下がそのように言われるとは光栄です」
「お世辞ではないさ。だが、こうして同じ側にいられるのは心強い」
カルロスはグラスを持ち上げ、葡萄酒を軽く傾けた。
その赤が、朝の光に照らされて血のように輝く。
エドワードは立ち上がり、深く一礼する。
そして――片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「殿下が即位された暁には――」
声が静まり、部屋の空気が凛と引き締まる。
「――新たな国土を、ヴァルメア侯爵家より献上いたしましょう」
カルロスの唇がゆっくりと弧を描いた。
その眼差しには、長年の友への深い信頼と、次なる戦の火種が宿っていた。
「……やはり、“お前”は恐ろしいほど準備が早い」
「備えあれば憂いなし――それが、俺の信条です」
ふたりの間に、静かな笑みが交わされる。
それは、策略家同士がかわす、未来への無言の同盟の証。
陽光がカーテンの隙間から差し込み、机上の封書を照らす。
そこに刻まれたリンドブルグ王家の紋章は、もはや色あせて見えた。
その瞬間、カルロスは悟った。
――エドワードの物語は終わり、今度は自らの章が始まるのだと。
◆
夜が静かに沈む。
ルシエンテスの王都を包む風は穏やかで、遠くの港から潮の香りが漂っていた。
ヴァルメア邸の一室。窓際の燭台に灯る炎が、机上の書簡をゆらりと照らしている。
エドワードは、その封を切りながら低く息を吐いた。厚い羊皮紙の上には、見覚えのある紋章――リンドブルグ王国のもの。
そして、淡い筆跡で綴られた報告の数々。
彼は黙って一通り読み終えると、隣に座る妻へと視線を移した。
エリザベスはじっと、夫の横顔を見つめている。その瞳には、不安よりも“知る覚悟”が宿っていた。
「……祖国から、報告が届いた」
その言葉に、エリザベスの手がわずかに強ばる。
彼女は姿勢を正し、静かに尋ねた。
「お伺いしてもよろしいですか」
「ウィリアム・フォン・リンドブルグと聖女エリカの婚約発表が行われ、近隣諸国に結婚式の招待状が送られている」
「いよいよなのですね」
「驚かないのか」
「むしろ遅いくらいですわ。あのお方の事ですから、わたくしを追放した後、早々に実行に移すと思っておりましたから」
あっけらかんと告げる声の奥に、わずかな痛みがあった。けれどそれを気取らせぬよう、彼女は微笑んでみせた。
「……他には? お父様は……宰相は、いかがなさいましたか」
エドワードは視線を落とし、短く息を吐いた。
「――まだ、目を覚ましていない。陛下も同じく意識不明のまま。王妃が国政を掌握しているそうだ」
エリザベスの指先が震えた。
唇を噛みしめ、視線を伏せる。
「……そう、ですか……」
胸の奥がきゅうと締めつけられる。
思い浮かぶのは、厳しくも優しかった父の姿。
自分を“未来の王妃”として導いてくれた、あの穏やかな背中。
「……そして、王妃が国を動かしているが、現状は混乱そのものだ。」
「王妃陛下は、城の取り仕切りですらご苦手でしたのに。そんな方が外交まで……? できるはずが、ありませんわ……」
呆然としたように言葉を漏らす。
思い出す――あの頃の王妃。
執務も外交も苦手で、何かあるたびに自分へ仕事を振ってきた。無意識のうちに、エリザベスの唇から苦笑が漏れた。
エドワードは静かに頷き、机上の別の書簡を手に取る。
「周辺国では、“横暴すぎる交易内容に、打ち切りも視野に入れている”という声が上がっている。実は我が国にも“薬”の交渉をしてきたが……内容は、呆れるほどの暴利を求めるものだった」
エリザベスの表情が固まった。
「それと、現在国中に“聖女エリカ偽物疑惑”が流れている。聖女がいるのにも関わらず、いつまでも伏せっている国王と宰相に違和感を抱き始めたからのようだ」
その言葉に、エリザベスの瞳がわずかに揺れた。
「……聖女様が、偽物――」
ぽつりと落ちたその声は、炎の揺らめきに溶けた。そして、ふっと腑に落ちたように目を細める。
「そうですわね……。聖女様が本物であられるなら、陛下もお父様も、もうとっくに回復されているはず。わたくし……聖女様が力を使っているところを、一度も見たことがありません」
