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潮騒の誓い*
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波が、夜をやさしく撫でていた。
窓の外では月が高く、白銀の光がカーテンの隙間から流れ込む。潮の香りを含んだ風が、二人の頬をくすぐる。
土島の屋敷――騒乱と祝宴を終えたその夜、エドワードとエリザベスは、ようやく静けさの中に身を置いていた。
暖炉の火はまだ燃えている。橙色の炎が、壁に二人の影を揺らした。
部屋の隅では、祝いの花束がそのままに残されている。ルシエンテスの王子カルロスから贈られた南国の花々。夜気を含んで、甘い香りを漂わせていた。
エドワードは上着を脱ぎ、シャツの襟を少し緩める。長い一日の疲れがようやくほどけ、深く息を吐く。
エリザベスはその隣で、膝の上にカップを抱えていた。熱いハーブティーの湯気が、彼女の白い頬をやわらかく包む。
「静かですね……まるで、世界に私たちしかいないみたい」
囁くような声。
その言葉に、エドワードは微笑んだ。
「そう感じる夜が、ようやく来たんだ。長かったな」
エリザベスは小さく頷いた。
彼女の瞳が揺れる――安堵と、まだ残る微かな不安が同居している。
エドワードは彼女の指先に触れた。細く、華奢な手。海風で少し冷えていた。
そのまま彼の大きな掌に包まれ、ゆっくりと温められていく。
「……覚えていますか? 私たちが初めて会った日のこと」
彼女が口を開いた。
「もちろん。忘れられるわけがない」
エドワードは静かに笑う。
思い出が二人の間に流れ出す。
「わたくし、貴方が船から降りてきた時、どこかでお会いしたことがある気がしたんです。でも、子供の頃お会いしたあの一度きりでは確信が持てなくて」
「俺にとっては二度目だったんだがな」
「え?うそ?以前にもどこかでお会いしていたの?いやだわ。わたくしったら忘れているなんて……」
ごめんなさいとしゅんとするエリザベス。
「どちらでお会いしましたか?ごめんなさい。思い出せないの」
そんな彼女がたまらなく可愛らしくて、思わず唇を奪う。
「んっ、も、もうエドワード様。教えてください」
教えてと言われても、あの時、エリザベスとは直接顔を合わせていないのだから、エリザベスが覚えていないのは当たり前だ。
エドワードだけが知る、初恋の思い出なのだから。
「だがまさか、あの頑固な島民を手懐け、人魚姫ともてはやされているとは予想外だった。そういえば人魚姫と最初に名付けたのは誰だ?」
「わたくしを救ってくれたのは、ハリーとアニーですわ」
そういわれて顔を思い出すエドワード。
「なぜ人魚姫と?」
「わたくしを発見した時、海に打ち上げられた人魚だと思ったそうです。ふふ、変わっているでしょう?足もしっかり生えているのに」
エドワードは、王城内で“人魚姫”と思ったことをぐっと飲み込んだ。
「エドワード様は、あの頃のわたくしをどう思っていました?」
問いかける声音は穏やかだったが、どこか照れくさそうでもある。
「正直に言えば――“眩しすぎた”」
「まあ……またそんなことを言って」
「本当だ。王都で出会った時よりも強くて、誰よりも無謀で、そして誰よりも美しかった」
からかい半分の声音に聞こえるのに、彼の目は真剣だった。
エリザベスは、照れ隠しのように視線をそらす。
「……最初の頃は、合理的な領主様だと思っていました」
「合理的? 俺が?」
「ええ。だって冤罪とはいえ世間では流刑された元王太子妃だなんて、面倒なだけですわ。そんなわたくしを、復興相手に最適だからと求婚したんですもの。政略結婚以外に何があると思いますか?」
「思っていた、じゃなくて。そう思い込んでいたんだろう? 俺に惚れないよう必死だった」
