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陽だまりの誓い
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午後の日差しがやわらかに降り注いでいた。
ルシエンテス王宮の奥庭に面したサロン。白と金の意匠が施されたその一室には、春を思わせる香りと、花々を揺らす風が満ちている。
「やはり、“人魚の恵み”ブレンドは最高だわ」
カップに注がれた琥珀色の茶が、陽光を受けてきらりと光った。
その香りは、特別にアナスタシア王妃の好む配合で調合した紅茶で、今や社交界で知らぬ者はいないほど人気になった“人魚の恵み”。これは、ヴァンディール伯爵令嬢、副責任者であるセシリアが立ち上げた“貴族向けの注文紅茶”。彼女の目論見通り、大ヒットで今や三年先まで注文がびっしり埋まっているという。
「あ、ありがたきお言葉です。ですが、わざと仰らないでくださいまし」
このブランド名については一悶着あり、エリザベスは改名を求めたがセシリアたっての希望とクラウディオの後押しもあり、泣く泣く了承したのであった。
「どうして? 分かりやすくて素敵な名前だわ。さすが、風のお二人だわ。そう思いませんこと?」
「それには同感です」
向かいに座るエリザベスは、微笑を浮かべながらカップを傾けた。
その仕草には、侯爵夫人としての気品と、かつての王座を知る者ならではの静けさがあった。
「それに本日の紅茶は格別ですわ」
「まあ、なぜかしら」
「お二人が出征前に贈ってくれた茶葉なのです。わたくしと陛下を想って、ブレンドしてくれたそうです」
「素敵な臣下をもって、わたくしは幸せね」
アナスタシアが花のように微笑む。
その顔立ちはどこか柔らかくなり、以前のような弱々しさはない。
「ご機嫌麗しくて何よりですわ、アナスタシア陛下」
「もう、そんな堅苦しく呼ばないでくださいな。二人きりのときは“アナスタシア”でいいのです」
「では――アナスタシア様」
「ふふ、ええ、それがいいわ」
二人の笑い声が春の風に溶けていく。
それは、戦も陰謀も遠い世界のことのように思えた。
――けれど、彼女たちは知っている。
この穏やかな午後の向こうに、嵐の前の静けさがあることを。
アナスタシアはカップを置き、ふっと遠くを見た。
「ねえ、エリザベス。……時々思うのです」
「何を、ですか?」
「未来のこと。もし、私とカルロス様に子が生まれたら――あなた方の子と、友人になってくれたらいいなって」
その言葉に、エリザベスの頬がほんのりと朱に染まった。
「まあ……! それは、とても光栄なお話ですわ」
「だって、考えてみてください。きっと二人とも、生まれながらに策を練っているわよ? 『今日はどうやって父上を出し抜こうか』なんて」
二人の間に、くすくすとした笑いが生まれた。
アナスタシアは笑いながらも、指先でそっとティーカップの縁を撫でる。
「……けれど、そうして笑っていられる未来を、守らなければなりませんね」
その声音が、わずかに凛としたものへと変わった。
エリザベスは息をのみ、真っすぐに彼女を見つめる。
「アナスタシア様……」
「カルロスは今、国の新たな条約に取りかかっています。周辺諸国の緊張は高まり、そして――リンドブルグも、いよいよ動くでしょう」
その名が出た瞬間、エリザベスの胸が静かに疼いた。
けれど彼女は顔を上げ、まっすぐに微笑んだ。
「ええ。近いうちに、あの国で“結婚式”が行われます。ウィリアム王子と“聖女”の、あの式が」
「それで、あなた方は――参列するのですね?」
アナスタシアの瞳が揺れる。
それは王妃としてではなく、友としての純粋な心配からの問いだった。