その声音には、驚きよりも確信が滲んでいた。
「……そこまで、酷いとは……」
炎の光がその頬に影を落とす。
そのとき、彼女はふと気づいて問いかけた。
「――ウィリアム王子は、何をしているのですか?」
「君を探しているそうだ」
「わたくしを、ですか?」
なぜ――そう問う前に、胸の奥に冷たい予感が走った。
脳裏をよぎる過去の光景。
聖女とウィリアムが微笑み合う傍らで、黙々と文書を処理していた自分。
(……そういうこと)
「……聖女様は異世界から来られたとはいえ、王妃教育はまっさらでした。周囲も甘やかしてばかりで、誰も彼女に教えようとしなかった。陛下とお父様が倒れて、ようやく……理解なさったのね。あの方々は、わたくし一人に頼りきっていたのだと」
言葉の端に、かすかな皮肉が滲む。
そして、次の瞬間――その瞳が鋭く光る。
「……ウィリアム王子は、わたくしを探して、聖女様の補佐をさせようとでも?」
エドワードは首を横に振った。
「いや、違う」
「え……?」
その短い否定に、胸がざわめく。
彼の声は冷ややかに落ちた。
「おそらく、側室として迎え入れるつもりだ。聖女を表舞台に立たせ、裏で国を支える仕事を――君に押し付けるつもりだ」
ぞわり――背筋を走る悪寒。
エリザベスは小さく身を震わせた。
「ですが……ウィリアム王子は、聖女様を愛しておられます。側室とはいえ、わたくしを迎え入れるなんて“あの”王子が、自己主張すると思うか?」
短く放たれた言葉が、鋭く胸を刺す。
エリザベスは目を見開いた。
「つまり、これも……王妃陛下の意志?」
「そうだ。自分が楽をするためにな」
その瞬間、エリザベスの頬が怒りで赤く染まった。
「――絶対にいやですわ!!!」
その叫びは、静寂を破る。
エドワードの瞳が細められた。
次の瞬間、彼はゆっくりと立ち上がり、彼女の顎を持ち上げた。
「当たり前だ。君は、すでに“私の妻”だ。他の男になど――髪の毛一本たりとも、渡してなるものか」
低く、熱を帯びた声。それは誓いにも似た響きだった。
エリザベスの胸が高鳴る。けれどその一方で、冷静な現実も理解していた。
「……ですが、捜索されているということは、わたくしが生きていると知られてしまっているのですよね?」
「人の噂はどこまでも広がる。ここまで目立てば、止めることはできないだろう」
「では、エドワード様も……」
「おそらくな。だが、私も家名を変えている。結びつくまでには、少し時間がかかるはずだ」
その言葉に、エリザベスは小さく安堵の息を吐いた。そして、ふと顔を上げた。
「……ここまでお聞きして、わたくしは――どうすればよろしいのでしょうか?」
エドワードは、深い金の瞳で彼女を見つめる。
「私は、君が望むならどんなことでも叶えてやりたいと想っている」
静かに放たれたその言葉。それは、愛の告白よりもずっと重く、誠実な響きを持っていた。
エリザベスは、しばし黙し――やがて、微笑んだ。
「……わたくしは、もう祖国に何も望みません。あの国の行く末を、ここルシエンテス王国から見届けます。けれど……叶うなら、弟とお母様には、元気でいると伝えたい」
エドワードの瞳に、一瞬の光が宿る。
「なら――“結婚式”に、参列してみるのはどうだ?」
「結婚式……? ウィリアム王子と、聖女様の?」
「ああ。正面から、ぶつかりに行くのも一つの道だ」
エリザベスの表情が凍る。
その瞳の奥に、複雑な感情が渦巻いた。
(――望んではいない。けれど、この方はきっと)
――どんな結果を望もうと、エドワードは彼女に“選ぶ力”を返したのだ。
復讐でも、赦しでも。
その選択を委ねるという、最大の信頼を。
「……民は、無関係ですわ」
その言葉に、エドワードは頷いた。
「当然だ。民は宝だ」
「……旦那様のお仕事を補助するのは、妻の役目ですもの。ですから――すべて、お話しくださいませ」
エリザベスのまっすぐな瞳が、エドワードを射抜いた。その視線には、かつて“悪役令嬢”と呼ばれた少女の、確かな誇りが宿っている。
そして、エドワードはふっと微笑んだ。
「――了解した。ヴァルメア侯爵夫人」
燭火が、二人の影をひとつに重ねた。