「なっ……! そ、そんなことありません!」
エリザベスの声は、まるで波間に跳ねる光のように震えていた。
真っ赤に染まる頬が、暖炉の灯よりも熱い。
視線を逸らすたび、心臓の鼓動が耳に届くほど響いて、彼女自身がその音に怯える。
エドワードはそんな彼女を見下ろし、静かに笑った。
まるで、長い間探し求めた宝を見つけた男のように。
「そうか?それはとんだ勘違いをしてしまった。こんな風に」
「ひゃ」
くにくにと耳を弄ぶエドワード。
その指先は悪戯めいているのに、どこか優しく、確信をもって彼女を探っていた。
「耳を真っ赤にしていたのは、気のせいだったのか?」
ぴくりと体が震える。
息が、喉の奥で掠れる。
自分の中に、知らなかった熱が生まれていくのを、エリザベスはどうすることもできなかった。心の奥まで触れられているようで、逃げたくても、逃げられない。
「だって、あなたってば勘違いさせる言い方ばかりするんだもの」
「へぇ? 例えばどんな?」
「“君が必要だ”と仰るのに、次には“島民に希望を”って、領主目線の言葉ばかり……っ」
「そうか? 俺はちゃんと伝えたはずだ。“私には君が必要だ”と」
「それは、んっ……領主として、でしょう?」
「ほら、また思い込んでいる」
「ちがっ、んん」
精一杯の反論のつもりなのに、声が震えてしまう。
言葉の端が甘く滲む。
そのかすかな音を、エドワードは逃さなかった。
彼はゆっくりと身を寄せ、彼女の唇に触れた。
それは奪うというより、確かめるようなキスだった。息と息が混ざり合い、世界の音が遠のいていく。
「あなたがわたくしに優しくしてくださったのは、同情だと思っていたんです。あの時と同じように、情けをかけてくださっただけだと」
「情け?」
低く呟いて、エドワードは微かに笑う。
その笑みには、安堵と愛しさと、少しの苛立ちが混ざっていた。
彼は額に口づけ、次に頬、そして鼻先へ。まるで彼女の存在すべてを確かめるように、優しいキスを散らす。
そのたびに、エリザベスの呼吸が乱れ、唇がかすかに震えた。愛されることの重さと甘さが、同時に胸を満たしていく。
「俺は、君が勘違いだと目線を逸らしても、アプローチを無視しても、ずっと心を掴まれていたんだ。情けなんて言葉じゃ、とても足りない」
「そんな、わたくし無視だなんて」
「言い切れるか? 君は常に“人魚姫”として求められていると微笑んでいたはずだ。これだけ迫っても落ちてこないなんて、強固だと思ったよ。正面から目を合わせなかったのは、君くらいだ」
言い返せなくて、彼女は小さく頬を膨らませる。
そんな仕草さえ、エドワードの胸をくすぐった。
「……やはり、おモテになられるのですね」
「嫉妬してくれるのか?」
「あ、当たり前です……。だってあなたはわたくしの旦那様……なのですから」
エドワードが本当に嬉しそうに微笑む。それは、戦場でも政務の席でも見せたことのない、無防備な笑顔だった。
その笑顔に、エリザベスの胸がどくんと跳ねる。息が詰まり、目を逸らそうとしても、もう遅い。彼女の心は、その笑顔にすっかり囚われていた。
「っ……ずるいです。そんな顔するなんて」
「ん? どんな顔をしている?自分では見えないからな」
「……嫉妬されて幸せそうに笑っていらっしゃるわ」
「大正解だ」
「んっ、も、もうさっきから何ですか!そんなにされては溶けてしまいます」
「それは困る。俺はもう君無しでは生きていけない」
「なっ……なんてこと、仰るのですか……」
その言葉に、エリザベスの胸がじんと熱くなる。
彼の手が、そっと頬に触れた。
その掌は、南の夜の海のように温かく、静かだった。
「そういう君は、いつだって俺を翻弄してきた」
「わたくしが、ですか?」
「そうだ。見てみろ、あの頃からずっと。島の誰よりも、君の周りには男が集まっていた」