「はい。……避けては通れませんもの」
「……エリザベス」
アナスタシアが、そっと彼女の手を取った。
柔らかい手のひらから伝わる温もり。
「私にも――できることがあれば言ってください」
その申し出に、エリザベスは首を横に振る。
「いいえ、それはなりませんわ。これは、わたくしとエドワード様、元リンドブルグ人としての問題です。
アナスタシア様を巻き込むわけには……」
「巻き込む?」
アナスタシアの瞳が、凛と光る。
「違いますわ、エリザベス。あなた方は“今”ルシエンテス王国の臣人。――私の民です」
その言葉には、かつての少女の面影はなかった。
そこにいたのは、確かに“王妃”として国を背負う女。
「私が守るべきは、この国に生きる全ての者。あなた方も、例外ではありません」
エリザベスの胸の奥に、熱いものがこみ上げた。
目の前のアナスタシアは、もはや「友」ではなく、「国の母」として立っている。
「……陛下」
自然と、敬称が口からこぼれた。
そして、深く一礼しながら微笑んだ。
「であれば――軍師姫である陛下に、ひとつお願いがございます」
「お願い?」
エリザベスの声は静かだったが、その奥に確かな覚悟があった。
「結婚式の日――あの国が再び過ちを犯さぬように。戦ではなく、“真実”で示すための、備えをお願いしたいのです」
アナスタシアはしばし黙し、やがて微笑んだ。
その微笑は、春風のように穏やかで、どこまでも強かった。
「承りました。ヴァルメア侯爵夫人。あなたの願いは、確かに私が受け取りましたわ」
陽光が二人のあいだを照らす。
その光はやがて、黄金色の誓いのように二人の手を包み込んだ。
◆
その日の夕刻、カルロス殿下とエドワードが王宮の回廊を並んで歩いていた。
窓の外では、夕日が赤く空を染めている。
「どうやら、うちの妻が君の妻と何やら企んでいるようだ」
カルロスが苦笑混じりに呟く。
「ええ、聞いております。……どうやら“女同士の同盟”が成立したようで」
二人の視線が交わり、微かに笑いがこぼれる。
「あの頃の俺たちのようだ」
「ははっ、そうだね」
それは幼き少年だったカルロスとエドワードのように。
――処刑台の灰がまだ肺の奥に残るような頃合いのことだった。
エドワードは、計画通りの脱出を果たしたわけではなかった。拘束され、間際まで行われたはずの処刑――だが綻びは生まれる。護送の最中、わずかな混乱を見つけ出し、囚人服の裾を切り裂き、夜の海へ飛び込んだ。筏と呼ぶにはあまりにも貧弱な材木の寄せ集めに身を任せ、波間に漂うしか術はなかった。
しかしその筏も長くは持たない。波が牙を剥くたびに、端は軋み、やがて一本の梁がぱきりと折れた。海面へと吸い込まれる暗闇に、エドワードは冷ややかに笑った。死ぬほどではない。使い慣れたもの――光の魔力が、彼の掌に微かに宿る。
彼は学んだ。誰にも見せずに磨いた術を。夜陰に紛れて、指先に光を集中させる。冷たい塩の匂いが鼻腔を刺すと、足元の水面が静かに反応した。薄く、しかし確かな薄膜のような光の道が海上に生まれ、まるで硝子の上を歩むかの如く彼の体重を支えた。
――歩いた。海の上を、地面を踏むように一歩一歩。
その瞬間を見つけた者がいた。磯伝いの岩場に立ち、朝靄の向こうからその不可思議な景色を眺めていたのは、若きルシエンテスの王太子、カルロスだった。
カルロスは目を見張る。淡い朝陽を受けて、濡れた金髪が光を帯び、裸足で海面を歩む――その姿は人のものとも思えず、神話の一場面のように美しかった。心臓が跳ねる。やはり、世界はまだ自分の知らぬ魔法で溢れているのかもしれないと、一瞬思ったほどだ。