その光の奥で、静かに燃える炎――それは、愛でも復讐でもなく、“覚悟”という名の炎だった。
まだ王都の鐘が二度しか鳴っていない早朝、エドワードは通い慣れた王城の一室、カルロス殿下の執務室へと足を運んでいた。
豪奢でありながらも余計な飾りを排した空間に、冷たい空気と紙の匂いが漂っている。
窓際で書簡を手にしていたカルロスが、顔を上げた。
彼の手元には、一通の封蝋を割った手紙が置かれている。
「来てくれて感謝するよ、エドワード。
昨日のうちに時間を作ってもらって助かった」
「いえ。内容が内容ですから」
エドワードは静かに応じ、深緑の外套を脱いで椅子に腰を下ろした。
カルロスが軽く指を鳴らすと、侍従が下がり、部屋には二人きりとなる。
「だが婦人には悪いことをしたね。明けの数日は、そばにいて欲しいだろうに」
「それに関しては同意見だ。だから、早く帰らせてもらう」
「そうだね。私もアナスタシアが待っている」
ふと、二人の間に柔らかな微笑が交わされた。
かつては互いに刃を隠した策略家同士。
だが今は、同じ未来を見つめる“盟友”である。
薄い陽光が差し込む中、カルロスは机の上の手紙を軽く叩き、眉を寄せた。
「――これが、リンドブルグから届いた正式な文だ」
淡い羊皮紙には王家の紋章。
だが、もはやその威厳は薄れ、ただ古びた印のようにしか見えなかった。
「“聖女とウィリアム王子の婚約発表”」
予想通りだ。
エドワードの目に一瞬、冷たい光が走る。
「そして、影からの報告は“国王陛下と宰相はいまだ意識不明”。“現状、王妃が国政を掌握している”。」
カルロスの声は淡々としていた。
だがその指先は、無意識に書簡の端を押し潰していた。
「“ウィリアム王子と聖女の結婚式の招待状”。
それに――“リンドブルグでは増税と外交圧力により、各国から不満と不信が噴出している”」
カルロスが視線を上げる。
その双眸の奥には、怒りとも冷笑ともつかぬ鋭い光が宿っていた。
「そして……聖女がいるのに、国王と宰相が伏せったまま。
“聖女の偽物疑惑”が囁かれている、らしい」
部屋の空気が一瞬にして張りつめる。
カルロスは書簡を机に置き、ふっと肩をすくめた。
「極めつけは――“悪役令嬢エリザベス・エリクセンは無実ではないか”と、な。
……皮肉なものだ」
エドワードはわずかに唇の端を上げた。
その笑みは冷たくもあり、どこか誇らしげでもあった。
「今さら気づいたとて、後の祭り」
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エドワードはゆっくりとカップを置き、続ける。
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カルロスの眉がわずかに動いた。
「……というと?」
「――彼女の名は、すでに変わった。
“エリザベス・ヴァルメア”。
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沈黙。
それは、祝福と同時に、ひとつの戦の終焉を意味する静寂だった。
カルロスは堪えきれずに笑い声を漏らす。
「はは……やはり、“お前”は恐ろしいな」
その声は笑いを含みながらも、どこか誇らしげだった。
「“お前”を敵に回す恐ろしさを、一番知っているのは私だろうね」
ふと、二人の間に言葉ではない共鳴が走る。
“お前”――カルロスがそう呼ぶのは、わずかな者にしか許されない。
かつて王家に忠誠を誓う前、互いが若き戦略家として誓った“男の約束”。
――どちらかの悲願が果たされた時、もう片方が次に歩を進める。
エドワードが「俺」と言い、カルロスが「お前」と返した瞬間。
それは、エドワードの長年の悲願――エリザベス救出と新たな家の礎が完成した合図でもあった。
そして今度は、カルロスの番。
エドワードは静かに目を細め、笑みを深めた。
「殿下がそのように言われるとは光栄です」
「お世辞ではないさ。だが、こうして同じ側にいられるのは心強い」
カルロスはグラスを持ち上げ、葡萄酒を軽く傾けた。
その赤が、朝の光に照らされて血のように輝く。
エドワードは立ち上がり、深く一礼する。