エリザベスは目を瞬いた。
何を言い出すのかと思えば、エドワードはわざとらしく溜息をつく。
わざと低く呟く声に、嫉妬と呆れと独占欲が滲む。
名前を出すのも癪なのだろう――ヴェント男爵のことだ。
エドワードは目を細め、グラスを軽く揺らした。
炎の光が琥珀色の瞳に反射し、その奥に潜む感情が読み取れない。
けれどエリザベスにはわかった。
その嫉妬の熱は、彼の優しさの裏にずっと隠れていたものだと。
「他にも、風の公爵令息、ノエル副団長、バランシア伯爵令息」
「騎士副団長はともかく、他の皆様は違いますわ!皆様、婚約者がいらっしゃるもの」
「そいつらだけじゃない。ルシエンテスの若い貴族たちもそうだ。舞踏会で初めて君を見た彼らは、全員が息を呑んでいた。あの夜、俺は幾人もが“彼女に近づける方法”を探っていて殺意が湧いた」
「うそ……!」
「本当だ。ある伯爵子息なんて、君が落としたハンカチを宝物のように抱えていた」
エリザベスは両頬を赤く染め、慌てて立ち上がる。
胸の奥が熱く、息が乱れる。何かを言い返さなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。
「そ、それなら――貴方だって! 貴方のまわりにはいつも女性がいたでしょう? それに、マリウス公爵令嬢とのこと……」
彼女の声は、怒っているのか、それとも嫉妬に震えているのか、自分でも分からなかった。
エドワードは少し目を細め、まるで面白い玩具でも見つけたように微笑む。
「どうせわたくしは彼女のような豊満な身体ではありませんもの……」
「それは、どういう意味だ」
「別に……。舞踏会の時、彼女に抱き付かれて喜んでらしたから、やっぱり殿方はああいう体型がお好みなんだとおもっただけですっ」
「見ていたのか?」
穏やかに問う声の奥に、かすかな笑みが混じる。喜んだわけではない。ただ、彼女が自分を気にしていたという事実が、嬉しかったのだ。
あえて否定しない。
その小さな意地悪が、彼の胸の奥の愛しさをますます募らせる。
「別に! たまたま見えただけです!」
「へえ。“たまたま”ね?」
からかうように言って、エドワードはゆっくり立ち上がる。
その動作ひとつひとつが静かで、なのに妙に艶めいている。
距離を詰められるたび、エリザベスの心拍が高鳴っていく。
「俺が彼女と舞踏会で踊ったとき、君、ずっと見ていただろう」
「……っ、見ていません!」
「視線が痛かった。踊りながらでもわかったよ。まるで“早く離れろ”と念を送っていた」
「そ、そんなこと――」
言いかけて、エリザベスは息を詰まらせる。
彼が一歩近づく。もう一歩。
距離が、炎の熱よりも近くなった。
「俺は思った」
そして――次の瞬間、彼は彼女を引き寄せ、唇を重ねた。
「え、んっ、ンンー!」
深い、長いキス。優しさでも激情でもなく、二人の過去と未来を確かめ合うような、静かな誓い。
その夜の風までもが、二人の間で息を潜めた。
「っはぁ、それは、どういうっ……」
「君がカルロスと踊っている姿に、腑が煮え繰り返るほど腹が立った」
「どうしてっ、殿下とはそちらと違って邪な気持ちは何も、きゃっ!」
息を呑む間もなく、エリザベスの背が柔らかな寝台に沈んだ。
「いや、あったさ。――少なからず、殿下には想いがあった」
低く、けれど熱を帯びた声が、静寂の中に落ちる。
「っ、エ、エドワード様……」
次の瞬間、彼の影が覆いかぶさる。
至近で感じる体温、呼吸、鼓動――そのすべてが彼女を追い詰める。
逃れようと後退した肩を、エドワードの腕が静かに押し留めた。
力ではない。けれど、その眼差しに抗うことはできない。
「殿下のあの時の表情を見ればわかる。それに殿下の初恋は君だ。エリザベス」
「ふぇ!?」