だが、現実はもっと生々しかった。エドワードは上半身に海水を滴らせ、粗末な布を腰に巻いただけの姿で、息を整えつつ浜へと辿り着く。彼がこちらを見た瞬間、カルロスの口から思わず漏れた。
「神の使いか――」
ふと、甘い驚嘆が言葉になる。だがエドワードは鼻で笑った。海を歩くことを少し誇張して伝えたところで、彼にとっては日常の一断面に過ぎないのだ。
「まさか。お前の目は節穴か」と、ぶっきらぼうに悪態をつく。
カルロスはたじろぐ。恥じらうべきところなのか、あるいは怒るべきところなのか定まらないままに、問い返す。
「なら、君は誰だ」
エドワードは肩をすくめ、答えを濁すくらいの間合いを置いてから言った。
「元――王子と言えば良いのか?」
その言葉で、カルロスの表情が変わる。あの日、父母が話していた「リンドブルグには第二王子がいる」という話。断片が頭の中でつながる。
慌てて駆け寄ろうとするカルロスに、エドワードは淡々と続ける。
「お前は、ルシエンテスの王子だろう」
カルロスは不意に問う。
「どうして、それを――」
エドワードは海を指差して笑った。本来、ここは王家のプライベートビーチのはずだと。
「って、ここは王家のプライベートビーチだろ?」
カルロスは顔を赤らめ、急に居心地の悪さを覚える。確かに、身辺にそのような場所の噂がある。一方で、目の前の男――濡れた髪と高い頬骨、鋭い瞳を持つ男が自分の想像した“王子”像と重なったため、動揺したのだ。
エドワードはふっと笑い、砂を払う。
「ルシエンテス王子。俺と取引をしないか」
その一言にカルロスは首を傾げる。
「は? 取引?」
エドワードは彼を真っ直ぐ睨みつけた。長年抱えてきた執念の中核。その欲望を、あっさりと彼の前に差し出すような言い方だった。
「お前の望みを叶えてやる。その代わり、俺の望みも叶えて欲しい」
カルロスは眉間に皺を寄せる。横柄だ、いや、図に乗っている。リンドブルグの人間はどこか鼻持ちならない。だが――その眼差しには確かな何かがある。冷たく、熱を孕んだ光。
「お前を衛兵に突き出してやる」と、感情で言葉が出る。
エドワードは肩をすくめる。期待通りの反応だ。
「そうか。残念だな。なら、お前の“ルシエンテス王国を属国という檻から解き放つ”という願いは叶わないな」
その言葉は剣のように鋭く、カルロスの背筋が凍る。だが同時に、胸の奥に奇妙な高揚が走る。誰かが自分の願いに目を止めた――しかも、対等な交換条件として提案してきたのだ。
波打ち際に二人の影が伸びる。海は静まり返り、空は薄く色づき始めていた。すべてが、これから始まる何かを予告しているようだった。
「……お前、名を何という?」と、カルロスは問い直した。
エドワードは小さく笑って答える。
「エドワードでいい」
カルロスは息を呑み、剣の柄でも握るように一瞬手を強めた。その表情には、少年時代の無邪気さではなく、王太子としての覚悟が宿っている。
「取引――だな。話を聞こう。だが、もし嘘なら、俺はお前をすぐに衛兵に突き出す」
エドワードは静かに頷き、海を一瞥した。
「いいだろう。嘘なら、君の国の鎖が壊れるだけだ。だが、本気なら――我々は互いの運命を賭けることになる」
その言葉に、二人は同時に、遠い日の誓いのようなものを感じた。剣ではなく言葉で交わす結盟。そこにおのずと生まれるのは、やがて国を揺るがす約束の種であった。
あの頃の自分達と同じように、最愛が“約束”を交わしているのだとすれば───。
「エドワード。――準備は?」
「抜かりなく」
短く交わされる言葉の中に、重い意味が宿っていた。
それは、愛と誇り、そして決意。
夕陽の向こうに広がる未来を見据えながら、カルロスが呟く。
「……ならば行こう。
あの国に、ルシエンテスの名を知らしめる時だ」
エドワードは深く頷いた。