そして――片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「殿下が即位された暁には――」
声が静まり、部屋の空気が凛と引き締まる。
「――新たな国土を、ヴァルメア侯爵家より献上いたしましょう」
カルロスの唇がゆっくりと弧を描いた。
その眼差しには、長年の友への深い信頼と、次なる戦の火種が宿っていた。
「……やはり、“お前”は恐ろしいほど準備が早い」
「備えあれば憂いなし――それが、俺の信条です」
ふたりの間に、静かな笑みが交わされる。
それは、策略家同士がかわす、未来への無言の同盟の証。
陽光がカーテンの隙間から差し込み、机上の封書を照らす。
そこに刻まれたリンドブルグ王家の紋章は、もはや色あせて見えた。
その瞬間、カルロスは悟った。
――エドワードの物語は終わり、今度は自らの章が始まるのだと。
◆
夜が静かに沈む。
ルシエンテスの王都を包む風は穏やかで、遠くの港から潮の香りが漂っていた。
ヴァルメア邸の一室。窓際の燭台に灯る炎が、机上の書簡をゆらりと照らしている。
エドワードは、その封を切りながら低く息を吐いた。厚い羊皮紙の上には、見覚えのある紋章――リンドブルグ王国のもの。
そして、淡い筆跡で綴られた報告の数々。
彼は黙って一通り読み終えると、隣に座る妻へと視線を移した。
エリザベスはじっと、夫の横顔を見つめている。その瞳には、不安よりも“知る覚悟”が宿っていた。
「……祖国から、報告が届いた」
その言葉に、エリザベスの手がわずかに強ばる。
彼女は姿勢を正し、静かに尋ねた。
「お伺いしてもよろしいですか」
「ウィリアム・フォン・リンドブルグと聖女エリカの婚約発表が行われ、近隣諸国に結婚式の招待状が送られている」
「いよいよなのですね」
「驚かないのか」
「むしろ遅いくらいですわ。あのお方の事ですから、わたくしを追放した後、早々に実行に移すと思っておりましたから」
あっけらかんと告げる声の奥に、わずかな痛みがあった。けれどそれを気取らせぬよう、彼女は微笑んでみせた。
「……他には? お父様は……宰相は、いかがなさいましたか」
エドワードは視線を落とし、短く息を吐いた。
「――まだ、目を覚ましていない。陛下も同じく意識不明のまま。王妃が国政を掌握しているそうだ」
エリザベスの指先が震えた。
唇を噛みしめ、視線を伏せる。
「……そう、ですか……」
胸の奥がきゅうと締めつけられる。
思い浮かぶのは、厳しくも優しかった父の姿。
自分を“未来の王妃”として導いてくれた、あの穏やかな背中。
「……そして、王妃が国を動かしているが、現状は混乱そのものだ。」
「王妃陛下は、城の取り仕切りですらご苦手でしたのに。そんな方が外交まで……? できるはずが、ありませんわ……」
呆然としたように言葉を漏らす。
思い出す――あの頃の王妃。
執務も外交も苦手で、何かあるたびに自分へ仕事を振ってきた。無意識のうちに、エリザベスの唇から苦笑が漏れた。
エドワードは静かに頷き、机上の別の書簡を手に取る。
「周辺国では、“横暴すぎる交易内容に、打ち切りも視野に入れている”という声が上がっている。実は我が国にも“薬”の交渉をしてきたが……内容は、呆れるほどの暴利を求めるものだった」
エリザベスの表情が固まった。
「それと、現在国中に“聖女エリカ偽物疑惑”が流れている。聖女がいるのにも関わらず、いつまでも伏せっている国王と宰相に違和感を抱き始めたからのようだ」
その言葉に、エリザベスの瞳がわずかに揺れた。
「……聖女様が、偽物――」
ぽつりと落ちたその声は、炎の揺らめきに溶けた。そして、ふっと腑に落ちたように目を細める。
「そうですわね……。聖女様が本物であられるなら、陛下もお父様も、もうとっくに回復されているはず。わたくし……聖女様が力を使っているところを、一度も見たことがありません」
その声音には、驚きよりも確信が滲んでいた。
「……そこまで、酷いとは……」
炎の光がその頬に影を落とす。
そのとき、彼女はふと気づいて問いかけた。
「――ウィリアム王子は、何をしているのですか?」
「君を探しているそうだ」
「わたくしを、ですか?」
なぜ――そう問う前に、胸の奥に冷たい予感が走った。