「君は、いったい何人、男を惑わせれば気が済むんだ」
「ちがっ、わたくしは――きゃっ!」
エリザベスの抗弁は、悲鳴とともに途切れた。
ふわりと軽い音を立てて、ドレスの裾が持ち上がる。
その瞬間、夜の空気が、素肌を撫でた。
「思い出したら、どうにも腹が立ってきた」
低く、震える声。
それは怒りというより、嫉妬と抑えきれない愛情の混ざった熱だった。
「エ、エドワード様……お、落ち着いて……」
戸惑うように名を呼ぶその声さえ、彼をさらに追い詰めていく。
見下ろすエドワードの瞳の奥で、炎が揺れた。
「無理だ。今すぐ君をめちゃくちゃにしたい」
彼の呼吸が、頬をかすめるたびに熱を帯び、エリザベスの胸が高鳴る。
――この人に、これほど強く求められている。
恐れでも拒絶でもなく、心が震えた。
胸の奥に、言葉にならない愛しさが広がっていく。
「わ、わたくし、さすがに今日は疲れ、ひゃあ!」
「逃すか。あのバカ王子なら取るに足らないが──殿下は違う。アイツが本気だったら、俺は」
そこで言葉が途切れた。
暖炉の炎が、ぱち、と小さく弾ける。沈黙の中に、潮騒の音が遠くで囁く。
嫉妬と焦燥がないまぜになり、彼の胸の奥で渦を巻いていた。
その熱が、触れ合う距離の空気をわずかに震わせる。
「俺は……?」
エリザベスが小さく囁く。上ずった声の奥に、かすかな期待が滲んでいる。
エドワードは息を呑み、彼女を見つめた。
彼女の肌から、海の匂いがした。
「……。いや、負けるわけがない。譲ってなるものか」
その声は、熱に染まっていた。
彼の指が彼女の頬をなぞる。ただ触れるだけなのに、そこから火が灯るように、彼女の肌が熱を帯びていく。
「エドワード様……」
その呼び名が甘く震える。
呼ばれただけで、彼の胸がきしむほど疼いた。
「君は、俺の人魚姫なんだ。
世界中が君をそう呼ぼうとも、――俺だけの人魚姫だ」
彼の声が、まるで誓いのように、胸の奥に沈む。
その響きが嬉しくて、でも同時に切なくて、エリザベスは小さく笑った。
「ふふ、違いますわ」
「……?」
覆いかぶさったまま、エリザベスは両手を伸ばし、彼の頬を包み込む。
手のひら越しに伝わる熱。その温もりに、彼女の心が波のように満ちていく。
「あなたは――わたくしの、わたくしだけの旦那様でしょう?」
微笑みながら、彼女はそっと囁いた。
「泡になって消えてしまう妻なんて、困りませんこと?」
その言葉が、彼の心に直に触れた。
エドワードの喉が詰まり、瞳が見開かれる。
頬がみるみるうちに赤く染まり、視線を逸らすことさえできずに固まった。
「ッ……」
それは、戦場の王子でも、冷静な領主でもない。
一人の男としての、無防備な照れ。
「まあ……」
エリザベスはその表情を見て、思わず息を呑んだ。
こんな顔を見られる日が来るなんて――そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「可愛い……」
息を詰めたのは、今度はエドワードの方だった。
強張った肩がわずかに緩み、紅潮した頬に、月の光がやわらかく落ちる。
その姿に、エリザベスの胸がふわりと温かくなる。
思わず、微笑みながら呟く。
次の瞬間、彼の背に腕を回し、そっと抱き寄せた。
彼の心臓の鼓動が、すぐ耳元で響く。
それは、互いの鼓動が重なる瞬間――静かな幸福の音だった。
「愛しているわ。“エドワード”」
その名を呼ぶ声は、震えていた。
彼の息が止まり、次いで低く、深く笑う。
「ああ。俺もだ。エリザベス」
囁きながら、彼女の腰に回した手に、わずかに力がこもる。
その動きの奥に、抑えていた何かが目を覚ます。
海が静かにざわめいた。
夜の空気が、二人の間の熱を包み込み、消え入りそうな灯を映す。
言葉はいらなかった。
もう、どちらからでもなく――唇が触れ合い、時間が溶けていく。