――彼らの影が、紅の光の中で交わり、長く伸びていく。
その先には、運命の“結婚式”が待っていた。
ルシエンテス王宮の奥庭に面したサロン。白と金の意匠が施されたその一室には、春を思わせる香りと、花々を揺らす風が満ちている。
「やはり、“人魚の恵み”ブレンドは最高だわ」
カップに注がれた琥珀色の茶が、陽光を受けてきらりと光った。
その香りは、特別にアナスタシア王妃の好む配合で調合した紅茶で、今や社交界で知らぬ者はいないほど人気になった“人魚の恵み”。これは、ヴァンディール伯爵令嬢、副責任者であるセシリアが立ち上げた“貴族向けの注文紅茶”。彼女の目論見通り、大ヒットで今や三年先まで注文がびっしり埋まっているという。
「あ、ありがたきお言葉です。ですが、わざと仰らないでくださいまし」
このブランド名については一悶着あり、エリザベスは改名を求めたがセシリアたっての希望とクラウディオの後押しもあり、泣く泣く了承したのであった。
「どうして? 分かりやすくて素敵な名前だわ。さすが、風のお二人だわ。そう思いませんこと?」
「それには同感です」
向かいに座るエリザベスは、微笑を浮かべながらカップを傾けた。
その仕草には、侯爵夫人としての気品と、かつての王座を知る者ならではの静けさがあった。
「それに本日の紅茶は格別ですわ」
「まあ、なぜかしら」
「お二人が出征前に贈ってくれた茶葉なのです。わたくしと陛下を想って、ブレンドしてくれたそうです」
「素敵な臣下をもって、わたくしは幸せね」
アナスタシアが花のように微笑む。
その顔立ちはどこか柔らかくなり、以前のような弱々しさはない。
「ご機嫌麗しくて何よりですわ、アナスタシア陛下」
「もう、そんな堅苦しく呼ばないでくださいな。二人きりのときは“アナスタシア”でいいのです」
「では――アナスタシア様」
「ふふ、ええ、それがいいわ」
二人の笑い声が春の風に溶けていく。
それは、戦も陰謀も遠い世界のことのように思えた。
――けれど、彼女たちは知っている。
この穏やかな午後の向こうに、嵐の前の静けさがあることを。
アナスタシアはカップを置き、ふっと遠くを見た。
「ねえ、エリザベス。……時々思うのです」
「何を、ですか?」
「未来のこと。もし、私とカルロス様に子が生まれたら――あなた方の子と、友人になってくれたらいいなって」
その言葉に、エリザベスの頬がほんのりと朱に染まった。
「まあ……! それは、とても光栄なお話ですわ」
「だって、考えてみてください。きっと二人とも、生まれながらに策を練っているわよ? 『今日はどうやって父上を出し抜こうか』なんて」
二人の間に、くすくすとした笑いが生まれた。
アナスタシアは笑いながらも、指先でそっとティーカップの縁を撫でる。
「……けれど、そうして笑っていられる未来を、守らなければなりませんね」
その声音が、わずかに凛としたものへと変わった。
エリザベスは息をのみ、真っすぐに彼女を見つめる。
「アナスタシア様……」
「カルロスは今、国の新たな条約に取りかかっています。周辺諸国の緊張は高まり、そして――リンドブルグも、いよいよ動くでしょう」
その名が出た瞬間、エリザベスの胸が静かに疼いた。
けれど彼女は顔を上げ、まっすぐに微笑んだ。
「ええ。近いうちに、あの国で“結婚式”が行われます。ウィリアム王子と“聖女”の、あの式が」
「それで、あなた方は――参列するのですね?」
アナスタシアの瞳が揺れる。
それは王妃としてではなく、友としての純粋な心配からの問いだった。
「はい。……避けては通れませんもの」
「……エリザベス」
アナスタシアが、そっと彼女の手を取った。
柔らかい手のひらから伝わる温もり。
「私にも――できることがあれば言ってください」