脳裏をよぎる過去の光景。
聖女とウィリアムが微笑み合う傍らで、黙々と文書を処理していた自分。
(……そういうこと)
「……聖女様は異世界から来られたとはいえ、王妃教育はまっさらでした。周囲も甘やかしてばかりで、誰も彼女に教えようとしなかった。陛下とお父様が倒れて、ようやく……理解なさったのね。あの方々は、わたくし一人に頼りきっていたのだと」
言葉の端に、かすかな皮肉が滲む。
そして、次の瞬間――その瞳が鋭く光る。
「……ウィリアム王子は、わたくしを探して、聖女様の補佐をさせようとでも?」
エドワードは首を横に振った。
「いや、違う」
「え……?」
その短い否定に、胸がざわめく。
彼の声は冷ややかに落ちた。
「おそらく、側室として迎え入れるつもりだ。聖女を表舞台に立たせ、裏で国を支える仕事を――君に押し付けるつもりだ」
ぞわり――背筋を走る悪寒。
エリザベスは小さく身を震わせた。
「ですが……ウィリアム王子は、聖女様を愛しておられます。側室とはいえ、わたくしを迎え入れるなんて“あの”王子が、自己主張すると思うか?」
短く放たれた言葉が、鋭く胸を刺す。
エリザベスは目を見開いた。
「つまり、これも……王妃陛下の意志?」
「そうだ。自分が楽をするためにな」
その瞬間、エリザベスの頬が怒りで赤く染まった。
「――絶対にいやですわ!!!」
その叫びは、静寂を破る。
エドワードの瞳が細められた。
次の瞬間、彼はゆっくりと立ち上がり、彼女の顎を持ち上げた。
「当たり前だ。君は、すでに“私の妻”だ。他の男になど――髪の毛一本たりとも、渡してなるものか」
低く、熱を帯びた声。それは誓いにも似た響きだった。
エリザベスの胸が高鳴る。けれどその一方で、冷静な現実も理解していた。
「……ですが、捜索されているということは、わたくしが生きていると知られてしまっているのですよね?」
「人の噂はどこまでも広がる。ここまで目立てば、止めることはできないだろう」
「では、エドワード様も……」
「おそらくな。だが、私も家名を変えている。結びつくまでには、少し時間がかかるはずだ」
その言葉に、エリザベスは小さく安堵の息を吐いた。そして、ふと顔を上げた。
「……ここまでお聞きして、わたくしは――どうすればよろしいのでしょうか?」
エドワードは、深い金の瞳で彼女を見つめる。
「私は、君が望むならどんなことでも叶えてやりたいと想っている」
静かに放たれたその言葉。それは、愛の告白よりもずっと重く、誠実な響きを持っていた。
エリザベスは、しばし黙し――やがて、微笑んだ。
「……わたくしは、もう祖国に何も望みません。あの国の行く末を、ここルシエンテス王国から見届けます。けれど……叶うなら、弟とお母様には、元気でいると伝えたい」
エドワードの瞳に、一瞬の光が宿る。
「なら――“結婚式”に、参列してみるのはどうだ?」
「結婚式……? ウィリアム王子と、聖女様の?」
「ああ。正面から、ぶつかりに行くのも一つの道だ」
エリザベスの表情が凍る。
その瞳の奥に、複雑な感情が渦巻いた。
(――望んではいない。けれど、この方はきっと)
――どんな結果を望もうと、エドワードは彼女に“選ぶ力”を返したのだ。
復讐でも、赦しでも。
その選択を委ねるという、最大の信頼を。
「……民は、無関係ですわ」
その言葉に、エドワードは頷いた。
「当然だ。民は宝だ」
「……旦那様のお仕事を補助するのは、妻の役目ですもの。ですから――すべて、お話しくださいませ」
エリザベスのまっすぐな瞳が、エドワードを射抜いた。その視線には、かつて“悪役令嬢”と呼ばれた少女の、確かな誇りが宿っている。
そして、エドワードはふっと微笑んだ。
「――了解した。ヴァルメア侯爵夫人」
燭火が、二人の影をひとつに重ねた。
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幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
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