すべての音が遠のく中、潮騒だけが、二人の愛を祝福するように優しく響いていた。
窓の外では月が高く、白銀の光がカーテンの隙間から流れ込む。潮の香りを含んだ風が、二人の頬をくすぐる。
土島の屋敷――騒乱と祝宴を終えたその夜、エドワードとエリザベスは、ようやく静けさの中に身を置いていた。
暖炉の火はまだ燃えている。橙色の炎が、壁に二人の影を揺らした。
部屋の隅では、祝いの花束がそのままに残されている。ルシエンテスの王子カルロスから贈られた南国の花々。夜気を含んで、甘い香りを漂わせていた。
エドワードは上着を脱ぎ、シャツの襟を少し緩める。長い一日の疲れがようやくほどけ、深く息を吐く。
エリザベスはその隣で、膝の上にカップを抱えていた。熱いハーブティーの湯気が、彼女の白い頬をやわらかく包む。
「静かですね……まるで、世界に私たちしかいないみたい」
囁くような声。
その言葉に、エドワードは微笑んだ。
「そう感じる夜が、ようやく来たんだ。長かったな」
エリザベスは小さく頷いた。
彼女の瞳が揺れる――安堵と、まだ残る微かな不安が同居している。
エドワードは彼女の指先に触れた。細く、華奢な手。海風で少し冷えていた。
そのまま彼の大きな掌に包まれ、ゆっくりと温められていく。
「……覚えていますか? 私たちが初めて会った日のこと」
彼女が口を開いた。
「もちろん。忘れられるわけがない」
エドワードは静かに笑う。
思い出が二人の間に流れ出す。
「わたくし、貴方が船から降りてきた時、どこかでお会いしたことがある気がしたんです。でも、子供の頃お会いしたあの一度きりでは確信が持てなくて」
「俺にとっては二度目だったんだがな」
「え?うそ?以前にもどこかでお会いしていたの?いやだわ。わたくしったら忘れているなんて……」
ごめんなさいとしゅんとするエリザベス。
「どちらでお会いしましたか?ごめんなさい。思い出せないの」
そんな彼女がたまらなく可愛らしくて、思わず唇を奪う。
「んっ、も、もうエドワード様。教えてください」
教えてと言われても、あの時、エリザベスとは直接顔を合わせていないのだから、エリザベスが覚えていないのは当たり前だ。
エドワードだけが知る、初恋の思い出なのだから。
「だがまさか、あの頑固な島民を手懐け、人魚姫ともてはやされているとは予想外だった。そういえば人魚姫と最初に名付けたのは誰だ?」
「わたくしを救ってくれたのは、ハリーとアニーですわ」
そういわれて顔を思い出すエドワード。
「なぜ人魚姫と?」
「わたくしを発見した時、海に打ち上げられた人魚だと思ったそうです。ふふ、変わっているでしょう?足もしっかり生えているのに」
エドワードは、王城内で“人魚姫”と思ったことをぐっと飲み込んだ。
「エドワード様は、あの頃のわたくしをどう思っていました?」
問いかける声音は穏やかだったが、どこか照れくさそうでもある。
「正直に言えば――“眩しすぎた”」
「まあ……またそんなことを言って」
「本当だ。王都で出会った時よりも強くて、誰よりも無謀で、そして誰よりも美しかった」
からかい半分の声音に聞こえるのに、彼の目は真剣だった。
エリザベスは、照れ隠しのように視線をそらす。
「……最初の頃は、合理的な領主様だと思っていました」
「合理的? 俺が?」
「ええ。だって冤罪とはいえ世間では流刑された元王太子妃だなんて、面倒なだけですわ。そんなわたくしを、復興相手に最適だからと求婚したんですもの。政略結婚以外に何があると思いますか?」
「思っていた、じゃなくて。そう思い込んでいたんだろう? 俺に惚れないよう必死だった」
「なっ……! そ、そんなことありません!」
エリザベスの声は、まるで波間に跳ねる光のように震えていた。
真っ赤に染まる頬が、暖炉の灯よりも熱い。