その申し出に、エリザベスは首を横に振る。
「いいえ、それはなりませんわ。これは、わたくしとエドワード様、元リンドブルグ人としての問題です。
アナスタシア様を巻き込むわけには……」
「巻き込む?」
アナスタシアの瞳が、凛と光る。
「違いますわ、エリザベス。あなた方は“今”ルシエンテス王国の臣人。――私の民です」
その言葉には、かつての少女の面影はなかった。
そこにいたのは、確かに“王妃”として国を背負う女。
「私が守るべきは、この国に生きる全ての者。あなた方も、例外ではありません」
エリザベスの胸の奥に、熱いものがこみ上げた。
目の前のアナスタシアは、もはや「友」ではなく、「国の母」として立っている。
「……陛下」
自然と、敬称が口からこぼれた。
そして、深く一礼しながら微笑んだ。
「であれば――軍師姫である陛下に、ひとつお願いがございます」
「お願い?」
エリザベスの声は静かだったが、その奥に確かな覚悟があった。
「結婚式の日――あの国が再び過ちを犯さぬように。戦ではなく、“真実”で示すための、備えをお願いしたいのです」
アナスタシアはしばし黙し、やがて微笑んだ。
その微笑は、春風のように穏やかで、どこまでも強かった。
「承りました。ヴァルメア侯爵夫人。あなたの願いは、確かに私が受け取りましたわ」
陽光が二人のあいだを照らす。
その光はやがて、黄金色の誓いのように二人の手を包み込んだ。
◆
その日の夕刻、カルロス殿下とエドワードが王宮の回廊を並んで歩いていた。
窓の外では、夕日が赤く空を染めている。
「どうやら、うちの妻が君の妻と何やら企んでいるようだ」
カルロスが苦笑混じりに呟く。
「ええ、聞いております。……どうやら“女同士の同盟”が成立したようで」
二人の視線が交わり、微かに笑いがこぼれる。
「あの頃の俺たちのようだ」
「ははっ、そうだね」
それは幼き少年だったカルロスとエドワードのように。
――処刑台の灰がまだ肺の奥に残るような頃合いのことだった。
エドワードは、計画通りの脱出を果たしたわけではなかった。拘束され、間際まで行われたはずの処刑――だが綻びは生まれる。護送の最中、わずかな混乱を見つけ出し、囚人服の裾を切り裂き、夜の海へ飛び込んだ。筏と呼ぶにはあまりにも貧弱な材木の寄せ集めに身を任せ、波間に漂うしか術はなかった。
しかしその筏も長くは持たない。波が牙を剥くたびに、端は軋み、やがて一本の梁がぱきりと折れた。海面へと吸い込まれる暗闇に、エドワードは冷ややかに笑った。死ぬほどではない。使い慣れたもの――光の魔力が、彼の掌に微かに宿る。
彼は学んだ。誰にも見せずに磨いた術を。夜陰に紛れて、指先に光を集中させる。冷たい塩の匂いが鼻腔を刺すと、足元の水面が静かに反応した。薄く、しかし確かな薄膜のような光の道が海上に生まれ、まるで硝子の上を歩むかの如く彼の体重を支えた。
――歩いた。海の上を、地面を踏むように一歩一歩。
その瞬間を見つけた者がいた。磯伝いの岩場に立ち、朝靄の向こうからその不可思議な景色を眺めていたのは、若きルシエンテスの王太子、カルロスだった。
カルロスは目を見張る。淡い朝陽を受けて、濡れた金髪が光を帯び、裸足で海面を歩む――その姿は人のものとも思えず、神話の一場面のように美しかった。心臓が跳ねる。やはり、世界はまだ自分の知らぬ魔法で溢れているのかもしれないと、一瞬思ったほどだ。
だが、現実はもっと生々しかった。エドワードは上半身に海水を滴らせ、粗末な布を腰に巻いただけの姿で、息を整えつつ浜へと辿り着く。彼がこちらを見た瞬間、カルロスの口から思わず漏れた。
「神の使いか――」
ふと、甘い驚嘆が言葉になる。だがエドワードは鼻で笑った。海を歩くことを少し誇張して伝えたところで、彼にとっては日常の一断面に過ぎないのだ。
