薄明を待つ天女達~南川下町診療所浮世草子

風鈴

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第一章

咲山紅の現実(2)

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 鈴木は、紅の態度に失望した人の危うさを見て取った。自分には未だ彼を救えるほどの能力がないし、力もない。
 鈴木もΩ保護法に触れれば触れるほどにジレンマに陥っていく自分が歯がゆい。仕事を放棄したくなるが、自分を信じてパートナーになってくれた番の匂いが、背中を支えてくれる。
「可能性はあります。今は何ら証拠もなしに警察が入ることはできないのです。ただ、Ω保護法は何年も前のことでも訴える事はできます。あなたを助けてくれた人の証拠や証言を得られる可能性もあるし、レイプ犯が自分の意思で名乗り出る可能性もあります。
 その場合訴えが認められてそれ相応の処罰が下されます。今のΩ保護法下での裁判において勝訴したのはこのような場合が大半です。ただ示談金を受け取ったにも関わらず訴えた場合は裁判すらできないと聞いています」
 婦人警官の話はもっともなことと思えたが、今の紅の心には何も響いてはこなかった。彼の耳には何一つ希望が届いていなかった。
「それじゃ、給料をもらうと言うのは簡単だけど相手が示談金と言えばそう取られるのですね。ここのお支払いもあるのでよく考えます」
『もう、忘れたい、Ωならあり得ることだと思って暮らそう。あぁ、あの時ヒノキの香りが助けてくれたから先輩のように子宮には傷がつかなかったんだ。あの後遺症は見ているのにも辛いものだった。一足飛びに久乃先生ぐらいまで歳を飛び越えたい。そうすれば発情期もなくなる。Ωでもただのβの男と何ら変わらないで生きられるのに』と切に思う。
「多分、久乃先生はもっと良いお考えをお持ちだと思います。ご相談されれば答えてくださると思います。お身体が悪い中お時間を取っていただいたのにあまり良いお話ができなくて申し訳ございませんでした。くれぐれもご自愛下さい」
 鈴木は、精一杯だった。下手なことを言ってそれが裁判沙汰になって失職しては、彼女がこれからやりたいことは何もできずに終わってしまう。キャリア官僚として上に登らなければ助けたい人々を助けられない。申し訳ないと思うが、大事の前の小事だと思って切り捨てるしかなかった。
「ありがとうございました」
 そう言って、婦人警官は紅の部屋を出ていった。残されたのは虚しさと野末病院の寮から戻って来た一抱えの紅の私物だった。ひとかけらの情けもなかった。涙も出てこない。
 紅は立ち上がる気力もなかった。わかっていた現実を説明されてその上に押しつけられ踏みつけられたようだった。窓の外の世界と紅のいる世界が、ガラスで隔てられているように思えた。
『示談金を含めて渡されたとしても、准看護師の実習生としてあと2年以上かかる。それに正看護師の専門学校は、お金がかかる』と言う。ため息が出る。『児童福祉施設で過ごしている時は、貧しいがお金の心配はなかった。あそこを出て以来、自分がお金がないからといって諦めた様々な事を指を折って数えている。抑制剤は、国費で支給されるが、それ以外は自分がお金を稼ぐ方法を探していかないとダメだ』そう思っても何から始めればいいのかが紅には思いつかなかった。
『生まれてすぐに行われる検査でΩだとわかって捨てた親を見つけ出して文句を言って溜飲を下げたいと思うが、裕福でないであろう親に何を言えるのか。Ω保護法ではΩを捨てた親にも罰則があるが、捨てられたΩの子供が訴えたという事を聞いたことがない。Ωの自分は何の為に生まれてきたのだろうか』と紅は、もう一度ため息を吐く。
 久乃は、紅が直面する現実を知り尽くしていた。Ω保護法を成立させた政治家達は良いことをしたと偉そうに高説を垂れるが、あいつらは、自分たちが簡単にΩに訴えられないように思った以上に高いハードルを用意している。約款の細かい字の如くわかりにくく、βやαが気に留めないような書き方で書かれていて、Ωには細かなハードルをいくつも用意して訴え難くしている。
 長年、久乃が産婦人科医としてこのような事件の後始末をさせられている。彼女には辟易する現実だ。公にされていないが、レイプの加害者側の精液や唾液のサンプルは警察では15年で破棄される。Ω保護法では何年前のことでも訴えられると豪語しているのに、その事はどこにも書いていない。それとこれとも公表していないが、民事事件となるΩに関する精子サンプルは犯罪DNAデータベースとは照合されない。βの被害者は照合すると言うのにΩは発情期に外をフラフラしているのが悪いからレイプされる方が悪いのだという偏った考えを持っている人が多い。その現実のひとつひとつに怒りを覚える。だから久乃は、自分が携わった事件のサンプルはもうひとつとっている。そして、自費で精子からのDNAデータを保存している。レイプ犯の中にはコンドームを使って殆ど膣内に精子が残らない場合もあるが、被害者の爪や身体に残っているささやかな物を保存している。偽善かもしれないが、幼くして亡くなった友人のことを思うとそうせずにはいられない久乃がいる。紅の場合はしっかりと採取できている。
 それよりも久乃は紅とたった3日間一緒に暮らして話をしてきたが、彼の頭の良さに驚いた。准看護師のままでおいておくのはもったいない。正看護師いいや、医師にでも大丈夫だと思えるような秀才型の彼女をΩだからといってこのまま捨ててしまったら大損害だと思い始めていた。
 しかし、そんな子だからと言って助けても本人のやる気がないと上手くいかない。お金を渡す事だけでは何の解決にもならない。Ωがこの世の中で生きるのは大変なのだ。生半可な手助けをしても本人が世の中に立ち向かって行く気構えを持つことが一番重要だと久乃は思っていた。
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