視線を逸らすたび、心臓の鼓動が耳に届くほど響いて、彼女自身がその音に怯える。
エドワードはそんな彼女を見下ろし、静かに笑った。
まるで、長い間探し求めた宝を見つけた男のように。
「そうか?それはとんだ勘違いをしてしまった。こんな風に」
「ひゃ」
くにくにと耳を弄ぶエドワード。
その指先は悪戯めいているのに、どこか優しく、確信をもって彼女を探っていた。
「耳を真っ赤にしていたのは、気のせいだったのか?」
ぴくりと体が震える。
息が、喉の奥で掠れる。
自分の中に、知らなかった熱が生まれていくのを、エリザベスはどうすることもできなかった。心の奥まで触れられているようで、逃げたくても、逃げられない。
「だって、あなたってば勘違いさせる言い方ばかりするんだもの」
「へぇ? 例えばどんな?」
「“君が必要だ”と仰るのに、次には“島民に希望を”って、領主目線の言葉ばかり……っ」
「そうか? 俺はちゃんと伝えたはずだ。“私には君が必要だ”と」
「それは、んっ……領主として、でしょう?」
「ほら、また思い込んでいる」
「ちがっ、んん」
精一杯の反論のつもりなのに、声が震えてしまう。
言葉の端が甘く滲む。
そのかすかな音を、エドワードは逃さなかった。
彼はゆっくりと身を寄せ、彼女の唇に触れた。
それは奪うというより、確かめるようなキスだった。息と息が混ざり合い、世界の音が遠のいていく。
「あなたがわたくしに優しくしてくださったのは、同情だと思っていたんです。あの時と同じように、情けをかけてくださっただけだと」
「情け?」
低く呟いて、エドワードは微かに笑う。
その笑みには、安堵と愛しさと、少しの苛立ちが混ざっていた。
彼は額に口づけ、次に頬、そして鼻先へ。まるで彼女の存在すべてを確かめるように、優しいキスを散らす。
そのたびに、エリザベスの呼吸が乱れ、唇がかすかに震えた。愛されることの重さと甘さが、同時に胸を満たしていく。
「俺は、君が勘違いだと目線を逸らしても、アプローチを無視しても、ずっと心を掴まれていたんだ。情けなんて言葉じゃ、とても足りない」
「そんな、わたくし無視だなんて」
「言い切れるか? 君は常に“人魚姫”として求められていると微笑んでいたはずだ。これだけ迫っても落ちてこないなんて、強固だと思ったよ。正面から目を合わせなかったのは、君くらいだ」
言い返せなくて、彼女は小さく頬を膨らませる。
そんな仕草さえ、エドワードの胸をくすぐった。
「……やはり、おモテになられるのですね」
「嫉妬してくれるのか?」
「あ、当たり前です……。だってあなたはわたくしの旦那様……なのですから」
エドワードが本当に嬉しそうに微笑む。それは、戦場でも政務の席でも見せたことのない、無防備な笑顔だった。
その笑顔に、エリザベスの胸がどくんと跳ねる。息が詰まり、目を逸らそうとしても、もう遅い。彼女の心は、その笑顔にすっかり囚われていた。
「っ……ずるいです。そんな顔するなんて」
「ん? どんな顔をしている?自分では見えないからな」
「……嫉妬されて幸せそうに笑っていらっしゃるわ」
「大正解だ」
「んっ、も、もうさっきから何ですか!そんなにされては溶けてしまいます」
「それは困る。俺はもう君無しでは生きていけない」
「なっ……なんてこと、仰るのですか……」
その言葉に、エリザベスの胸がじんと熱くなる。
彼の手が、そっと頬に触れた。
その掌は、南の夜の海のように温かく、静かだった。
「そういう君は、いつだって俺を翻弄してきた」
「わたくしが、ですか?」
「そうだ。見てみろ、あの頃からずっと。島の誰よりも、君の周りには男が集まっていた」
エリザベスは目を瞬いた。
何を言い出すのかと思えば、エドワードはわざとらしく溜息をつく。
わざと低く呟く声に、嫉妬と呆れと独占欲が滲む。