「まさか。お前の目は節穴か」と、ぶっきらぼうに悪態をつく。
カルロスはたじろぐ。恥じらうべきところなのか、あるいは怒るべきところなのか定まらないままに、問い返す。
「なら、君は誰だ」
エドワードは肩をすくめ、答えを濁すくらいの間合いを置いてから言った。
「元――王子と言えば良いのか?」
その言葉で、カルロスの表情が変わる。あの日、父母が話していた「リンドブルグには第二王子がいる」という話。断片が頭の中でつながる。
慌てて駆け寄ろうとするカルロスに、エドワードは淡々と続ける。
「お前は、ルシエンテスの王子だろう」
カルロスは不意に問う。
「どうして、それを――」
エドワードは海を指差して笑った。本来、ここは王家のプライベートビーチのはずだと。
「って、ここは王家のプライベートビーチだろ?」
カルロスは顔を赤らめ、急に居心地の悪さを覚える。確かに、身辺にそのような場所の噂がある。一方で、目の前の男――濡れた髪と高い頬骨、鋭い瞳を持つ男が自分の想像した“王子”像と重なったため、動揺したのだ。
エドワードはふっと笑い、砂を払う。
「ルシエンテス王子。俺と取引をしないか」
その一言にカルロスは首を傾げる。
「は? 取引?」
エドワードは彼を真っ直ぐ睨みつけた。長年抱えてきた執念の中核。その欲望を、あっさりと彼の前に差し出すような言い方だった。
「お前の望みを叶えてやる。その代わり、俺の望みも叶えて欲しい」
カルロスは眉間に皺を寄せる。横柄だ、いや、図に乗っている。リンドブルグの人間はどこか鼻持ちならない。だが――その眼差しには確かな何かがある。冷たく、熱を孕んだ光。
「お前を衛兵に突き出してやる」と、感情で言葉が出る。
エドワードは肩をすくめる。期待通りの反応だ。
「そうか。残念だな。なら、お前の“ルシエンテス王国を属国という檻から解き放つ”という願いは叶わないな」
その言葉は剣のように鋭く、カルロスの背筋が凍る。だが同時に、胸の奥に奇妙な高揚が走る。誰かが自分の願いに目を止めた――しかも、対等な交換条件として提案してきたのだ。
波打ち際に二人の影が伸びる。海は静まり返り、空は薄く色づき始めていた。すべてが、これから始まる何かを予告しているようだった。
「……お前、名を何という?」と、カルロスは問い直した。
エドワードは小さく笑って答える。
「エドワードでいい」
カルロスは息を呑み、剣の柄でも握るように一瞬手を強めた。その表情には、少年時代の無邪気さではなく、王太子としての覚悟が宿っている。
「取引――だな。話を聞こう。だが、もし嘘なら、俺はお前をすぐに衛兵に突き出す」
エドワードは静かに頷き、海を一瞥した。
「いいだろう。嘘なら、君の国の鎖が壊れるだけだ。だが、本気なら――我々は互いの運命を賭けることになる」
その言葉に、二人は同時に、遠い日の誓いのようなものを感じた。剣ではなく言葉で交わす結盟。そこにおのずと生まれるのは、やがて国を揺るがす約束の種であった。
あの頃の自分達と同じように、最愛が“約束”を交わしているのだとすれば───。
「エドワード。――準備は?」
「抜かりなく」
短く交わされる言葉の中に、重い意味が宿っていた。
それは、愛と誇り、そして決意。
夕陽の向こうに広がる未来を見据えながら、カルロスが呟く。
「……ならば行こう。
あの国に、ルシエンテスの名を知らしめる時だ」
エドワードは深く頷いた。
――彼らの影が、紅の光の中で交わり、長く伸びていく。
その先には、運命の“結婚式”が待っていた。
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