名前を出すのも癪なのだろう――ヴェント男爵のことだ。
エドワードは目を細め、グラスを軽く揺らした。
炎の光が琥珀色の瞳に反射し、その奥に潜む感情が読み取れない。
けれどエリザベスにはわかった。
その嫉妬の熱は、彼の優しさの裏にずっと隠れていたものだと。
「他にも、風の公爵令息、ノエル副団長、バランシア伯爵令息」
「騎士副団長はともかく、他の皆様は違いますわ!皆様、婚約者がいらっしゃるもの」
「そいつらだけじゃない。ルシエンテスの若い貴族たちもそうだ。舞踏会で初めて君を見た彼らは、全員が息を呑んでいた。あの夜、俺は幾人もが“彼女に近づける方法”を探っていて殺意が湧いた」
「うそ……!」
「本当だ。ある伯爵子息なんて、君が落としたハンカチを宝物のように抱えていた」
エリザベスは両頬を赤く染め、慌てて立ち上がる。
胸の奥が熱く、息が乱れる。何かを言い返さなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。
「そ、それなら――貴方だって! 貴方のまわりにはいつも女性がいたでしょう? それに、マリウス公爵令嬢とのこと……」
彼女の声は、怒っているのか、それとも嫉妬に震えているのか、自分でも分からなかった。
エドワードは少し目を細め、まるで面白い玩具でも見つけたように微笑む。
「どうせわたくしは彼女のような豊満な身体ではありませんもの……」
「それは、どういう意味だ」
「別に……。舞踏会の時、彼女に抱き付かれて喜んでらしたから、やっぱり殿方はああいう体型がお好みなんだとおもっただけですっ」
「見ていたのか?」
穏やかに問う声の奥に、かすかな笑みが混じる。喜んだわけではない。ただ、彼女が自分を気にしていたという事実が、嬉しかったのだ。
あえて否定しない。
その小さな意地悪が、彼の胸の奥の愛しさをますます募らせる。
「別に! たまたま見えただけです!」
「へえ。“たまたま”ね?」
からかうように言って、エドワードはゆっくり立ち上がる。
その動作ひとつひとつが静かで、なのに妙に艶めいている。
距離を詰められるたび、エリザベスの心拍が高鳴っていく。
「俺が彼女と舞踏会で踊ったとき、君、ずっと見ていただろう」
「……っ、見ていません!」
「視線が痛かった。踊りながらでもわかったよ。まるで“早く離れろ”と念を送っていた」
「そ、そんなこと――」
言いかけて、エリザベスは息を詰まらせる。
彼が一歩近づく。もう一歩。
距離が、炎の熱よりも近くなった。
「俺は思った」
そして――次の瞬間、彼は彼女を引き寄せ、唇を重ねた。
「え、んっ、ンンー!」
深い、長いキス。優しさでも激情でもなく、二人の過去と未来を確かめ合うような、静かな誓い。
その夜の風までもが、二人の間で息を潜めた。
「っはぁ、それは、どういうっ……」
「君がカルロスと踊っている姿に、腑が煮え繰り返るほど腹が立った」
「どうしてっ、殿下とはそちらと違って邪な気持ちは何も、きゃっ!」
息を呑む間もなく、エリザベスの背が柔らかな寝台に沈んだ。
「いや、あったさ。――少なからず、殿下には想いがあった」
低く、けれど熱を帯びた声が、静寂の中に落ちる。
「っ、エ、エドワード様……」
次の瞬間、彼の影が覆いかぶさる。
至近で感じる体温、呼吸、鼓動――そのすべてが彼女を追い詰める。
逃れようと後退した肩を、エドワードの腕が静かに押し留めた。
力ではない。けれど、その眼差しに抗うことはできない。
「殿下のあの時の表情を見ればわかる。それに殿下の初恋は君だ。エリザベス」
「ふぇ!?」
「君は、いったい何人、男を惑わせれば気が済むんだ」
「ちがっ、わたくしは――きゃっ!」
エリザベスの抗弁は、悲鳴とともに途切れた。
ふわりと軽い音を立てて、ドレスの裾が持ち上がる。
その瞬間、夜の空気が、素肌を撫でた。
「思い出したら、どうにも腹が立ってきた」
低く、震える声。
それは怒りというより、嫉妬と抑えきれない愛情の混ざった熱だった。
「エ、エドワード様……お、落ち着いて……」
戸惑うように名を呼ぶその声さえ、彼をさらに追い詰めていく。
見下ろすエドワードの瞳の奥で、炎が揺れた。
「無理だ。今すぐ君をめちゃくちゃにしたい」
彼の呼吸が、頬をかすめるたびに熱を帯び、エリザベスの胸が高鳴る。
――この人に、これほど強く求められている。
恐れでも拒絶でもなく、心が震えた。
胸の奥に、言葉にならない愛しさが広がっていく。
「わ、わたくし、さすがに今日は疲れ、ひゃあ!」
「逃すか。あのバカ王子なら取るに足らないが──殿下は違う。アイツが本気だったら、俺は」
そこで言葉が途切れた。
暖炉の炎が、ぱち、と小さく弾ける。沈黙の中に、潮騒の音が遠くで囁く。
嫉妬と焦燥がないまぜになり、彼の胸の奥で渦を巻いていた。
その熱が、触れ合う距離の空気をわずかに震わせる。
「俺は……?」
エリザベスが小さく囁く。上ずった声の奥に、かすかな期待が滲んでいる。
エドワードは息を呑み、彼女を見つめた。
彼女の肌から、海の匂いがした。
「……。いや、負けるわけがない。譲ってなるものか」
その声は、熱に染まっていた。
彼の指が彼女の頬をなぞる。ただ触れるだけなのに、そこから火が灯るように、彼女の肌が熱を帯びていく。
「エドワード様……」
その呼び名が甘く震える。
呼ばれただけで、彼の胸がきしむほど疼いた。
「君は、俺の人魚姫なんだ。
世界中が君をそう呼ぼうとも、――俺だけの人魚姫だ」
彼の声が、まるで誓いのように、胸の奥に沈む。
その響きが嬉しくて、でも同時に切なくて、エリザベスは小さく笑った。
「ふふ、違いますわ」
「……?」
覆いかぶさったまま、エリザベスは両手を伸ばし、彼の頬を包み込む。
手のひら越しに伝わる熱。その温もりに、彼女の心が波のように満ちていく。
「あなたは――わたくしの、わたくしだけの旦那様でしょう?」
微笑みながら、彼女はそっと囁いた。
「泡になって消えてしまう妻なんて、困りませんこと?」
その言葉が、彼の心に直に触れた。
エドワードの喉が詰まり、瞳が見開かれる。
頬がみるみるうちに赤く染まり、視線を逸らすことさえできずに固まった。
「ッ……」
それは、戦場の王子でも、冷静な領主でもない。
一人の男としての、無防備な照れ。
「まあ……」
エリザベスはその表情を見て、思わず息を呑んだ。
こんな顔を見られる日が来るなんて――そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「可愛い……」
息を詰めたのは、今度はエドワードの方だった。
強張った肩がわずかに緩み、紅潮した頬に、月の光がやわらかく落ちる。
その姿に、エリザベスの胸がふわりと温かくなる。
思わず、微笑みながら呟く。
次の瞬間、彼の背に腕を回し、そっと抱き寄せた。
彼の心臓の鼓動が、すぐ耳元で響く。
それは、互いの鼓動が重なる瞬間――静かな幸福の音だった。
「愛しているわ。“エドワード”」
その名を呼ぶ声は、震えていた。
彼の息が止まり、次いで低く、深く笑う。
「ああ。俺もだ。エリザベス」
囁きながら、彼女の腰に回した手に、わずかに力がこもる。
その動きの奥に、抑えていた何かが目を覚ます。
海が静かにざわめいた。
夜の空気が、二人の間の熱を包み込み、消え入りそうな灯を映す。
言葉はいらなかった。
もう、どちらからでもなく――唇が触れ合い、時間が溶けていく。
すべての音が遠のく中、潮騒だけが、二人の愛を祝福するように優しく響いていた。
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